2015年12月13日

日本の金融業界の天才たち (26) 松本大、マネックス証券社長

「小トルク・高回転が好き」― 経営者「好き嫌い」対談より

 一橋大大学院国際企業戦略研究科の楠木建教授との対談です。

 楠木 「経営者の方々と仕事の場で話していると、その人が何が好きで何が嫌いか、好みがまったく分からない人が意外と多い。仕事としてのコミュニケーションはきわめて機能的で円滑なのですが、人工知能と話しているようで、無色透明でつかみどころがない。

 僕はそういう人をツルンとした人と称しているのですが、ツルンとした人と話すのはどうも苦手です。

 僕の経験ですと、金融業界のエリートには特にツルンとした人が多いように思います。松本さんといえば、開成高校、東京大学と来て、ゴールドマン・サックスの共同経営者のポストを捨ててマネックス証券を創業した男と、メディアで騒がれました。

 僕が最初にお会いしたのは10年ほど前だと思いますが、松本さんはどうも好き嫌いが分かりにくそうな人だなと思いました。」

 松本 「好き嫌いはあるのですが、あまり言わないですよね。今回、楠木さんに言われて困っちゃったんですけど。」

 楠木 「初めてお会いしてから1年ほど経った頃、都内の交差点で車高の低いオープンカーに乗っていた松本さんをお見かけしましたが。」

松本 「ロータスのエリーゼです。よく見ていましたね。」

楠木 「そのとき、もちろんやり取りはなかったのですが、松本さんはさわやかな朝、オープンカーにに乗っているのに “ものすごくイイ感じでイヤそうな顔” をしていた。この辺りの表現が難しいのですが。

 その時の表情が本当にイイ感じで、おお、この人には結構面白そうな好き嫌いがあるのかなと勝手に思ったのです。

 メディアでしか松本さんを知らない人は、好き嫌いが無い人の典型というイメージを抱いている気がします。内的な好き嫌いじゃなくて外的な合理性を基準に 「良い選択」 を繰り返してきたような。」

松本 「まさか、そんなに観察されているとは思っていませんでした。単純に好き嫌いで良いですか? たとえば、野球では巨人が大っ嫌いですね。」

楠木 「さっそくイイですね。僕も子供の頃はオレンジと緑の大洋ホエールズの帽子をかぶっていました。」

松本 「僕は黒い帽子。幼稚園の頃は大の巨人ファンでした。ところが、プロ野球では常に不公平なことが起きていることを父が気づかせてくれて、それで僕はアンチ巨人になってしまいました。

 多くの人が“強い”と思っている人物や大きいチーム、組織を何ら理由なく好きにはなりません。体制とか、そういうものが大嫌い。」

楠木 「お父さんがそういう方だったのでしょうか?」

松本 「親父は下町生まれで、体制とかあらかじめ認められている大きいものが大嫌いなのです。僕が幼稚園に通っていたとき、何かで親父に怒られましてね。なぜやったんだと聞かれて “先生がいいって言った。” と言い訳したら、親父は激怒したんですよ。 “お前は教師が人を殺せと言ったら殺すのか” と。

 その影響ですかね。逆に大きなものにチャレンジするのは好きで、たとえば本田宗一郎さんが大好きです。車もバイクも “トルクx回転” で馬力が出ますが、ホンダ製は小さなトルクを目いっぱいに回してなんぼ。みたいな高回転エンジンで、そういうのが大好きです。

 大トルクでトロトロ走るのは嫌いということですね。

 F1でアイルトンセナが1991年にチャンピオンになったときの表彰式で、本田さんと二人で抱き合って泣いている姿がありました。セナはブラジル人で当時は全くの異端。ホンダもヨーロッパ中心の体制のF1に、果敢に挑んで勝った。。。

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(次回)“メジャーへの挑戦としての投資銀行”

 (つづく)
  
 【 私の仕事術 − 松本大 】


 【 お金という人生の呪縛について − 松本大 】


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2015年06月21日

日本の金融業界の天才たち (25) 松本大、マネックス証券社長

 ( 前号までのあらすじ )

 東大法学部を卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマン・サックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。

 後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわす松本の際立った特徴は、 
” ウォール街の不夜城 ” とも揶揄 (やゆ)されるゴールドマンサックスで、一番のハードワーカーだったことだ。

 そんな松本が、せっかく耕した、豊かな実のなるデリバティブ・トレーディングを他人に譲り、それまで誰も手掛けたことのなかった新たなビジネス、証券化商品に動き、大きな成果をもたらした。そんな松本に転機が訪れる。

 個人向けインターネット証券の設立である。ところが、会社は個人向け金融ビジネスを認めず、ゴールドマンを辞める決心をする。ソニーとの共同出資でインターネットベンチャーを始める。

  ◎  ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎


 翌年平成15年秋、松本は中央区新川にあるインターネット証券の日興ビーンズを訪れた。日興ビーンズが上場することを知り、沼口秀一社長に時間をとってもらったのだ。

 松本はさっそく切り出した。
 「わが社を、御社の主幹事としていただきたいのです。」

 社長はニヤニヤしながら言った。
「まあ、お話を聞くだけ聞きます。」
「オンライン証券を上場させるのですから、オンライン証券が主幹事でもいいのではないですか。」

 日興ビーンズが上場するといっても、親会社である日興証券が主幹事にはなれない。かといって、野村証券や大和証券といったライバル会社や銀行系の証券会社にはまかせたくないのである。

 それならば、マネックス証券が主幹事になれる目があると、松本は睨んでいた。松本は言った。
「主幹事は、引き受け販売をふつうならば70%ほどのシェアをとります。しかし、わたくしどもは、シェアにこだわっていません。日興コーディアル(現:SMBC日興証券)さんの意向にしたがいます。

 主幹事をまかせて頂くだけでかまわないのです。」

 日興ビーンズの親会社である日興コーディアルから連絡があったのは、それからしばらくしてからであった。おそらく、日興ビーンズから、日興コーディアルに話が上がったにちがいない。

 松本は、話の内容に興味を高めつつ、自社のオフィスで先方が来るのを待った。ところが、担当の役員が、松本にもちかけてきた。
 「マネックス証券さんとの合併はありますか。」

 松本が、まったく思いも寄らなかった話である。日興コーディアルとしては、日興ビーンズを通じておこなっているインターネット証券ビジネスの将来像について完全に描ききれていなかった。上場させてからの明確な経営方針も打ち出せず、頭打ちとなっている面があった。

 自分たちだけでインターネット証券ビジネスを進めるよりは、マネックス証券と手を結んだほうがメリットがあると判断したのだろう。

 一方マネックス証券にとっては、当時、黒字化を達成していい感じで伸びていた。合併の必要性は特に感じていなかった。

 だが、マネックス証券の将来性を考えた。インターネットによる個人投資は、順調に増えている。株価も右肩上がりをつづけていた。しかし個人投資家の流入は今後どのように増えるかは、読み切れない。

 松本は思った。

 「マネックス証券が、こじんまりとした会社のままでよしとするのなら、いまのままで構わない。しかし、マネックス証券は、自分の命が終わった後も生き続ける企業体にしたい。」

日興ビーンズ証券と合併することで、一歩先の展開ができるのではないかと思えた。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 しかしその一方で、いざというときがある。不慮の事故などで、松本が機能できなくなったときには、顧客や株主に迷惑がかかることになる。その際、大株主であるソニーが特別な援助ができるか。業界が異なるので難しい。

 (大手証券である日興コーディアルグループが、マネックス証券の大株主となっていれば、援助できる人材をマネックス証券に送り込んで支えることもできる。顧客や株主に迷惑がかからずにすむ。)

 松本は、日興ビーンズとの合併交渉に入った。二日目に日興コーディアル側と会った際、書類を提出した。マネックス証券の経営方針、合併に際して譲れることと譲れないことを明確に記したものであった。

 それは、かつて交渉だけで終わってしまった合併話の教訓があったからである。

 「合併交渉は、初めにすべてをわかりやすくすべきだ。」
時間とエネルギーをかけて交渉したにもかかわらず、合意にいたらないと精神的なダメージが大きい。そのうえに、マネックス証券としての戦略も止まってしまう。

 交渉を進める間、松本は、経営統合を前提に色々なことを考えるからである。経営統合をしない場合のシチューションは考えなくなる。

 日興コーディアルグループとの交渉は、口頭による基本合意に至るまでには一か月ほどしかかからなかたった。経営統合を発表したのは平成16年3月19日。合併の話がでてわずか3か月後だった。

 松本は、当日の午後2時半、金融庁証券課長に電話を入れた。
「日興ビーンズ証券と経営統合することにしました。」
 「エー !?」
証券課長は驚きの声をあげた。

 「いつ、発表するんですか!」
「3時過ぎです。」
 「エッ、今日ですか?」

 「今日です」
「30分後にですよね?」
 「はい、そうです。」

 「30分後ということは、プレスリリースとかは全部できているんですよね。」
「当然、できています。」
 「今送ってもらえますか?」

 「いや、できませせん。TDネットに入れてから送らせていただきます。」

 松本は、証券課長との電話が終わると、マネックス証券の部長クラスを集めた。このときはじめて、社員たちに統合合併を知らせた。松本は、おどろく社員たちを尻目に、あらかた話した後にいった。

 「じゃあ、わたしは、これから東証に行くから、後は工藤から聞いて下さい。」

 松本は、マネックス証券と日興ビーンズ証券との経営統合についてはどこにも漏らさぬように、細かなところにまで目を配っていた。M&Aにかかわる情報が外に漏れることは、金融のプロフェッショナルである証券会社の沽券にかかわる。

 松本は、あらかじめ、監督官庁である金融庁に話さなくていいのかと忠告を受けたこともあった。しかし、あえて報せなかった。

 経営統合はきわめて適法である。それならば、情報管理のうえでも、わざわざ情報が漏れる可能性があるリスクは負わないほうがいい。そう判断して、金融庁や社員にも報せなかった。

 ただ、主要な株主は、さすがに総会を通す関係もあるので事前に知らせた。東京証券取引所関係者が、松本をほめた。

 「これほどの経営統合にもかかわらず、外にまったく漏れなかったなんてめずらしいですね。」

 松本は、経営統合を発表してから、パートナーとなった、当時の日興ビーンズ社長である小笠原範之と話した。小笠原が言った。

 「おれたちは金融のプロだ。プロがM&Aをやる以上は、絶対に結果を出そう。」

 人事もあいまいな形をとらないと話し合った。銀行と銀行のあいだの経営統合でも、人事面では苦労しているようであった。たがいの銀行にある同じ部署をただ統合するだけで、統率する管理職も、共同部長のような肩書をつくり、いたずらに規模が大きくなってしまった。

 これではとてもメリットが出せない。あくまでも統合した組織に応じた部をつくり、適切な人材を配置した。そのことが、上場している企業として、株主、顧客への責任を果たすことにつながった。

 松本と小笠原は、メリットが確実に出るように実行した。合併する前に、日興コーディアルグループから日興ビーンズに出向している社員はすべて出向を解除した。そのうえで、合併会社に骨を埋める覚悟のある社員は、転籍した。

 合併に際して、感情的な行き違いがなかったといえば、嘘になる。それでも、自分たちのお客様のために、新しくて良いものを提供していこうという気持ちは変わらなかった。その共通の意識のおかげで乗り越えた。

 平成17年5月に、マネックス証券と日興ビーンズ証券は合併し、システムを統合した。システム統合の際には、どちらのシステムを使用するかという議論からはじまり、どっちつかずのまま新たなシステムを作り上げるしかないということもある。

 小笠原とは、そのようなことは絶対にやめようと話し合った。

 はじめのうちは、どちらが機能的かといったこともわからない。しかし、マネックス証券と日興ビーンズのシステムを見くらべたとき、日興ビーンズのシステムの方が新しく、キャパシティがあった。

 システムは、いつ作られたかが重要で、決定的といってもいい。新たにつくられたシステムのほうが、技術、考え方で進んでいる。

 マネックス証券は、それまで運用していたシステムを捨てた。それまでマネックス証券で蓄積したデータを日興ビーンズのシステムに移し変え、マネックス独自の機能をつけくわえた。

 M&Aを行うことによって、コストを削減するとよくいう。だが、実態としては、M&Aによるコスト削減はなかなかできるものではない。それを、マネックス・ビーンズでは、20%ものコストを削減できた。

 マネックス証券は、設立から4年、気づかぬうちに、マネックス証券の色ができてしまっていた。広く大勢の人にサービスを提供していく会社としては、必ずしも良いことではない。多様な価値観に対応できなければならないと松本は思っていた。

 日興ビーンズと経営統合したことにより、バランスがよくなった。よい意味で、普通の会社となった。さらに、証券ビジネスを進めていくうえで、簡単には採用できない、簡単には訓練できない特殊な専門的な人材がどうしても必要だ。

 そのような人材も、合併によってより強い地盤ができた。マネックス証券は、企業としては理想のまだ半分くらいにしか手が届いていなかった。平均年齢も37歳と高い。が、これからは、もっと若い人材を入れて、大事な部分はしっかり共有していく。企業として永遠に生き続けなければならない。

 そのことに気付き、新卒採用をはじめた。

 世の中が変われば、商品も変わる。商品の出し方も変わる。しかし、どのような理由があったとしても、顧客をだますようなことがあってはならない。そのような大切な部分は、企業原理としてしっかり持ちつづける。

 松本は、ほかのベンチャー企業経営者とはちがった雰囲気がある。つねに後ろから追いかけられている感覚があるらしく、なにごとも急いでやらないと気持ちが悪い。せっかちである。

 松本は、タクシーに乗って取引先に出かけるときでも、タクシーの運転手にまかせることはない。携帯でビジネスの話をする一方で、タクシーの運転手に道順を細かく指示する。そうしないと気がすまない。

 その性格だからこそ、わずか半年たらずの間に、マネックス証券の形を作り上げ、ビジネスチャンスをつかみとってきたともいえる。

 ただ、松本は、インフラをつくるといったことをはじめとした遠大な構想も抱いている。松本は、 「世界水準」 という言葉を口にする。顧客を第一に考えるコアな考え方はしっかりと抱きつつ、世界水準に見合ったサービスを出していきたいのだ。

 「世界水準」 とは、必ずしも高度な専門的な商品を並べるばかりではない。どの金融商品に投資すればいいのかわからないお客様にも、「これに投資すればよろしいのではないでしょうか」 と適切なアドバイスができ、個々の投資家の条件に合った商品がつねにそろっている状態。

 それが、世界にも胸を張れる金融機関だと思う。マネックス証券は、つねに、現在よりも一歩先の金融をデザインしつづけていく。それが社名の由来だ。

 松本自身は、いずれこの世を去る。松本だけでなく、いま松本とマネックス証券を発展させている社員たち、いまの組織の形態もなくなる。だが、マネックス証券の名前は残る。組織は生きていくし、変化をつづけていく。

 だからこそ、松本の夢は完結しない。

 「いまの感じなら、これから先も、マネックス証券は生き続けるかもしれない。」
息を引き取る瞬間にも、せいぜいそう思えるようにしたい。創業当時の理念だけは忘れずにいる。マネックス証券を、そのような会社にしていきたいと思っている。

 (おわり)
 
 ( 「私の仕事術」 松本大 )


 ( 「お金という人生の呪縛について」 松本大)
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2015年02月28日

日本の金融業界の天才たち (26) 松本大、マネックス証券CEO

  松本大の思考整理、情報整理術

" 平日は毎日800字 「つぶやき」 で思考整理。朝風呂に入りつつ情報収集。”
 
情報収集はビジネスマンにとって必要不可欠なものの一つだが、ニュースを定番の日経新聞だけに頼っていてはもはや十分ではない時代に入った。私の情報収集も今やネットが中心となっている。ネットは早いし、幅も広い。仕事をしていくうえでは網羅的に情報を知っておくことも必要だ。浅く知って、興味あるところを掘っていくのが効果的だ。

まず大事なのは、情報を得るための下地をつくることだ。例えば、Yahoo! ニュースは、主要ニュース、経済、IT、国際、エンタメ、地域とジャンルが多岐にわたっており、見出しを見るだけでも世間で起きていることがわかる。

情報収集は幅広く、バランスよく取ることが基本だ。ビジネス情報では 「Newspick」というニュースアプリをよく使っている。経済ニュースを中心に、各界の専門家のコメントが一覧できて、世間のさまざまな見方を効率よく知ることができる。また、「Newsstand」という新聞・雑誌アプリもいい。ニューヨークタイムズをはじめ、ビジネス、テクノロジー、ファッション、旅行、映画、芸術などさまざまなジャンルのニュースを無料で読める。

もちろん、これらのすべてを読むことはできないが、ぱらぱらと見出しを見るだけでも、それだけで世界のパースペクティブ (大局観) について触れることができるだろう。ウォール・ストリート・ジャーナルなどの英字新聞は、日本では報道されていないが、世界各地でいろんな重要な問題が起こっていることを教えてくれる。

世界のパースペクティブを持つうえでは非常に役に立つ。もっとも、本当にビジネスに使える情報については、その分野に詳しい専門家のリサーチレポートを入手するか、専門家に直接ヒアリングしている。

情報収集するときには、主に朝の時間を使う。朝は午前6時くらいに起きて、まず朝食を食べる。その後、風呂に入りながら30分〜1時間かけて、メールとネットのチェックをする。

最近、ソニーのZ2という防水タブレットを買ったのだが、これが便利だ。iPadより軽く、完全防水のおかげで、風呂でも使えるのだ。体をリフレッシュしながら、情報を得られるようになったことで効率の良い時間を過ごせる。

会社に出勤したあとは、日中のスケジュールはほとんど埋まっている。毎日18時〜19時までミーティングがあり、その後は必ず会食が入る。

ワインか日本酒は必ず飲むから、帰宅後は仕事といっても海外に電話するくらいで、午前1〜2時までには寝る。経営者によっては一人で沈思黙考する時間をもつ人もいるが、私の場合、一人で考え込む時間はまずない。

人と話すほうが考えがまとまるし、新しい考えも出てくるというタイプだ。普段はとにかく考えることよりも、大量に情報を頭の中に流し入れ、濾過させて、要らないものをどんどん捨てるようにしている。濾過して捨てる作業をすることで、本当に必要な情報が引っかかってくるのである。

" 言語化は最高の思考訓練 "

その意味で、私のとって重要な仕事が、マネックス証券のホームページで毎日アップしている 「松本大のつぶやき」というコラムを書くことだ。15年前ほどから毎営業日書き続けている。休載したことは一度もない。
内容は、あるニュースをテーマにすることもあれば、まったく世の中に関係のない、夏バテした自分の話を書くこともある。

「つぶやき」はマネックスンのメールマガジンで60万通ぐらい。ブログも含めれば、実際何人読んでいるかわからない。文字量は毎日平均して800文字。話題を決めたとしても、書くためにはきちっと調べものをしなくてはならない。

そうやって「つぶやき」を書くために毎日1時間くらいの時間を使う。取材の合間やミーティングの合間など、細切れ時間の10分を使い、ときには時間がない強烈なプレッシャーの中で一気に書き上げることもある。
大事なことは、自分で情報収集して、処理して、それを文章にする、言語化するということだ。

それは必要な情報を引っ張ってきて、自分の思考をアウトプットする訓練になるからだ。そのために生活リズムを整えて、集中できるリズムを生み出していく。そもそもホモ・サピエンスの最大の特徴は言語である。

文章をきちんと人にわかるように構成し、それを表現する訓練は、仕事をしていくうえでも欠かせないものだ。つまり、アウトプットするということは、コミュニケーションする情報を取ることと同じかそれ以上に等しくビジネスマンにとって重要な能力なのである。

 ( 「私の仕事術」 松本大 )


 ( 「お金という人生の呪縛について」 松本大)
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2015年01月20日

日本の金融業界の天才たち (24) 松本大

Oki Matsumoto.jpg

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 ( 前号までのあらすじ )

 東大法学部を卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマン・サックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。

 後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわす松本の際立った特徴は、 
” ウォール街の不夜城 ” とも揶揄 (やゆ)されるゴールドマンサックスで、一番のハードワーカーだったことだ。

 そんな松本が、せっかく耕した、豊かな実のなるデリバティブ・トレーディングを他人に譲り、それまで誰も手掛けたことのなかった新たなビジネス、証券化商品に動き、大きな成果をもたらした。そんな松本に転機が訪れる。

 個人向けインターネット証券の設立である。ところが、会社は個人向け金融ビジネスを認めず、ゴールドマンを辞める決心をする。ソニーとの共同出資でインターネットベンチャーを始める。

  ◎  ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 マネックス証券が上場して1か月ほど経った頃、法務大臣の諮問機関が商法(会社法)の抜本的な改正作業を進めはじめた。その議論のテーマの一つに、単位株制度もあった。当時の商法では、一株を二株に分けるといった株式分割を行う場合、一株あたりの純資産(自己資本)額が5万円以上になると規定していた。

 しかし、ベンチャー企業などは、土地や建物などの資産が乏しい反面、知的財産の価値から株価が高騰する場合も多い。このため、ベンチャー株を分割して小額化しようとしても 「純資産5万円以上」 の制限に触れる例が出ていた。

 「ベンチャー企業の市場を形成するためになるべく改正すべきだ」 と制限撤廃を求める声が経済界からも上がっていた。塩崎恭久衆議院議員は松本に相談を持ちかけた。

 塩崎は、商法改正の単位株制度にかかわる議論では、マネックス証券の手法が注目されていると語った。上場前に株主割当増資をする形で事実上の分割をしたマネックス証券の手法を使えば、わざわざ商法改正しなくても、ひと株あたりの株価が安くなるというわけだ。

 松本は塩崎に話した。

 「うちがしたような手法は、あくまでも未上場の企業が上場する際に使える手です。ヤフーなどのすでに上場している企業では、現行の制度では下げようがありません。」

 塩崎はそのことを法務関係の議員に話すよう頼んだ。その後、松本は法務大臣であった保岡興治を部屋に訪れ、力説した。

 「単位株制度を見直さないと、資本市場は良くなりません。個人の貯蓄を、市場へと動かすのは無理です。」 松本が主張したのはあくまでも一点だけであった。

 「5万円という一株純資産規制をなくすべきだ。5円とか50円とかにすればいいじゃないですか。」  しかし、そのうち松本の話からはずれ、いつのまにか保岡と塩崎との間で政治的な貸し借りの話に発展していった。

 「ちょっと待って下さい。いまは、政治の貸し借りの話をしている場合ではありません。これは大変重要な問題なんです。」 と松本は語った。

 「うるさい! 政治家が解決の話をしているのに、口出しをするな。」 と保岡が怒鳴り声をあげた。ただし、法には立法した趣旨がある。その反対に、廃法するにはそれだけの趣旨が必要だというのである。

 松本は、その後、東証、金融庁、法務省とも掛け合った。
2,3か月して突然に、新聞に見出しが躍った。

 「単元株制度導入へ」

 単元株制度とは、株式を発行する企業が、一定の株数をまとめて一単元とすることができる。証券取引所では、一単元が売買単位となる。株式発行会社としては、単元末端の株、その管理コストなどのコスト削減ができる。

 企業としては、単元末端の株、その管理コストなどのコスト削減ができる。株主を増やしたい発行会社は、一単元の売買単位を引き下げられる。株式の売買単位の引き下げにより、少額で株式投資ができるようになる。

 松本は、一資本市場人として、個人が証券投資に参入しやすい道をつくった。

 いっぽう、松本はその頃、副社長である工藤恭子とともに港区北青山にある 「uraku」 のレストラン 「ジョアン」 をおとずれた。

 「こんなところで商談なんて、金融関係ではめずらしいね。」 金融界で商談となれば、銀座界隈で和食を囲むのが通例となっていた。

 マネックス証券にとって他の金融機関と接触するのは初のことである。相手は、クレディセゾン。クレディセゾンの子会社であるセゾン証券とマネックス証券が合併できないかと打診してきたのである。

 ちなみに 「uraku」 の名は、安土桃山時代に千利休を師事して、有楽流の茶道の祖ともなった織田有楽斎にちなんでつけられ、クレディセゾンが経営していた。

 松本と工藤を迎えたのは、クレディセゾン社長である林野宏、常務の豊條慎治だった。林野としても、資産評価などの手続はさておき。。。 ここから先はメルマガを購読してお楽しみ下さい。

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( つづく )

 ( 「私の仕事術」 松本大 )


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2014年11月29日

日本の金融業界の天才たち 松本大 (23)

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松本大が “愛され社長” である理由
 『 いたずらっ子の小学生がそのまま大人になったような感じ 』

【 連載記事は下記のカテゴリー欄より通してご覧になれます 】

 東大から外資系証券に入り大活躍して、金融ベンチャーで大成功。その経歴からは近寄りがたい切れ者の印象を持つが、その実態は、かなりのゆるキャラ。でもそれこそが彼が周りから愛される理由。

  ゴールドマン・サックス証券時代は伝説のトレーダーとして莫大な利益を上げ、30歳にして最年少のゼネラル・パートナーに昇りつめる。だが、数十億円といわれる会社の上場利益を目の前にしながら、独立起業して、35歳でインターネット証券界に進出。

 以来、マネックス証券は金融界で常に注目を集める存在であり続けている。しかも、今年9月にはテレビ東京の大江麻里子アナウンサーとの結婚を発表した松本大社長。どうしても切れ者のエリートを想像してしまうのだが、女性社員の評判を聞くとどうもそうではなく、愛され社長のようだ。

 「いたずらっ子の小学生がそのまま大人になったような感じ。」
 「コミカルに踊りだすこともある。」
 「外資系証券のパートナーだったのに発音がカタカナ英語で驚いた」

 「出社時によく鼻歌を歌っている」

 「嬉しいと “やっほーぃ!” と叫ぶ」
 「大好きなおやつのえびせんべいを歩きながら食べる」

 「アイドルが大好きで意外とミーハー」
 「社長室がないから直接話せる。父親みたいな存在。」
 「所持品が意外に庶民的。ひとつのものを大事に使う。」

 「立ち食いそばに行ったりする。」
 「飲み会で社員といっしょになって宴会芸をやっていた。」

 証言の数々は、彼がゆるキャラ的 “愛され社長” であることを教えてくれる。

 「 えっ!? そんなにゆるいかな。これでもゴールドマン時代は、いつもNYの本社とやりあっていて、怒鳴ったりケンカしたりが普通。当時の仲間には “お前からは返り血の匂いがする” と言われたくらいです。

 15年前のマネックス証券立ち上げの時期も同じようなもの。気を張ることで、プレッシャーを跳ね返していたのかもしれません。まあ、でもこの10年くらいは、確かに穏やかになったかも。自分で動かなくても、周りがしっかりやってくれるので、暴れる必要がなくなりましたし。

 性格も自分の周りにクッションができたような感覚があります。」 と語る。

 女性社員の証言を聞く限り、彼女たちにとって松本社長のクッションは相当柔らかいようだ。
「自分を理解してくれる仲のいい親戚のオジサンという印象です。凄い人だとは分かっているんですが、なんだか可愛いんですよ。」 との女性評。彼のような切れ者なら、そのギャップも魅力的なのだろう。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 松本大 (まつもとおおき)− マネックス証券代表取締役社長 CEO。1963年埼玉県生まれ。東京大学法学部卒。ソロモン・ブラザーズ・アジア証券を経て、ゴールドマン・サックス証券に入社。30歳で最年少ゼネラル・パートナーに就任。1999年に独立してマネックス証券を設立。

 (引用: 「 GOETHE 2015年1月号 」 “愛されオトコになる基礎講座” )


 ( 「私の仕事術」 松本大 )


 ( 「お金という人生の呪縛について」 松本大)


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2014年09月23日

日本の金融業界の天才たち (22) 松本大 まつもとおおき

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 ( 前号までのあらすじ )

 東大法学部を卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマン・サックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。

 後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわす松本の際立った特徴は、 
” ウォール街の不夜城 ” とも揶揄 (やゆ)されるゴールドマンサックスで、一番のハードワーカーだったことだ。

 そんな松本が、せっかく耕した、豊かな実のなるデリバティブ・トレーディングを他人に譲り、それまで誰も手掛けたことのなかった新たなビジネス、証券化商品に動き、大きな成果をもたらした。そんな松本に転機が訪れる。

 個人向けインターネット証券の設立である。ところが、会社は個人向け金融ビジネスを認めず、ゴールドマンを辞める決心をする。ソニーとの共同出資でインターネットベンチャーを始める。

  ◎  ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 いつも松本に厳しくインターネット証券への参入に反対していた、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券でのかつての上司、当時ホライゾン・キャピタルにいた明神茂も、マネックス証券の業績を見て、松本に頭を下げた。

 「参った。恐れ入りました。」 さらに言った。

 「一株あたりの値段も、株数も、全部おまえのいうとおりでいい。買う。」
 かつて松本がインターネット証券のビジネスモデルを提案したことがあるゴールドマン・サックス証券も、マネックス証券がうごきはじめると、 「出資したい。」と申し入れてきた。

 平成12年1月、マネックス証券は、私募による増資を行った。明神茂がCEOを務めていたチューダー・キャピタル日本法人、ゴールドマン・サックス、ジョージ・ソロスが設立したソロス・ファンド・マネジメント、元ソロモン・ブラザーズの天才債券トレーダーであったジョン・メリウェザーのファンドが出資した。

 ソニーをはじめとしてマネックス証券に出資してくれたのはやはり、それまで松本が培った信用がなせる業である。松本にきわだった業績がなければ、賭けようがない。信頼というのは大きい。

 ただし、松本は、自分を支えてくれたなかでもっとも大きな存在は、やはりソニーとCEOの出井伸之だと思っている。マネックス証券だけでなく、日本のインターネット証券、ひいては、オンライン金融界の、ゴッドファーザーのひとりだと思う。

 インターネット証券は、そのころ、異端であった。そこに新しい風を吹き込み、大衆化したのがマネックス証券であると松本は自負している。しかし、ソニーとソニーCEOの出井が、マネックスへの出資を考えなかったとすれば、これほど早くインターネット証券が広まったかどうか。

 ソニーという株主がいなければ、マネックス証券に信用ができなかっただろう。

 ひいていえば、ソニーがマネックス証券に出資しなければ、インターネット証券も、インターネット証券があったからこそ広がったインターネットバンキングもここまで発展することはなかった。

 その意味では、ソニー、出井は、日本のインターネット金融の生みの親といってもおかしくない。

 松本は、平成12年1月、創業メンバーである工藤恭子らに話した。
「 よし、上場準備をはじめよう。」 松本自身としては、それほど大それたことをしているとは思ってもみなかった。だが、工藤らは腰を抜かさんばかりに驚いた。

 松本は、マネックス証券を東証に上場させるにあたって考えた。
「個人のためのインターネット証券」 の名にふさわしい株価に引き下げよう。

 弁護士や役所に確認をとったうえで、上場前の平成12年に、3回にわたって株主割当増資をおこない、これまでの一株を事実上の64分割にした。

 このことによって、上場の際には、一株あたりの公募価格を4万5千円にまで引き下げることができた。準備をはじめて7か月後の平成12年8月には上場を果たした。

 開業から16か月での株式市場への上場は、当時としては最速であった。上場では60億円の資金を調達できた。その後赤字を続けていたので、50億円ほどの累損を作った。

 個人投資家を中心とした投資のおかげで、ビジネスモデルや理念を変えずに事業を続けられた。それでも耐えられたのは、それだけの資金を調達でき、十分な基盤ができたからである。

 松本は思っている。
「上場直前のゴールドマン・サックスを辞めてまでマネックス証券を設立したのは、正しい判断だった。」 あの時点で、経済的なことに眼がくらんでやりたいことができずにいればむしろ、ゴールドマン・サックスのお客を裏切ることになる。

 心はそこにないのに、経済的に潤うことばかりを考えていれば、金融界では相手にされなくなっていたに違いない。

 ちなみに、マネックスが東証一部に上場するときには初値12万円をつけた。ソニーが元々は約半分の持ち分を所有したマネックスの時価総額は2,500億円にもなった。

 持ち分はしだいに比率を減らしていき、5%ほどになったが、ソニーは、500億円から600億円の利益をマネックスからあげた。

 (つづく)

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 (引用: 「私の仕事術」、「リスクテイカ− ネット金融維新伝」 )










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2014年04月13日

日本の金融業界の天才たち (21)

( 前号までのあらすじ )

 東大法学部を卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマン・サックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。

 後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわす松本の際立った特徴は、 ” ウォール街の不夜城 ” とも揶揄 (やゆ)されるゴールドマンサックスで、一番のハードワーカーだったことだ。

 そんな松本が、せっかく耕した、豊かな実のなるデリバティブ・トレーディングを他人に譲り、それまで誰も手掛けたことのなかった新たなビジネス、証券化商品に動き、大きな成果をもたらした。そんな松本に転機が訪れる。

 個人向けインターネット証券の設立である。ところが、会社は個人向け金融ビジネスを認めず、ゴールドマンを辞める決心をする。ソニーとの共同出資でインターネットベンチャーを始めようとするが、厚い壁にぶつかる。

  ◎  ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

平成11年4月にマネックス証券を設立してから、インターネット証券取引がはじまるまでの半年の間、工藤恭子は息つく暇がなかった。人材集め、証券業のライセンス取得、システム構築までと、あとで振り返ると、よくぞできたと思うほど準備で駆けまわっていた。

 人材は、初めは人づてで紹介してもらうことが多かった。そのうち、マネックス証券や松本大がメディアに取り上げられると、松本のかつての知り合い、同級生が集まってきた。そのことで、人材採用はずいぶんと楽になった。しかも、集まってくるのは、これからの先行きが不透明であることを承知できた人ばかりであった。

 もともと公認会計士でさまざまな会社を見てきた工藤である。4人で会社を興したときから、ガバナンス、内部統制といったことへの意識は強かった。

 そのような意思決定機関、プロセスづくりといった会社としての仕組づくりを、ビジネスのシステムづくりと並行するのは大変だった。

 しかし、マネックス証券は、ただ手っ取り早く、簡単に株式売買ができるディスカウントブローカーまがいのことをしようとはまったく思っていなかった。普通の人たちが、投資をするのに必要なのは何かという思いが原点にある。

 だれもが、松本の理念をいっしょに実現したいと強く思っていた。新しく、いいものができる。そう信じていた。床の上で寝る日がつづいても、だれひとりとして不平を口にしなかった。

松本は、株式委託手数料が完全自由化される10月1日に営業を開始することを発表するとともに、売買代金100万円までの委託手数料を千円にすると発表した。インターネットを活用する通信取引に特化した証券会社は、従来と比較して大幅に割引した手数料体系を公表しているが、千円はこれまでの最低であった。売買代金が100万円を超える場合には、売買代金の0.1%である。

 株価を指定する指値注文は、売買代金120万円まで1500円。120万円超で同代金の0.125%とする。注文は24時間体制で受け付ける。電話注文は別料金を適用する。

 記者会見の冒頭に、ソニー社長の出井があいさつをした。さきほど松本が見せたパッケージについても触れた。

 記者会見の冒頭に、出井があいさつをした。さきほど松本が見せたパッケージについても触れた。

 「今日は、ソニービルもマネックスの垂れ幕がかかっていて、ソニーがマネックスに占領されたみたいだ。まさに、この写真は象徴的です。これから、松本さんとマネックスにはソニーというプラットフォームを使って頑張って頂きたい。」

 松本がルール違反ぎりぎりのところで仕掛けたウィットに、出井は応えてくれたのである。マネックス証券は、開業前の平成11年8月には私募による増資により、興銀リース、JPモルガン、リクルートからの出資を受けた。

 JPモルガンは、ゴールドマン・サックス時代にいつも競り合っていた。東京支店長のバート・ブロードマンは、松本大が新しく会社を設立したことで、

 「同じサイドに立ってフロントビューを見たいと思った。」 といって出資してくれた。つまり、ジェットコースターの一番前の席に座る。今までは闘っていたけれど、「新しいことをやるというので、同じ側に立って一番前の席で、同じ景色を見たいと思った。」と語った。


10月1日、いよいよ株式売買委託手数料が自由化されるとともに、マネックス証券には講座開設の申し込みが殺到し混乱した。松本らが予想した以上であった。

 実際の取引がはじまると、アクセスが予想の2倍以上にもおよんだ。オペレーションがついていけず、システムが停まってしまったこともあった。

 だが、マーケットは動いている。抗議の電話も殺到した。
「いったいどうしてくれるんだ。」 システムが立ち上がったころには、たびたびシステム障害が起こった。それも、いつも違う形であった。

 コンピュータシステムも、バックオフィスのさまざまな作業については、大手会社に委託していた。

 業者には、あらかじめ、どれほどのキャパシティが必要かと伝えてあった。その数字は、マネックス証券にソニーが出資していること、松本がゴールドマン・サックスのパートナーであったことなどを織り込んだものであった。
 
 委託業者は、その場では、松本の行ったことを了承した。だが、その数字を信じてはいなかった。「そこまでいくわけがない。」 松本が依頼した数字よりも低いキャパシティしか用意しなかった。そのために、オペレーションが間に合わなかった。松本は思った。

 「やっぱり、ベンチャー企業の扱いはそのようなものなのか。」

 (つづく)

(引用: 「私の仕事術」、「リスクテイカ− ネット金融維新伝」 )







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2014年03月09日

日本の金融業界の天才たち (20)

( 前号までのあらすじ )

 東京大学法学部を卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマン・サックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。

 後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわす松本の際立った特徴は、 ” ウォール街の不夜城 ” とも揶揄 (やゆ)されるゴールドマンサックスで、一番のハードワーカーだったことだ。

 そんな松本が、せっかく耕した、豊かな実のなるデリバティブ・トレーディングを他人に譲り、それまで誰も手掛けたことのなかった新たなビジネス、証券化商品に動き、大きな成果をもたらした。そんな松本に転機が訪れる。

 個人向けインターネット証券の設立である。ところが、会社は個人向け金融ビジネスを認めず、ゴールドマンを辞める決心をする。ソニーとの共同出資でインターネットベンチャーを始めようとするが、厚い壁にぶつかる。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 インターネット証券は、これまでにないビジネスである。どれだけの利益を上げるかといった証拠はない。可能性のあることを力説するしかなかった。しかも、はっきりと書面にすると、反対派に粗を探して潰されるかもしれない。

 プレゼンでは、やはり、ソニー役員たちからいろいろとつつかれた。松本は、開き直り、啖呵を切った。

 「 金融とITは流れが速いから、わたしの頭が計画書です。」

 松本は、十分ほどのプレゼンをすませて、その場から帰るはずだった。そこから先は、ソニーの事務局が用意した議論を促進するための、インターネット証券のマイナス面のプレゼンがおこなわれることになっていた。

 役員たちは、それを聞いたうえで、インターネット証券に出るべきかどうかの議論を戦わせることになっていた。そのような場に、松本がいては、さすがにソニーの役員たちが議論もしにくくなると思っていた。

 ところが、出て行こうとする松本を、CEOである出井伸之が引きとめた。
「松本君、そこに残って」
 さすがに、ソニーの事務局はやりにくそうだった。

 そのプレゼンが終わって、役員の議論が始まった。プレイステーションの開発者で知られるソニー・コンピュータエンタテインメント代表取締役の久夛良木健は、松本が隣にいるにもかかわらず、平気で言ってのけた。

 「こんなビジネスプランはめちゃくちゃだ。実績もないのに何でこんなことが言えるんだ!」
 松本は、久夛良木の横顔を見ながら、胸の内で食ってかかっていた。

 ( そうは言われても、あなたがプレイステーションをつくった時に、実績があったのですか。新しいもの作るときに、実績なんてないでしょう)
その場では、辛らつな議論が続いた。さすがに、松本にはきつい時間であった。

 松本は、出井に、 「助けて下さい。」 と、目で救いを求めた。しかし出井は、その場では、松本に助けを出そうとはしなかった。松本は、激しい議論を聞きつづけるしかなかった。

 そのうち、法務担当の役員に責め立てられた。
「ソニーが追加出資しない、このビジネスから降りるといわれても、マネックスさんは、インターネット証券を続けるつもりですか。」 松本は、あえて堂々と答えた。

 「もちろんです。それだけ、このビジネスには自信を持っています。」議論は、1時間以上続いた。ここまでマイナス面を持っているということは、ソニーでは、大半が反対しているようにも思えた。

 松本は、半ば観念した。
(これでは、この提携話は無くなるだろう。)
ソニーから、松本に連絡が入ったのは、それから3週間ほど後のことであった。

 「事業会社化が、決定しました。」
それも、出資比率が、松本が51%、ソニーが49%だという。プレゼンのときには、ソニー側はこう言っていた。

 「うちが100%、もしくは51%でやるか、そうでなければ、20%とか10%としたほうがいい。要は、きちんと経営のコントロールを持つか、あるいは、松本さんの事業として徹底したマイノリティを持つかだ。」

 そのような議論が大半を占めていたのに、なぜ事業化を決定したうえに、松本側に51%という過半数をとらせたのか。松本には、いまだに謎である。しかし、松本は、マネックス証券を自分の力で設立することの難しさも感じていた。

 あるとき、国内に出張に出かけることになり、ゴールドマン・サックス時代からの秘書でマネック証券設立のためについてきてくれた牧野に、チケットの手配を頼んだ。

 牧野は、ゴールドマン・サックス時代から6年もつきあっている旅行代理店の担当者に依頼した。松本がゴールドマン・サックスのパートナーのときには、急にニューヨークに出張しなくてはならないということもあった。その担当者はすぐに手配してくれた。

 それも支払いは後払いであった。ところが、その担当者は、とても言いずらそうに牧野に行ったという。
 「現金を前払いでお願いします。」 
松本は、ベンチャー企業の信用の低さをつくづくと感じた。

 オフィスの電話代にしても、ふつうに契約できなかった。いろいろと探して、NTT提携のクレジットカードをつくると、掛けで払うことができるというので、それだけのためにクレジットカードを作った。それほど、ベンチャー企業の信用が低い時代であった。

 (つづく)

(引用: 「私の仕事術」、「リスクテイカ− ネット金融維新伝」 )







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2014年01月13日

日本の金融業界の天才たち (19) 松本大

 ( 前号までのあらすじ )

 東京大学法学部を卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマン・サックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、東京金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。

 後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわす松本の際立った特徴は、 ” ウォール街の不夜城 ” とも揶揄 (やゆ)されるゴールドマンサックスで、一番のハードワーカーだったことだ。

 そんな松本が、せっかく耕した、豊かな実のなるデリバティブ・トレーディングを他人に譲り、それまで誰も手掛けたことのなかった新たなビジネス、証券化商品に動き、大きな成果をもたらした。そんな松本に転機が訪れる。

 個人向けインターネット証券の設立である。ところが、会社は個人向け金融ビジネスを認めず、ゴールドマンを辞める決心をする。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 おそらくソニーの出井からの指示であったに違いない。ソニーとの交渉は、それからも続けられた。交渉がはじまってからおよそ4か月たった3月の終わり、ソニーから新たな提案があった。
「出資比率は、50対50で企画会社をつくろう。」

 もちろん、束ねるのは松本である。松本は、そこではじめて、ソニーの条件をのんだ。そしてその直後、松本宛てにゴールドマン・サックスからの郵便が届いた。
「松本を、競業禁止の義務から外す。」 その通達であった。

 これでできる。。。よろこびを噛みしめた。
ところが、その夜、松本はテレビの報道番組を見ていて驚いた。

 「ソニーがインターネット証券を設立するということです。名前は、マネックス。」 どこから漏れたのかは分からない。しかし、まさに間一髪であった。ゴールドマン・サックスから、競業禁止義務から外すとの通達を受けていなければ、とんでもないことになりかねなかった。

 ただ、その報道からだけでは、いかにもマネックス証券がソニーのもののような印象を受けてしまう。
「これは大変だ。」 はじめに登場するときの印象は、とても大切である。松本は、松本なりに、どのように表に出すかは考えていたが、それよりも早く出てしまったのである。

 松本は、知り合いの日経新聞デスクに電話を入れた。
「マネックス証券は、ソニーがやるのではなく、僕がやるのです。」 そのデスクとは長い付き合いで、信頼していた。会社設立を発表するときのことを考え、3ヶ月も前から話はしてあったのである。

 もう一度、話をして、日経新聞の最終版に間に合うようにしてもらった。3月27日、マネックス証券設立の記事は、日経新聞朝刊の一面を飾った。マネックス証券が正式に設立したのは、4月5日のことであった。

 松本派、証券会社を設立すると決めたときから、社名にはMONEYの文字を絡めたかった。この会社は、次世代に、どうお金とつきあうかをデザインし、提案していく。そこでMONEYに “X”をからめてMONEXとした。

 しかし松本は、インターネットについても、株式投資にも、じつはそれほど詳しくはなかった。インターネットと車のディーラーと手を組んでなにかできないかと、自動車ディーラーにも行って、パンフレットを見たり、カードの申込書を見てまわったこともあった。

 インターネットサイトに、電子金融や電子マネーについて書いているのを見ると、サイトを創っている管理者にメールを送り、話を聞かせてもらいに横浜まで足も運んだ。

 松本は、密かにゴールドマン・サックス証券のバックオフィス(事務管理部門)のスタッフに電話を入れた。レクチャーを受けるために、わざわざANAホテルの会議室を一日借りた。隣の赤坂アークヒルズにゴールドマン・サックスがあるので、ANAホテルならば来やすいからである。

 ゴールドマンのエクイティ部門(株式取引)のオペレーションのヘッド、クライアントサービスの担当者、コンプライアンス部門の担当者などが来てくれた。知恵と知識を、松本に授けてくれた。

 いっぽう、当初ソニーと松本が5千万円ずつを出資して、準備会社としてマネックス証券をスタートさせたものの、事業計画もなにもできていなかったのである。マネックスを事業会社に移行するかどうかを決めなくてはならない。

 さすがに4月の終わりごろになって、ソニー側から要請が来た。「事業内容について、プレゼンをしてほしい。」

 経営コンサルティングをしている友人に手伝ってもらい、ソニー本社役員であるマネージング・コミッティ、グループ会社社長20人ほどの前で、3年間の事業計画書をプレゼンした。

 (つづく)
(引用: 「私の仕事術」、「リスクテイカ− ネット金融維新伝」 )






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2014年01月05日

日本の金融業界の天才たち (18) 松本大

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  ( 前号までのあらすじ )

 東京大学法学部を卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマン・サックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、東京金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。

 後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわす松本の際立った特徴は、 ” ウォール街の不夜城 ” とも揶揄 (やゆ)されるゴールドマンサックスで、一番のハードワーカーだったことだ。

 そんな松本が、せっかく耕した、豊かな実のなるデリバティブ・トレーディングを他人に譲り、それまで誰も手掛けたことのなかった新たなビジネス、証券化商品に動き、大きな成果をもたらした。そんな松本に転機が訪れる。

 個人向けインターネット証券の設立である。ところが、会社は個人向け金融ビジネスを認めず、ゴールドマンを辞める決心をする。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

ゴールドマン・サックスでアシスタントとして支えてくれていた工藤恭子のほかに、大八木崇史、牧野紀子のふたりを誘っていた。ソニーとの協議は、松本がゴールドマン・サックスを辞めてから本格的にはじまった。

 ソニーは、出資に積極的であった。ただし、その内容は、松本の構想からははるかに遠いものであった。ソニーは、ソニーが100%出資し、松本をカンパニー長に据えるという。松本が、のみこまれる形を提案してきたのだ。

松本は、ソニーの提案を拒んだ。そして、平成11年1月に、松本はニューヨークに飛んだ。ゴールドマン・サックスの当時の会長、ジョー・コーザイン(後にニュージャージー州知事に転じる)に会うためだ。松本はコーザインに会うと言った。

「聞いていることと思いますが、わたしは、個人向けのインターネット証券をはじめようとゴールドマン・サックスに提案したものの、ゴールドマン・サックスはやらないという。仕方なしに会社を辞めて、自分の力で個人向けのビジネスをはじめます。」

じつは、ゴールドマン・サックスを辞めた者には、競業禁止が義務付けられている。ゴールドマン・サックスを辞めてから数年の間は、同じようなビジネスに手を染めることはまかりならないというのである。

松本が個人向けのインターネット証券をはじめたとしても、その競業禁止を盾に、ビジネスが止められかねない。松本はつづけた。

「インターネット証券に関しては、競業禁止条項から外して欲しい。こちらから提案したにもかかわらず、しようとしなかった。だから、私は、辞めたのです。それも、あと半年待って、ゴールドマン・サックスがIPO(Initial Public Offering: 株式上場) すれば、それだけでかなりの報酬を得ることができたはず。それを放棄してまで起業したのですから。」

ジョン・コーザインはあっさりしたものだった。
「いいよ。」 松本は、個人向けインターネット証券ビジネスを競業禁止条項から免除してもらうや、その足で、ゼネラルカウンセル(法律顧問となっているパートナー)へと向かった。

ジョン・コーザイン会長は、ゼネラルカウンセルにも話を通しておいてくれた。松本の主張は、すんなり受け入れられた。松本は、憂慮していたことがひとつなくなった。
「これで安心だ。」

しかし、その週末、おどろくべき情報が飛び込んできた。
「ゴールドマン・サックスでクーデターが起きた」

 コーザイン会長は、マネジメント・コミッティのうちのひとりの家に呼ばれた。そこには、ほかのマネジメント・コミッティの面々も待ち構えていたのである。そこで、いきなりコーザイン会長はクビを宣告されたのである。

 あくまでも民主主義的な立場をとった会長であったにもかかわらず、クーデターに遭ってしまった。競業禁止義務の免除を出すはずのコーザインが、わずかその30時間後に、いきなり追いやられてしまったのだ。

追いやったマネジメント・コミッティたちに、
「コーザインから許可を受けたので、競業禁止義務を免除してほしい。」といったところで認められるわけがなかった。

松本は、しかたなく、新たな会長、ヘンリー・ポールソン(後の米財務長官)とともに、友好的な話をはじめた。

同じころ、ソニーが提案をしてきた。出資比率を松本大が49%、ソニーが51%出資という形である。松本は、にこりとして頭を下げた。
「ありがとうございます。」その反応に、ソニーの担当者も胸をなでおろしたらしい。松本は続けた。

「しかし、この話はなかったっことにして下さい。」
ソニーの担当者の表情は一変した。

「いったいどうしてですか?」
「やはり、統治権をソニーさんに持たれていては、できるものではありません。大変ありがたい話で、生意気で、恐縮ですが、なかったことにしてください。」

そう言い残して、交渉の席を立った。東京は神田のオフィスには、3人のスタッフが、ソニーとの交渉の結果をクビを長くして待っていた。松本は、打ち明けた。

「出資比率を、51、49%で提案された。でも、断ってしまった。」
「ええっ!」 3人がほぼ同時に、声を上げた。ゴールドマン・サックスを離れて松本についてきた彼らである。ソニーとの交渉がうまく運び、より安定した環境になることを望んでいた。

 それだけの好条件を蹴ることが信じられなかったのである。そのせいかどうか、3人はその日、いつもより早く帰ってしまった。松本は、親しい友人とともに行きつけの寿司屋に出かけた。

「断ってしまったものは、しかたないじゃないか。」そのようなことを言っていると、松本の携帯電話が鳴った。午後11時ころであった。ソニーの出井伸之CEOの秘書からであった。

 スイスのダボス会議に出席している出井に代わってかけてきたのである。

「出井からの伝言です。『早まるな』 とのことです。」
「早まるな、とは、どういうことでしょうか。」
「よくわかりませんが、そのように伝えるように言われました。」
「はあ、わかりました。」

松本は、腑に落ちないまま、電話を切った。

 (つづく) 
(引用: 「私の仕事術」、「リスクテイカ− ネット金融維新伝」 )






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2013年10月29日

外資系に学歴は関係あるか? 

東大発ベンチャーの旗手が語る 

経済誌にありました ”東大発ベンチャーの旗手” という特集で、松本大が、外資系と学歴との関係を語っておりましたのでご紹介します。 

 「東大同期の中で起業家はゼロ。」

 マネックスグループ社長・松本大氏の経歴は異色だ。開成高校から東京大学法学部を経て、1987年当時、新卒としては珍しい米投資銀行のソロモン・ブラザースへと進んだ。1990年にゴールドマン・サックス証券に転じると、94年、30歳のときに最年少ゼネラル・パートナー(共同経営者)に就任している。

 99年にマネックス証券を創業した際には、「10億円を捨てた男」  として有名になった。ゴールドマン・サックスのストックオプションを有しながら、その株式公開を待たず、99年の株式売買委託手数料自由化に合わせて退職、起業したからだった。

  いまやオンライン証券としてグローバル展開するようになったマネックスグループだが、松本氏は 「東大卒が自らのキャリアにおいて影響を及ぼしたことはない」 と言い切る。外資系証券を経験したからこそ感じる松本氏の東大観とはどんなものだろうか。

  “外資系金融に就職”

 − 東大法学部卒の進路と言えば官僚や弁護士、または超大手企業などが浮かびます。なぜ異なる道を選んだのでしょうか?

 「もともと私は、断崖絶壁のわきを通るような狭い峠道をクルマで行くならば、他人の運転では行きたくないタイプなんですよ。他人の運転では嫌で、自分でハンドルを握り、運転します。

  大学を出るときに、私は官僚や大企業が自分に向かないと思いました。なぜなら官僚や大企業は、上司に恵まれなければ何ともならない、個人としての自分をなかなか見てもらえない、コネであったり上司との関係であったり、自分の努力や実力以外のところでキャリアが決まっていく。

  そういう部分が多いのではないかと思い、それは自分に取れる選択肢ではなかった。当時、噂によると外資系金融の世界は実力の世界らしいと。うまくいかないかもしれないが、自分が原因だったらあきらめもつきます。自分以外の要因で物事が決まっていくのは嫌だ。

  そんなリスクは取れない、という理由でした。いまでこそ、外資系証券などは有名になりましたが、当時は完全にドロップアウトのイメージ。私がソロモン・ブラザーズに行った時は、実質新卒第1期生でした。他人は 「リスクを取るね」 と言いますが、自分としては正反対。リスクを排除した結果の選択でした。

  私自身、外資系企業に行くことは、もともと考えていなかったんです。ゴールドマン・サックスを辞めて起業する時も、起業しようと考えていたわけではありません。

  どう考えてもオンライン証券はこれからの時代に重要になってくると思い、会社に提言してきたわけですが、インターネットやリテール(個人向け金融業務) はゴールドマンでは関係ないと言われまして、やむにやまれず会社を作ろうかと(笑)」

  ― 同級生の進路はどうでしたか?松本社長のほかに起業した人はいるんでしょうか。

 「 いないですね。私は法学部だったのですが、官僚とメガバンクが多い。あとは弁護士とか。僕は小さい時からディファレントな子供で変わっていたんですよ(笑)。東大に行けば “俺が日本を背負って立つんだ” みたいな、尖った考え方をする奴がいっぱいいるのかと思い、それが楽しみで学校に行っていたのですが、全然そうではなかった。

 長いものには巻かれよう的な人が多くて、それが自分としてはすごく残念でした。逆に言えば、そういう人たちが官僚や大企業に行っているので、自分には合わないと思ったんです。自分の持ち味が出せないのであれば、そんなところに入っても仕方がない。官僚や大企業は全く考えなかったですね。

  − 外資系金融はいかがでしたか? 東大というブランド力はあったんでしょうか?

 「まったく関係ない。裸ですよね(笑)。ソロモン・ブラザーズに行った時はトーキョー・ユニバーシティなんて言っても “は?” ですよ。周りはハーバードとかばっかりですから、大学なんて関係ない。ソロモン、ゴールドマンと進んで、学歴が何かしら自分のキャリアに影響を与えたと思ったことは一度も、微塵もない。完全にゼロです。」

  ― 日本でも起業家という括りでは東大卒を意識することは少ないように思います。

 「いいか悪いかは別として、東大という大学は、卒業生のコミュニティビルディングができていない学校ですよね。同窓だからだれかに聞きに行けるとか、そういうネットワークはゼロに等しい。その点、慶応大学や早稲田大学は強い。

 少なくとも、ビジネスの世界ではゼロですが、官僚の世界ではごくまれに同窓という意識がありますね。ビジネスの世界で感じたことは1回だってありません。」

  − ビジネスの世界に進もうと思えば、東大を卒業する必要がないと言う人もいます。

「 そうでしょうね。あまり役に立たない。ただ、東大に入るための勉強は役に立つかもしれない。科目数が多いので、苦手なこともやる。ビジネスって、苦手なことがいっぱいあるんですよ。科目数が多いので、苦手なこともやる。

 ビジネスって、苦手なことがいっぱいあるんですよ。苦手を我慢してこなす姿勢を身につける意味はあるかもしれない(笑)。研究をするためには役に立つものはあるんでしょうけど、ネットワークもないし、ビジネスをするには東大卒はほとんど役に立たないですよね。

 私は開成高校から東大なんですが、開成高校のほうがすごく仲間意識が強いんです。タテもヨコも。開成は創業者もいていないようなものですし、経営基盤もない。何もないから人間たちがつながらないと崩壊してしまいます。

 だからOBたちの結びつきが強くなる。私立は価値観の共有ができています。東大は成績が良ければ行けるだけで、価値観の共有を求めていない。京大や一橋大には “アンチ東大” がありますが、東大には何もない。校歌がない大学ですからね。辛口になりましたが、そういう気がします。」

 【 私の仕事術 − 松本大 】


 【 お金という人生の呪縛について − 松本大 】

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2013年08月11日

日本の金融業界の天才たち − 松本大 (17)

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  ( 前号までのあらすじ )

 東京大学法学部を卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマン・サックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、東京金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。

 後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわす松本の際立った特徴は、 ” ウォール街の不夜城 ” とも揶揄 (やゆ)されるゴールドマンサックスで、一番のハードワーカーだったことだ。

 そんな松本が、せっかく耕した、豊かな実のなるデリバティブ・トレーディングを他人に譲り、それまで誰も手掛けたことのなかった新たなビジネスの構築に動き、大きな成果をもたらした。そんな松本に転機が訪れる。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 松本は、平成10年春、知人とともに食事をした。その席には、知人が連れてきた人物も同席していた。その人物は、そのころ脚光を浴びるようになっていたインターネットの草分け的な人物だった。

 松本は、インターネットというものがあることは知っていたが、自分はまだ利用してはいなかった。インターネットについて詳しく話を聞いた。その素晴らしさについてはじめて気づいた。

 松本は、平成10年5月、個人的にプロバイダー契約を交わしインターネットを利用してみた。それから3ヶ月ほどたった夏、インターネットのことが分かってきた松本は確信した。 「インターネットを使えば、金融は変わる可能性がある。」

 インターネットによってディス・インターメディエーションと呼ばれる中抜き現象が金融でも起きるだろう。個人が、機関投資家、生命保険、銀行に預けて間接的に投資していた資金を、個人が自分自身で投資する。インターネットの時代であれば、金融機関を通さずとも、自分たちで株の売り買いを直接できるようになる。

 ゴールドマン・サックスも、日本において、金融の中抜き現象が起きた場合、最終的にリスクを取る個人投資家に直接アクセスを持たなくてはいけない。それができる新たなツールこそ、インターネットであった。

 松本は、平成10年9月、ゴールドマン東京支店のヘッドに提案した。「これからは、インターネットを使った日本の個人に対するダイレクトアクセスをつくる時代になります。」

 その当時、ゴールドマン・サックスが手がけていた不良債権ビジネスは、かなりの成果を上げていた。松本は、それとは別に、個人投資家へのアクセスに重きを置くことを提案したのである。ヘッドは、驚いた。
「松本、きみは、また何を言い出すんだ。」

 ヘッドをはじめ、大半の人たちには信じがたいことであった。松本に、聞いてきた。
「おまえ、そもそも株なんてやったことないじゃないか。個人のビジネスなんか、おまえは知っているのか。」 松本はきっぱりと言った。「いえ、知りません。」 

 ゴールドマン東京支店のヘッドは、インターネットを使った個人へのダイレクトアクセスの提案をする松本に、ここぞとばかりに畳みかけた。「インターネットだって、ほとんど知らないだろ。」
「はい、知りません。」

 ヘッドは言った。「それなのに、何でやるのか。いずれにせよ、うちは個人相手にはやらないんだ。」
松本は、さまざまな状況判断をしたうえで提案していた。オンラインによる、個人に対するアクセスはとても重要になると確信していた。

 しかし、いかに説得を試みようとも、ゴールドマン・サックスという組織は動かなかった。松本は、10月10日、ニューヨークのゴールドマン・サックス本社に出向いた。当時の会長であるジョン・コーザインにきっぱりと口にした。
「わたしは、パートナーを辞めます。」

 ゴールドマン・サックスを辞めることを明かした。突然のことに、ジョン・コーザイン会長もおどろいた。数か月後には、ゴールドマン・サックスはIPO (Initial Public Offer: 株式公開)することが決まっていた。松本は、ほんの数か月待つだけで、数十億円を手にすることができたのである。

 ジョン・コーザイン会長は、懸命に松本の引き留めにかかった。だが、松本は辞める意思を曲げなかった。周りからも言われた。「莫大な財産を取り損ねることになるよ。」
だが、松本の意思は固かった。

 <金銭の問題ではない。現代を生きる一金融人として、インターネット証券ビジネスをしないことは、まちがいなく後悔する。>

 平成10年11月1日、松本は知り合いから電話をもらった。
「今、出井さんとふたりなんだけど来る?」午後9時になろうとしていた。松本は言った。
「それは、行きます。」

 出井伸之は、平成元年にソニー取締役になり、平成7年には、14人の役員を飛び越して社長に就任していた。松本は、言われた場所に出かけていった。出井は、すでに、松本の知り合いと日本酒を酌み交わしていた。

 松本は、出井に自己紹介したあと、ビジネス・コンセプトについて語った。世界に名だたるソニー社長の出井の前である。緊張しないわけがなかった。だが、あくまでもビジネス・コンセプトを話すことに徹した。

 「インターネット証券会社は、おそらく、これから世の中にとって重要になるはずです。それは、もしかすると、ソニーさんにとっても、意味合いがあるかもしれません。ですから、ソニーさんもかかわられたらいかがですか。」

 出井は、松本がソニーとは畑違いのことを話していたにもかかわらず、わけもなく理解していた。それどころか、おもしろがっていた。

 それから3日ほどたったころ、出井から電話がかかってきた。
「あの時は酔っぱらっていたし、ぼくが勘違いをしていることがあるかもしれない。もう一度、話を聞かせてもらえないですか。」

 11月半ば、松本は、出井に、朝食に誘われた。ホテルの一室で話した。出井は、朝食が終わると、携帯電話を取り出した。社長室にいるスタッフに電話をかけた。

 「いま、松本さんという人と会っているのだが、おもしろいから、すぐに会いなさい。」 電話口のむこうでは、スタッフが、出井になにか言っているらしい。
 「中期計画は置いておいて、いいからすぐに会いなさい。」

 松本は、その日のうちに、そのスタッフと会った。しかし、松本は、まだゴールドマン・サックスの契約更新をしないことを正式に認められてはいなかった。

 11月20日、ゴールドマンとの契約更新まであと1週間と迫っていた。松本は、会長から電話を受けた。電話機からは、落胆したジョン・コーザイン会長の声が響いた。

 「わかった。今回、松本とは契約を結ばないことに決めた。」
 「そうですか、ありがとうございます。」
会長は、つづけた。

 「しかし、いつでも、戻って来なさい。」
その頃、松本は、ソロモン・ブラザーズのときの上司である明神茂に、マネックス証券設立について相談した。当時、ソロモン・ブラザーズ副会長として全世界のトレーディングを統括していた明神は、反対した。

 「おまえは、インベストメント・バンカーとしてすごくいいものを持っている。いっぽうで、インターネット証券なんて海のものとも山のものともわからない。インベストメント・バンカーをやれ。まだまだいける。」

 明神茂は、日本に帰国したときも、なお反対した。
いっぽう、ジョージ・ソロス率いるヘッジファンド、ソロス・ファンド・マネジメントの幹部はいった。

 「おまえがやるなら、おれは、おまえのいう条件でいくらでも出資する。」
松本は、9年間勤務したゴールドマン・サックス証券を退社した。

 さっそく、東京神田にある企業の四畳半にも満たない一室を借り、早くもインターネットによるビジネスをはじめた。

 (つづく) 

(引用: 「私の仕事術」、「リスクテイカ− ネット金融維新伝」 )




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2013年03月20日

日本の金融業界の天才たち − 松本大

お金という人生の呪縛について 「給料が出なくとも、働きたい仕事」 が君にはあるか?

 我が金融業界の大師匠、松本大(おおき)が新著を出しました。

 勝手に師匠と呼ばせて頂いています。

  なんせ、松本大がゴールドマン・サックスを辞めてマネックス証券を設立したという新聞記事を読み  「同世代にこんな凄い金融マンがいるのか!」 と頭をハンマーで殴られたような衝撃を受け、それまでの安定志向の人生をあっさりと捨ててゴールドマンに転職したくらいですから。

 「裕福な生活をしよう」 ということしか頭になかった僕が、冒険とロマンを求める外資系証券マンに舵を切ったわけです。人生は泣いても笑っても1回しかありませんから、たとえクビになろうが、過労でぶっ倒れようが、ゴールドマンという会社に賭けてみようと思ったのです。

 当時、赤坂アークヒルズにあったゴールドマン・サックスのオフィスで松本氏とすれ違ったことが1回だけあるのですが、話したことはありません。

 外資系証券マンには優秀な人間が数多くいますが、私が知る限り、松本大(おおき)以上に日本の経済にインパクトを与えた ( = GDPを拡大させた、雇用を拡大させた ) 人は他にいません。

 ゴールドマン・サックス証券のOBは、約半数が私のように、外資系を魚の回遊よろしく、ぐるぐると回っている人が多いのですが、起業家になる人も1/3 ほどいます。

松本氏以外にも、起業して東証1部や東証マザーズに上場させた人も何人かいますが、スケールから言うと松本氏はけた違いです。 

 松本大の初作 『10億円を捨てた男の仕事術』 という本は、非常に刺激を受けたのですが、題名が物議をかもしたということで、文庫版が出るときには 『私の仕事術』 と改題されていました。

 今回の本も、普通のサラリーマンでは絶対に言わないようなことが山ほど書いてあり、非常に刺激を受けましたので、ここに紹介します。

 『 ゴールドマン・サックスでの10億円の報酬を捨て、新しいお金の流れを目指した経営者による、仕事と人生の常識から解き放たれるための57のメッセージ 』

 ● 好き嫌いは考えるな。目の前の仕事に徹底的にのめり込め。お金はあとからついてくる。
 ● 一日を20時間だと思う。
 ● お金は稼ぎ方より使い方が大事

 ● 後ろを振り返る人は投資も仕事も成功しない
 ● 仕事に優先順位はつけない
 ● スケジュールはひたすら詰め込む (一日の会議数は最大21個)

 ● やらなくてもよい25%の仕事を探す
 ● 「道路のどちら側に転ぶか?」 をいつも考えるから、判断力は上がる
 ● 仕事は少ない人数でやる

 ● 仕事は慣れたことをやるのが一番。
 ● 会議前の根回しは一切しない。会議後の発言は一切聞かない。
 ● 「今日の自分は昨日と同じでいいのか」 を毎朝問う

 ● 夢や目標はあいまいにしておく
 ● 出張はいつもカバンひとつ。移動する質量を小さくすれば疲れない。
 ● 自分の長所を教えてくれる人と食事をしよう

 ● 投資とは経済に直接参加することである
 ● いつの時代も欲の量は変わらない
 ● 人間の感情が株価を上下させている

 ● 徹底的に忘れなければ、新しいものは入ってこない
 ● 一度しかない人生だから、世界の中で生きたい。

  
 『 仕事のある日は一日20時間を仕事に充てています。 オフィスアワーは社内外のミーティングや会議が詰まっていますし、移動時間も電話やメールのやり取りに充てています。

 夏季休暇のようなまとまった休みは取りません。たまに1日の休みがあっても会社の事業戦略を考えたり、10時間くらい集中的にメールのやり取りをしています。寝ている4〜5時間を除いて仕事の2文字が頭から離れないのです。

 私たちに与えられている時間は有限です。有限な時間を有効に活用するにはとにかく長く働くしかありません。10時間働くところを9時間にしてしまったら、結果的に私の 「出力」 が10%落ちてしまうことになります。

 それは私の 「能力」 が10%落ちたのと同じことなのです。

 それに、仕事はやればやるほど処理スピードが上がっていきます。マネックス証券を創業してから十数年になりますが、その間も確実に仕事のスピードは上がっています。

 大学を卒業してソロモン・ブラザーズ・アジア証券に入社した当初は 「これが限界」 と思ったこともありますが、そのうち処理量が増えていきました。最初は 「難しそうだ」 と思ったことも、脳が慣れてくると 「できそうだ」 と変わってきて、本当に実行可能になるのです。

 ゴールドマン・サックス証券に移ってからも処理スピードは上がりました。仕事をやればやるほど処理スピードが上がり、処理量も増え、それに伴って仕事の能力が高まっていきます。

 だから1日たりとも仕事を休むのはもったいないと思うのです。やはり仕事には慣性の法則が働き、これが無視できないほど大きな力になってきます。

 ところが、いったん仕事のスピードを落としたり、休止したりしてしまうと、元のスピードに戻すのに相当の時間がかかります。

 逆に、予定になかった追加の仕事を作り、処理すると生産性が上がるように思います。前に、こんなことがありました。いつものように忙しく仕事をしていて、もう夕方の3時か4時だろうと思っていたら、まだ正午過ぎだという経験をしたのです。

 その日は朝に取締役会があってこれが意外に早く終わりました。そこで空いた時間に3つ4つの新しいミーティングを作って入れたのです。あらかじめ想定していた時間の流れに異なるモジュールが挿入され、その時間帯が濃密になったために時間が実際よりも過ぎている錯覚に陥ったのでしょう。

 1日20時間を仕事に使い、さらにその20時間で処理できる仕事を増やしていけば生産性はどんどん上がっていきます。

 私はそういう仕事の仕方が好きです。 』

“ 仕事は慣れたことをやるのが一番 ”

 『 私がゴールドマン・サックスを辞め、マネックス証券を創業したとき、畑違いの仕事を始めたと思った人もいたようですが、私自身はまったく違う仕事をはじめたとは思っていません。

 仲介手段がインターネットに変化しただけで、仕事の中身は金融なので何も変わっていないのです。

 私のほかにもゴールドマン・サックスを辞め、起業した人がいます。金融以外の事業を始めた人は成功しなかったように思います。人は自分が経験を積むことで得た能力を発揮できる領域で仕事をするのが一番よいということではないでしょうか。

 目の前にある、自分が経験を積める仕事をするのが一番なのですが、若いころはとくにほかの部署や他社に勤める同期がやっている仕事をうらやましく感じるものです。隣の芝生は青く見えるのです。

 想像してみてください。ここに1ヘクタールの牧草地があり、あなたの牛を飼っています。ふと隣を見ると10ヘクタールの牧草地があり、別の人が牛を飼育しています。それを見てあなたは10ヘクタールの牧草地が欲しくなるかもしれません。

 でも足元の1ヘクタールでさえ、あなたの牛が食べつくしてしまうことはないでしょう。10ヘクタールあってもとうてい食べきれません。

 仕事もそうなのです。同僚がいろいろな仕事をやっていてうらやましく思い、 「 何で自分にはこの仕事を与えてくれないんだ 」 と文句を言いたくなるかもしれません。

 しかし実際は目の前の仕事をしっかりやることさえ難しいのです。違う仕事を与えられても完全に能力オーバーになって未消化になってしまうでしょう。

 今の仕事をどんどん深堀していけば、やることはいくらでもあります。そして限られたフィールドで仕事をしていけば、その仕事で経験を積み、経験から学び知恵に変えていくことができ、成功する確率が高まっていきます。

 また、先輩たちが美味しい仕事を取っていってしまって、自分にはもういいところが残されていないのではないかと焦りを感じている人がいるかもしれません。

 でも野球で打席に立ったときにボールばかり来るわけではないのと同じで、待っていればかならずストライクが着ます。もういいボールが来ないと思うと打席に立っても力が入りません。せっかく打ちごろの玉が来ても見送ってしまいます。

 景気もそうですが、何事にも波があります。上に向かった波は下に向かい、そこを過ぎた波は頂点をめざして動きます。まず、チャンスは必ずくるのだと信じることが大切です。

 そしてストライクが来たときにしっかりとバットに当てられるように日頃から素振りの練習を欠かさない。この素振りが毎日の仕事です。練習に練習を重ねバットをぶらさず振り切ることができれば、チャンスをものにできるのです。

 そういう仕事が 「慣れた」 仕事でしょう。よい意味で 「慣れた」 仕事だからこそチャンスをものにできるのです。

 私は金融以外の仕事をやろうと思ったことはありません。いえ、一度だけ独立してジャズ喫茶を経営したいとチラリと思ったことがありましたが、若さゆえの悩みというものでした。

 【 引用: お金という人生の呪縛について − 松本大 】



 【 私の仕事術 − 松本大 】

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2012年12月08日

日本の金融業界の天才たち − 松本大 (16)

 【 連載記事は下記のカテゴリー欄より通してご覧になれます 】

  ( 前号までのあらすじ )

 東京大学法学部を卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマン・サックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、東京金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。

 後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわす松本の際立った特徴は、 ” ウォール街の不夜城 ” とも揶揄 (やゆ)されるゴールドマンサックスで、一番のハードワーカーだったことだ。

 そんな松本が、せっかく耕した、豊かな実のなるデリバティブ・トレーディングを他人に譲り、それまで誰も手掛けたことのなかった新たなビジネスの構築に動く。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 「 いままでの仕事はやめました。今度は、ビッグバンをやります。 」 と、関係各所に説いて回った。
 担当者たちは、松本の言葉がよく理解できないでいた。商品を勧める立場であった松本が、今度は、不良債権を買い取るといいはじめたからである。松本は、それらのひとたちに訊いた。

 「 金融ビッグバンってなんだと思います? あなたにとって、あなたの会社にとって、どう影響があると思いますか? 」 担当者は、彼らなりの解釈を語る。

 「 なんともならないよ。 」 あるいは、次のように予測する者もいる。
「 こうなるんじゃないの? 」 

 それぞれがちがった視点から、ビッグバン像を描いていた。それらを総合すると、松本自身、ビッグバン像がはっきりと見えてきた。

 松本は、それを基に、1997年6月、ビジネスプラン 「 プロジェクトビッグバン 」 をはじめた。日本版ビッグバンが進むなかで発生する、さまざまな変化に対応するビジネスの設計と実行を指摘した。

 銀行をはじめとする金融機関や国のバランスシートを分析し、その再構築を進めた。銀行の保有する優良貸出債権の証券化をすすめた。無担保不良債権や、会員権の価格が下がったゴルフ場も買い取った。現在は、手法的にも、法的にも、税会計的にも、その手法は決まっている。

 しかし、その当時の日本では、それぞれ、どう処理していいのかだれもわからなかった。

 弁護士に、破産債権を買収する案件を話しても、まともに耳を傾けてはくれなかった。ゴールドマン・サックスの幹部だというので、時間を割いて会ってくれたという態度がありありとしていた。会計士に話を持ちかけても、あきらかに嫌がっていた。

 そのころ、大蔵省 ( 現:財務省 ) 官僚だった片山さつき (自民党) に会った。じつは、松本の手がけた債権譲渡にかかわる債権譲渡法、SPC法をつくったのは、片山だったのである。

 「 あなたが立法したのだから、一番詳しいでしょう。 」 松本はそういって、片山にいろいろと相談した。
 「 これはこういう風に解釈してこんな風に使えるかもね 」 片山もおもしろがって、松本に教えてくれた。

 「 あとで知ったんだけど、彼は東大法学部の後輩だと言うじゃない。よく勉強して足を運んでくるな、と感心していました。 」 と後に片山さつきは語っている。

 1997年当時、不良債権ビジネスは、だれも手をつけていない分野だった。そしてゴールドマン東京支店でASSG ( Asia Special Situations Group : 戦略投資部 )  としてセルサイド (証券を売る証券会社) にしては珍しくバイサイド (投資する、買う側) のビジネスを育てていく。

 ゴールドマン・サックスのパートナーである松本大は、安く買った不良債権を商品化して売った。かなりの成果を出すことができた。

 松本の考えたビジネスモデルは、東京オフィスだけでなく世界中でも最も収益を上げるようになった。松本は、自分の見通しが正しかったことを証明してみせた。

 その際に、アシスタントとしての役割を果たしたのが、後のマネックス証券副社長であった工藤恭子だった。

 ゴールドマン・サックスのような、いわゆる投資銀行業務でもっとも大切な要素が、3つある。

 @ リスク資産を売りたい人に対するアクセス
 A リスク資産を買ってくれる人に対するアクセス
 B 金融工学などの技術、である。

 ただし、その中でどれが一番重要かといえば、リスク資産を買ってくれるひととのつながりであろう。

 不良債権問題の際、収益を上げられたのは外資系証券であった。外資系証券は、不良債権を抱えている日本の銀行とのつながりが、野村証券よりも強かったわけではない。それでも伸びたのはなぜか。

 極端にいえば、売りたい側は、自分が満足する額の現金さえあればだれにでも売れる。それだけ深い悩みが、銀行の抱える不良債権である。それほどのものであれば、売ってくれる側よりも、買ってくれる側、つまり、リスクを取って商品を買うヘッジファンドなどとの間に太いパイプのあるほうが、大きな収益を上げることができた。

 工藤は、松本と同じ東京大学法学部の出身である。新卒で入った外資系銀行で為替オプションのトレーダーをつとめたあと、結婚に伴い退職し、夫の赴任とともにフランスに渡る。専業主婦であった。しかし日本に帰国後、公認会計士の資格を取り、大手監査法人で監査業務をはじめた。

 クライアントの一つに、ゴールドマン・サックスがあった。何度かゴールドマン・サックスに通ううち、そこでトレーダーをつとめる松本と出会った。

  「 工藤さん、ちょっと、僕の仕事を手伝ってみない。 」 

 1997年頃、松本から声をかけられた。 松本は、トレーダーを辞め、資産の流動化にかかわる新たなビジネスをはじめるという。松本は、新たなチームをつくるメンバーを探していた。

 橋本龍太郎内閣が提唱した金融ビッグバンによって、銀行などが抱える不良債権が流動化しはじめた。そこにビジネスチャンスがあると、松本は思っているようであった。

 工藤は、松本がはじめるという新たなビジネスが、成功するのかどうかまでもわからなかった。ただ、日本経済は、アメリカを10年遅れで追いかけていた。ゴールドマン・サックスには、ニューヨークで手がけた金融テクノロジーがあった。それをいかに持ってくるかにも魅力を感じた。

 工藤自身、会計士として3年、ひとつの区切りをむかえていた。新たな仕事を探していた。松本に誘われ、ちょうどいい機会であった。工藤は、ゴールドマンサックスに入社した。松本が作った債券チームに入った。

 工藤が担当したのは、銀行などの保有する資産の証券化であった。弁護士、公認会計士などともやり取りしながら、証券の仕組みをつくった。証券の発行体である銀行の主幹事として、証券の組成から投資家に売るまでを担当した。

 松本にしても、工藤にしても、忙しかった。松本は、そのようななかでも、かなり細やかなところまで聞いたり、細やかなことまで指示してくる。携帯電話で通話をしながらも、移動中のタクシーの運転手にむかって、道順をあれこれ指図するくらいである。工藤がとまどうことすらあった。

 だが、長いこと同じビジネスをしているうちに、松本は、細かいところまで把握していないと気持ち悪くなるのだとわかってきた。

 ( つづく )
 ( 引用: 「私の仕事術」、 「リスクテイカ― ネット金融維新伝」、 「GOETHE」 )



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2012年09月23日

日本の金融業界の天才たち − 松本大 (15) 

 【 連載記事は下記のカテゴリー欄より通してご覧になれます 】

  ( 前号までのあらすじ )

 東京大学法学部を卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマン・サックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、東京金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。

 後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわす松本の際立った特徴は、 ” ウォール街の不夜城 ” とも揶揄 (やゆ)されるゴールドマンサックスで、一番のハードワーカーだったことだ。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 そのころの松本は、30歳と若かった。組織のために良かれと思ったことは、たとえまわりから変わり者と言われようとも屈せずに主張した。

 東京支社の自分の部下を傷つけたこともあるに違いない。部下は自分よりも年上のことも多かったが、それでも、松本は、支持されていたと思っている。松本は、決して指図するだけの上司ではなかった。自ら率先して戦う上司だった。

 平成9年3月、 “日債銀、海外撤退” というおどろくべきニュースが流れ、経営不振節が流れていた日債銀を大蔵省、日銀が全面支援する方針を固めた。

 その週末には、当時の橋本龍太郎内閣が、行政改革などをすすめる 「 6つの改革 」を進めるにあたって、金融大改革、日本版金融ビッグバンを行うことを明らかにした。フリー、フェア−、グローバルという3本柱に支えられた金融ビッグバンである。

 周囲は金融ビッグバンがいったい何ほどのものぞと冷ややかな目で見ていたのに対し、松本はまわりとは違う見方をしていた。翌月の4月にはニューヨークにレポートを送った。

 「 日本版ビッグバンで、日本の金融市場はかならず変わる。かならずパラダイムシフトが起きる。 」 

 それまで、日本は資産がつねに膨張していた。国際的な金融機関が困ったときには、金融商品を作って日本の生命保険、郵政省、メガバンクに売りつけているからであった。

 いくら不景気だとはいっても、日本にはそれだけの余力があった。しかし、日本版ビッグバンは、機関投資家、金融機関を変える。金融機関の資産が膨張する時代は終わり、資産を圧縮したり整理したりする。それに対応したビジネスをつくりあげなければならない。

  松本の下した結論はこうだった。

 「 ゴールドマンがやらなければならないビジネスも、売るビジネス ( セルサイド ) ではなく、買い取るビジネス ( バイサイド ) となる。 」 

  松本のビジネスも、不良債権を買い取るビジネスにシフトすることを、パートナーたちに提案した。債券為替部にいるパートナーは、松本から突然そういうことを聞かされ、おどろいた。

 「 おまえは、また、何をいい出すんだ? 」

  当時、ゴールドマン・サックス東京オフィスでのほとんどの利益は、債券為替部のディーリングによるものであった。松本は、もっとも収益が上がっている分野から手を引いて、別のビジネスを手がけるといいはじめたのである。

 まわりが驚くのも無理はなかった。松本は、パートナーに言った。

 「 これは、やらなければいけないんだ。 」 松本は、4月20日、ニューヨークへと出向いた。世界から集まった債券為替部のパートナーたちを説得した。確固たる上下関係はあるものの、パートナーに選ばれたものはどんなに若くてもパートナーなのである。

  強く訴えれば、まったく無視することはできなかった。パートナーたちは、あまりにも熱弁を振るう松本に負けた。

 「 わかった、もういいよ。やってみなよ。 」 
松本は、デリバティブや債券為替部にかかわるビジネス、トレーディングはすべて、大学院卒の部下にまかせた。

  松本大は、常々、エクイティバリューの創出をビジネスマンの本質的価値だと説いている。

 「 ビジネスの世界では、新しい価値をいかに創造するかが、常に問われます。この新し価値のことを “ エクイティ・バリュー ” と言います。なぜ大事なのかと言うと、新しい価値を創造し続けていかない限り、企業としての成長、進化も止まってしまうからです。 」 

  この “ エクイティ ” にふさわしい日本語訳はないが、近いものは “創業家元” だと言う。ただ家元といっても、代々家督を受け継いでいく家元とは違い、新しい流派、宗派を創る人というイメージである。これがエクイティ・バリューなのだという。

  彼がこのような新しい価値創造にめざめたのは、前職のソロモン・ブラザーズ・アジア証券の勤務時だった。

 「 私が今までなかった新しいビジネスを立ち上げることに大きな価値を見い出すようになったのは、ジョン・メリウェザーの影響が大きかったからです。

 彼は、すでに存在するものを、さらに進めていくことに対しては、あまり重きを置かず、新しいものを作り出すことに対して、大きな価値を見い出していきました。

  彼は、アービトラージ ( 裁定取引 ) といって、同じような値動きをする2つの商品のうち、割安なほうを買って割高なほうを売り、それぞれの価格差が拡大・縮小するなかで利益を得る、という取引の責任者をソロモン・ブラザーズで努め、その後、自分でLTCM (ロングターム・キャピタル・マネジメント) というヘッジファンドを自分で立ち上げました。

  たくさんの社員がいるなかで、彼がどのように社員ひとりひとりを評価していたのかというと、それは、新しく利益を上げる仕組みを考えた人が、一番偉いというものでした。

 たとえば、 「 日本の普通株と転換社債の価格差を利用して裁定取引をしよう 」 といったストラテジー ( 戦略 ) を考えた人に、多額のボーナスが支払われる仕組みを作っていったのです。

  トレーダーが実際に売買することにより利益を上げていくのですが、仕組みやストラテジーを考えた人が利益の過半を取り、残りをそのアイデアを実行したトレーダーたちで分配するというものです。

  つまり、実際に儲けた人ではなく、その仕組みを考えた人が最も高い評価を得たのです。

  ジョン・メリウェザーはいつもこう言っていました。

 「 新しいビジネスにはエクイティが必要である 」 

  また、 「 すでにあるものを回すことには、それほど高い価値はない。今までにないものを作り上げなければいけない 」 とも言っていました。

 言うまでもなく、エクイティ・バリューを創造していくためには、何よりも好奇心が大切になってきます。好奇心がなければ、今までにないような新しい価値を創造することは、文字通り不可能なのです。 」 

  こうして松本は、今まで担当していた業務を部下に任せ、自分は生保、損保、メガバンク、日本銀行、大蔵省 ( 現: 財務省、金融庁 )、メディアなど、関係各所に出かけていった。

 ( つづく ) 

 ( 引用: 『私の仕事術』 松本大著、 『ネット金融維新伝』 )
 



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2012年07月15日

日本の金融業界の天才たち − 松本大 (14) 

 【  連載記事は下記のカテゴリー欄より通してご覧になれます 】

  ( 前号までのあらすじ )

 東京大学法学部を卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマン・サックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、東京金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。

 後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわす松本の際立った特徴は、 ” ウォール街の不夜城 ” とも揶揄 (やゆ)されるゴールドマンサックスで、一番のハードワーカーだったことだ。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 
 

 LTCM ( ロング・ターム・キャピタル・マネジメント) は、FRB (アメリカ連邦準備銀行、= 中央銀行) 元副議長デビッド・マリンズ、1997年にノーベル経済学賞を受けるマイロン・ショールズ、ロバート・マートンといった著名人が取締役会に加わった 「 ドリーム・チーム 」 で、特定の市場、国に攻撃を仕掛けるマクロファンドとは異なり、市場に対して中立な立場でファンドを運用した。
 

 流動性の高い債券がリスクに応じた価格差で取引されていないことに注目し、実力よりも割安と判断される債券を大量に購入し、実力よりも割高の債券は空売りした。

 投下資金は4年間で4倍に膨れ上がり、平均の年間平均利回りは40%を突破した。驚異的なパフォーマンスである。運用資金は、数千億円に昇った。しかし、平成9年に発生したアジア通貨危機それに連動した形で発生したロシア財政危機によって、LTCMは一気に傾いた。

 投資家たちの間に、新興国の債券、株式はリスクが高すぎるとの認識が広がり、LTCMへの投資資金を引き揚げたのである。その結果として、LTCM運用は破たんした。

 LTCMは、自分たちが分かっていると思ってリスクをとって投資した部分で失敗してしまったのである。まわりのひとたちは笑った。

 「 あいつら、 『 策士、策に溺れた 』 だ。 」
 
 だが、ソロモン・ブラザーズに所属しその手法を熟知する松本から見ると、 「 策士、策におぼれる 」 と笑えるものではない。むしろ、笑っている者たちではとても理解できないほどの緻密な計算をもとに動向を予測し、金融市場に投資をかけていたのである。

 LTCMは、リスクを集中しすぎた。どんなにリスクが低いといわれる投資案件でも、まったくリスクがない案件はない。だからこそ、リスクは分散する。松本は、ソロモンブラザーズ、LTCMの失敗を通じて、いかに投資にはバランスが大事かを学んだ。

 その意味では、ゴールドマン・サックスのほうが、現代的でリスクも回避できるかもしれない。ゴールドマン・サックス内だけでなく、顧客とも情報を共有することで、単独で暴走する可能性が少ない。顧客側から、
 
 「 こういった風に提案してくれたら使いやすい 」 といった要望も来る。

 松本は思った。 “ 結果的には、ソロモンよりもゴールドマン・サックスの方が優れていたのかもしれない。 ”

 松本は、1994年11月、ゴールドマン・サックスのゼネラル・パートナーに就任した。ひとたびパートナーになると、連結PL ( 経営指標一覧 ) で上がった利益に対して0.何パーセントの配当を受ける。

その配当率は、200人いるパートナーすべてが、すべての数字を知っている。その配当率も、2年ごとに更新される。

しかし、そのいっぽうで松本はかなりのプレッシャーも感じていた。ひとつまちがえば、自己破産の可能性もある。強烈なリスクを伴っている。

 配当も、ゴールドマンサックスグループのボトムライン ( 企業の税引き後当期純利益 ) で利益が上がらなければ低くなる。赤字に転落したとしたら、パートナーはその分を負担しなくてはならない義務もある。

 さらに、デイティッドアカウント、年次口座という懸念がある。松本が担当した案件に関して、投資家や顧客からゴールドマン・サックスが賠償しなくてはならないであろう賠償額だけは、その年在籍したすべてのパートナーの配当分から差し引かれる。

 これは、たとえパートナーが退社しても、結審するまではゴールドマン・サックスが預かる。一般企業であれば、荒っぽい稼ぎ方をして退社した後に、さまざまな問題が噴き出してもほとんどその当時の当事者であろうとも関係ない。

 だが、ゴールドマンサックスではそれは許されない。

 かつては、モルガン・スタンレーもソロモンブラザーズも、パートナーシップ制を導入していた。松本がパートナーとなった当時パートナー制度を維持していた会社は、ゴールドマンのほかにはイギリスのロイズだけであった。

 ハーバード大学のある有名な教授はこう語る。

 「 パートナーシップ制がうまく動作し、真に利益が上がっている企業は、上場をする必要がない。自分たちの取り分、儲けを分けているだけで十分だから。それができなくなると、上場する。 」 

 その意味では、世界的な規模で利益を上げているゴールドマン・サックスは、成功していた。アメリカの金融に進みたい人たちはみな、口をそろえてゴールドマンサックスのパートナーになりたがっていた。

 松本は、パートナーとして、フロント60人、バックが百数十人のチームを、もうひとりのゼネラルパートナーとふたりで率いた。

 松本大は、真正直であった。パートナーとしてゴールドマン・サックスにとってマイナスとなる面は修正し、収益に貢献しなくてはならないと思っていた。

 インターナショナルカンパニーであるゴールドマン・サックスのヘッドクオーター ( 本部 ) に、日本のことを正しく伝えることが日本人パートナーの責務だと思った。時には、提案した。

 「 対GDP比で考えて、日本人のパートナーが少なすぎる 」 

 経営の最高意思決定機関マネージメント・コミッティにも、積極的に伝えた。

 「 アメリカのボーイング社は、北京でボードミーティング ( 取締役会 ) をやった。 」 

 「 ソニーは、ニューヨークでボードミーティングをやった。 」 

 マネージメント・コミッティは、毎週開かれる。年間では50日ほど行われる。出席するのは7人だけである。ボーイング社は経営陣が20人以上いる。しかも、年数回しかマネージメントコミッティを開かない。

にもかかわらず、北京で開かれた。それならば、ゴールドマンサックスも、東京で開催してもいいのではないかと訴えた。が、残念ながら、開催されなかった。

松本がパートナーとなった1994年に債券部のヘッドが交代した。それまで債券部のヘッドだったジョン・コーザインが、会長に就任したからである。代わりに債券部のヘッドとなった人物は、東京市場の動向にほとんど興味がないようであった。

東京の状況を聞くために、こまめに松本に連絡を取ってきたコーザインのようには、連絡をよこすことはなかった。しかし、松本はことあるごとに新しいヘッドに提案した。

「 ここがおかしい。こうするべきだ。 」 

 ビジネス、人事と、松本の指摘は多岐にわたった。しかし、新たなヘッドは、対応してくれなかった。松本は、10枚にわたる、英文でのレポートをつづった。

 自分がおかしいと思うことを指摘し、マネージメント・コミッティの会長ら主なパートナーに送った。送る前には、対応してくれない本人にまず見せた。裏でコソコソするのは嫌いだからである。

 「 これ、書いてきました。コーザイン会長をはじめとして、経営陣にも見せます。わたしは、本気です。 」 

 債券部のヘッドは、松本のレポートに目を通すと言った。
 「 おまえは、本当にバカだ。信じられない奴だ。 」

 東京オフィスの外国人ゼネラル・パートナーに、くだらないことを言われ、Fで始まる4文字言葉で罵ったこともある。ニューヨークからのエキスパット ( 駐在社員 ) であるエリートパートナーは、まさか日本人からそのように言われるとは思っていなかった。

 その翌朝、ニューヨークにいる親しいパートナーたちから、電話などで連絡がきた。

 「 おまえ、やったらしいなあ。。。 」 

 規律の厳しいゴールドマンである。ニューヨークではかなり問題になっていたらしい。
「 松本とは、こんなこという奴なんだ。 」 

松本は、連絡をとってきたパートナーたちに話した。
「 だってしょうがないじゃないか。あいつが、こういうことをいうから。 」 

 彼らが、日本を軽視していたのかどうかはわからない。だが、基本的に言語の違いが大きく影響していたのだろう。気持ちでは東京や日本の動向を重視していても、行動に結びつかないのである。

 その当時の松本は、そのあたりが分からなかった。おかしい。よくないと思ったことはなんでも、マネージメントコミッティに直訴した。

 マネージメントコミッティが動いたのは、いずれも1年ほどたってからであった。しかも、松本が指摘したのとは別の理由から改善を図った。すぐに実施すれば、自分たちのメンツが保てないからである。

 ( つづく ) 

 ( 引用: 『私の仕事術』 松本大著、 『ネット金融維新伝』 ) 



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2012年06月21日

日本の金融業界の天才たち (13) 松本大 (まつもとおおき)

 【  連載記事は下記のカテゴリー欄より通してご覧になれます 】

  ( 前号までのあらすじ )

 東京大学法学部を卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマンサックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、東京金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。

 後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわす松本の際立った特徴は、 ” ウォール街の不夜城 ” とも揶揄 (やゆ)されるゴールドマンサックスで、一番のハードワーカーだったことだ。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 松本がゴールドマン時代とマネックス時代をくらべると、仕事量にしても酒の量にしても、起業してからの方が多い。睡眠時間も、起業してからのほうが少なくなった。それでも、健康という意味では、いまのほうが健康的だと松本は信じている。

 おそらく、若いころはとにかく一本気で、目的にむかって突き進んでいるに過ぎなかった。うまく折り合いをつけたり、往なすといったことができなかったのだろう。

 平成3年5月、おどろくべき事実が発覚した。松本がゴールドマン・サックスに移る前にいたウォール街の帝王、ソロモン・ブラザーズが、平成2年12月から平成3年5月までの米国債の入札で不正を犯したのだ。

 米財務省が決めている35%という入札許容上限をうわまわって応札したのである。それも、顧客の名前を無断使用して、44%、57%を落札した。ジョン・グッドフレンド会長ら首脳部が辞任した。

 だが、事態はそれだけではおさまらなかった。株主が、ソロモン・ブラザーズと経営者を相手取って提訴した。世界銀行、カリフォルニア州職員退職基金 (カルパース) が国債取引の停止を決めた。

 ほぼ1年半で、ソロモン・ブラザーズの屋台骨は崩れた。松本は、まわりからいわれた。

 「 泥舟に水が入る前に出て行ったね。 」
 「 すごい勘だね。 」 

 さらに、ソロモン・ブラザーズから独立した債券トレーダーのジョン・メリウェザーを中心に設立したLTCM (ロング・ターム・キャピタル・マネジメント ) が、平成10年には破たんの危機に立たされていた。

 松本は最初の就職先であるソロモン・ブラザーズ・アジア証券に入った当時、ジョン・メリウェザーの下で働いたことがある。松本は、ジョン・メリウェザーの特質すべき才能は “ 好奇心の強さ ” にあるとし、こんなエピソードを語る。

 『  彼は、当時の私にとってはまさに殿上人で、年齢は41歳くらい。ソロモン・ブラザーズのバイスチェアマンでした。社内のナンバー2の立場にいましたが、実力ではまさにナンバー・ワン。雲が全部落っこってくるような勢いでした。 

 その彼が持っている才能のなかでも、最大の能力は何なのかを考えてみると、無尽蔵にもっている “好奇心” だと思うのです。 

 好奇心とは、いつでも 「なぜだろう」 と考えて、自分なりに答えを出すことだと思います。テレビや新聞、雑誌、ラジオに加え、インターネットが普及し、無限ともいうべき情報が流されています。

 それを単に受け身で処理するのではなく、何か気になる情報があった時には、とりあえず仮説を立てて理由を考え、場合によっては不明なところを調べたり人に聞いたりして
 「 答えはこれだ 」 というところまで、考えきることが大切です。

 間違ったらはずかしいとか、めんどうくさい、などと言って何もしなければ、そこから先には、まったく進めません。自分の考えや行動が正しいのか、間違っているのかも分かりません。その結果、軌道修正することができなくなってしまうのです。

 私がソロモン・ブラザーズの東京オフィスで働いていたころ、ニューヨークからジョン・メリウェザーがやって来ました。その実力ナンバー・ワンが、ツカツカと新人である私のデスクのところにやって来たのです。

 “ お前、先週こんなトラブルがあったな? あれ、どうなった。 ” 

 こう聞くのです。そのトラブルの内容も、本当に些細な、たとえばブッキングの間違いといった程度の話です。極東の、まだ入社して間もない新人が抱えていた、それも本当に些細なトラブルまで知っていて、それを “ あれはこうすれば良いんじゃないか?” などとアドバイスしていくのです。

 この人はいったい何なんだろうと、正直思いました。ほんとに異常です。 

 別に、細かいことをいちいち指摘されたことが嫌だったわけではありません。何でそんなことにまで興味があるのか、その好奇心の強さに、開いた口がふさがらなかったのです。

 今でも、ジョンが来日したときにはいつも会って、いろんな話をしていますが、アメリカのことだけでなく、日本のことも本当によく知っています。

 しゃべっていても、考えがどんどん先に行ってしまい、私が同じことを繰り返したりすると、もう次の話題に移ってしまいます。ほんとに異常なスピードで、どんどん先に行ってしまうのです。

 その内容も、ビジネスから経済、政治と何でもありで、大局的なことから些細なことまで、日本にいる私でさえきづかなかったこと、知らなかったことも、彼はきっちり把握しているのです。

 その好奇心の強さは、ある意味、変態チックと言っても過言ではありません。

 その彼を見ていて思ったのは、本当の好奇心の強さというものは、大きな流れにだけ興味があるのではなく、あらゆる些細なことにまで及ぶのだということです。

 どうしてジョン・メリウェザーがそれだけの好奇心を持続できるのかは謎です。でも、かつてのソロモンの同僚たちと話をしていて異口同音に口をそろえて言うのは、

 “ 彼の能力で最も偉大なものは、やはり好奇心だな ” ということ。 

 私が出会ったビジネスパーソンの中で、この人凄いな、実力あるな、と思う人は、まず例外なく情報に関する感度が高い。

その情報感度を支えるのが好奇心だとすれば、ビジネスパーソンとしての実力を高めるために必要な要素は、英語でもなければMBAでもない、実は、限りない “好奇心” だと思うのです。 』

 ( 引用: 『私の仕事術』 松本大著、 『ネット金融維新伝』 ) 




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2011年07月28日

日本の金融業界の天才たち (12) 松本大 ( まつもとおおき )

 【 各連載記事はカテゴリー分けされております。過去の連載は下記のカテゴリーからご覧ください。 】

 ( 前号までのあらすじ )

 東京大学法学部を卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマンサックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、東京金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。

 後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわす松本の際立った特徴は、 ” ウォール街の不夜城 ” とも揶揄されるゴールドマンサックスで、一番のハードワーカーだったことだ。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 仕事は「量」で決まる!
 
 若い頃は1日14時間しか働けなかったというマネックス証券創業者の松本大 社長CEO。

「40歳までは長時間仕事に打ち込め」

 と、「日経ビジネスAssocie」のコラムで、「ハードワークのすすめ」を説く松本氏は、体験的真実を語る。

 ” 入社9年は目の前の仕事に没頭せよ。

 社会に出て少なくとも9年間くらいは、義務教育期間のようなもので、ひたすら目の前の課題に没頭する時期だと思う。

 義務教育の間は「何でこんな勉強をするのか」なんて疑問を持っても答えなど出てこない。でも、ここで勉強をやめてしまったら、その後のより高度な勉強はあり得ない。仕事だって一緒だ。「もっと自分に合った仕事があるはずだ」と言うのは9年くらい今の仕事に打ち込んでからでも遅くない。

 かく言う僕も、仕事を始めたころ、隣の芝生が青く見えたことはある。でも、ある時ふと気づいた。「僕の目の前の芝生はとんでもなく広いじゃないか。まずはこれを刈ってからだ」と。

 どんな仕事だってやり出せばキリがなくなるはず。例えば、仕事で必要な何らかの数字を調べるとしよう。その数字を知るだけなら、5分で済むかもしれない。でも、1時間かけて調べれば、その数字の背景や過去の推移など多くの情報が入手できる。

 そこまで調べた人と単に一つの数字を引っ張り出してきただけの人で、アウトプットに差がつくのは当然だろう。

 「人間のもともとの能力に大きな個人差なんてない」

 というのが僕の持論だ。昔は修業が足りなくて1日14時間しか働けなかったが、今はもう少し働ける。こうやってひたすら経験を積むことで、自分の成長を実感してきた。それは今も変わらない。

 経験による成長。ここにはある種のトリックも働く。仕事における交渉力や分析力には、経験値によって大きな差が表れる。より多くの経験をしたがゆえに、より適切な解が得られる。

 だが、多くの人はそう考えない。「あの人は能力が高い。少し高いポジションを与えよう」と考えてしまう。結果、大きな責任と裁量を持ち、よりハイレベルの経験が積める。そうして経験とキャリアが相互に作用して太っていく。

 では、仕事が好きになるにはどうすれば良いのだろうか?


 その解は、 「 好きだと思えば仕事を好きになれる 」

 仕事よりもプライベートを大切にしたいという生き方は、それはそれで良いと思う。ただ、僕にはプライベートを犠牲にしているという意識はまるでなかった。理由は簡単。仕事が好きだったから。

 もし、あなたが、目の前の仕事が好きでないなら、好きになればいい。「好きになれる仕事を見つける」なんてまどろっこしいことを言うより、こっちの方が断然手っ取り早い。

 では、どうすれば好きになれるか? 好きだと思えばいいだけだ。

 以前、飛行機の機内放送でたまたま聞いた落語で、桂枝雀さん(故人)が言っていた。「落語家が何か面白いことを言ったら笑ってやろうというのは間違った態度ですよ。面白いから笑うんじゃなくて、アハハと笑っているうちに何だか知らず面白くなってくる。そういうようなものなんですよ」。

 いや、冗談抜きでこれは真実だ。この仕事は面白い、好きだと思っているうちに本当に好きになる。

 僕たちは皆、人間を万物の霊長たらしめる立派な脳を持っているのに、これを迷ったり何かを嫌ったりするために使うのはもったいない。何かを好きになって没頭することに使う方が何倍も楽しい人生だと思う。

 入社から9年間は義務教育期間のようなもの。何でこの勉強をするのかと悩んでも仕方ない。与えられた課題をきちんとこなし、基礎学力をどれだけ身につけたかで、その後の進路が決まってくる。

 高校は好きな学校を選べるし、大学なら何を学ぶかも選べる。僕がマネックスを設立したのは社会人になって13年目。ちょうど高校を卒業して大学に入る段階に当たる。

           ( 引用 : 『 日経ビジネスAssocie 』 )


 【 ジャズからカントリー、クラシックまで、自ら雑食と語るほど幅広い音楽を聴く松本大の好きな第1位 ピンク・フロイドのアルバム 】


 
 【 私の仕事術 松本大:著 】



 
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2011年06月26日

日本の金融業界の天才たち ( 11 ) 松本大 ( まつもとおおき ) 

 【 各連載記事はカテゴリー分けされております。過去の連載は下記のカテゴリーからご覧ください。 】

 ( 前号までのあらすじ )

ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマンサックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、東京金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわしていく。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 
 
 トレーディングは知的作業

 松本が米系投資銀行で働いた期間は12年におよぶ。

 ゴールドマンサックス証券に移って間もない平成2年から、日本の景気は急激に冷え込み始めた。平成元年末には、日経平均が最高値の38,957円44銭をを記録し、4万円に突入するかとも思われたが、一気に下落し、翌年には2万円を割り込んでしまった。

 松本は、いわゆるバブル景気が崩壊したことにまったく気がつかなかった。失敗したり、だれかとぶつかったり、いい事、悪い事、うまくいったこと、ぎりぎりのところで助かったことなどを日常的に繰り返しながら、強烈な量の仕事をこなしていた。

 しかし、松本の仕事自体、金融マーケットの近くにいながらも、あくまでも目の前で起きた現象をどう解明するかに大きなウェイトが置かれていた。その意味では、株価が上昇したのか、あるいは下落したのか、それはあくまでも現象のひとつにしか過ぎなかったのだ。

 いっぽうで松本は、FICC ( Fixed Income Currencies, Commodities : 債券・為替・商品取引部門 ) の人材採用にもかかわった。年間に100人から120人の採用候補者と会った。二日と置かず、採用候補者と会っていた。

 その数というのは、シェアとしてはかなりの高さである。マーケット全体を眺めまわしても、ゴールドマンサックスに採用可能な高い水準にいる債券や為替のプロフェッショナルは東京市場でせいぜい300人しかいなかった。そのうちの200人と会い、これはと思う人材を10人ほど採用した。

 若くて高いレベルの社員を採用したことで、ゴールドマン・サックスの自力を引き上げることに、松本は大きく貢献した。新卒や院卒で採用したなかでは、後にゴールドマンサックスのゼネラル・パートナーになった者もいる。

 トレーディングから採用から、チームの管理から多岐にわたる仕事に没頭していたが、松本は生来、トレーディングが好きだという。

 トレーディングの魅力とは、まず、マーケットが巨大な存在であることがある。大げさにいえば、 「 地球人全員 」 が作っている。情報があっという間に世界中に伝わり、個人から機関投資家、さらに国までが入り乱れて売買している。

 そこで決まった価格は、世界の人たちが作った1つの事実と言える。その動きのなかで、マーケット参加者がいま何を考えているのかを必死に考える。これはすごく知的な作業だと、松本は言う。

 高度な情報収集・情報分析力、さらに想像力が必要。しかも、結果は即座に出る。逃げ場はないが、やり甲斐を感じる。

 「 取り引きがうまくいかないときに “ マーケットは間違っている! ” と言うトレーダーは、だめなトレーダーですね。マーケットが正しいんです。そういう人はいつまで経っても儲かりません。 」 と松本は言う。

 松本は一日4時間しか眠らない。ゴールドマンサックスでがむしゃらに働いていた頃は、体調管理もしていなかった。それゆえに、健康面でも、マネックス証券を起業してからより、ゴールドマン時代のほうが体調は悪かったくらいだ。

 ある日、いきなり、バチ―ンとなにかで叩かれたような音が耳に響くとともに、背中が激痛に襲われることがあった。ひどいときには、仕事をしているときだけでなく、寝ているときにも同じような激痛に襲われた。

 右手を思うように動かせないことが2週間ほどつづいたこともあた。脳外科にも通って診てもらった。軽い脳梗塞のような状態になっていたのかもしれない。それほどストレスを感じていた。
 
 松本は、「 ついていくのが大変」 ( マネックスグループ取締役・工藤恭子 ) というほどの猛烈ビジネスマンではあるが、仕事一本槍ではない。

 日曜日には秋葉原に行って、パソコンショップをはしごし、パンフレットをどっさりともらってくる。駅前サウナに入ってリラックスする。

 そして酒をよく飲む。飲んでも飲まなくてもにぎやかだ。雑誌は新聞は流し込み、記事の中身もさることながら、見出しの大きさなどでメディアがその出来事にどれだけ関心を示しているかを探る。音楽はクラシック、ジャズ、演歌まで何でも聴く。

 「 何よりも一緒にいると楽しい人物 」 ( ディー・エヌ・エー代表取締役・南場智子 )とみなが異口同音に言う。ソロモンブラザーズの新入社員としてニューヨークで研修を受けていた当時、性格検査があった。

 「 トレーダー向き = 内向き、論理的 」 「 セールスマン向き = 外交的、情緒的 」 の2つのタイプに分けられたが、松本はすべての項目が後者だったと、同期入社の末永徹は回顧する。

 「 外交的なのは母親の影響 」 と松本は言う。母・和子は、ビールで髪を洗い、茶髪でゴーゴークラブに通ったほどの活発な女性。松本に言わせれば 「 ケ・セラ・セラ 」 の楽天的な性格だった。

 日本のゆがんだ金融構造を変えてやろうというロマン、上に対しては誰であろうと言いたいことを言う素朴なほどの正義感、しかし、それを生のままでは出そうとしない都会的な洒脱さ。そして周囲の者を明るい気分にさせる爽やかな立ち振る舞い。こうした性格がまわりの人を吸引していく。


                       ( つづく )

  ( 引用: 「GOETHE」、 「 Big Tomorrow 」、 「 日経ビジネス 」、 「 ネット金融維新伝 」、 「 私の仕事術 」(松本大: 著) )








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2011年04月03日

日本の金融業界の天才たち (10) 松本大 ( まつもとおおき )

 【 各連載記事はカテゴリー分けされております。過去の連載は下記のカテゴリーからご覧ください。 】

 ( 前号までのあらすじ )

ソロモン・ブラザーズ・アジア証券からゴールドマンサックス証券に移籍した松本は、慣れない社風の中でも猛烈に働き、東京金融業界のライバル会社からトップ級のタレントをどんどん引き抜いていき、債券部を強化していく。後発組だったデリバティブの商品開発、トレーディングで頭角をあらわしていく。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 松本がゴールドマンサックスに移籍して頭角を現したのはデリバティブ ( 金融派生商品 ) の商品開発からトレーディングまでの幅広い分野であるが、彼自身はデリバティブをそれほど難しいものとは意識していなかった。

「 デリバティブというとそれだけで、ものすごく難しそうなイメージを抱くんですが、ようは株や債券と同じ金融商品の一種。現在ではデリバティブを開発するときに必要な数学的技術というのは、すでに相当のところまで進んでいるんです。あとは税法をきちんとチェックして商品の性格付けをするくらい。 」 

「 よく評論家の人が、  『 金融技術はアメリカの方が進んでいる。 日本人にデリバティブは作れない。 』  なんて言ってますけど、そんなことは絶対ありません。日本の銀行に勤めていても開発できる金融商品です。

 ただしバブルの後、土地の値段が下がり、株価も下落したから日本の銀行は非常に苦しい経営状態のなかで仕事をしていかなくてはならなかった。

 そんな中では大金を使ってデリバティブの運用をしようなんてとてもできなかったし、やったとしても少額だった。あのころ、日本の金融マンにはデリバティブを開発したり運用したりする機会がなかっただけで、創造する能力はアメリカ人とまったく同じです。

 ITと金融はアメリカが一番だという認識が広まっていますが、私がゴールドマンでデリバティブをしている時には、誰かのマネをしたことは一度もなかった。マネをしていい結果を残そうなんて考えたこともない。 」

松本はゴールドマンに入社して2年後の1992年に28歳でヴァイス・プレジデントに就任する。
当時をよく知る部下は、 

 「 とにかくよく働く。そしていつも明るい。普通ならばこれだけ働けば愚痴が出るだろうという状況でも、絶対に弱音を吐かない。 」  という。当時の平均睡眠時間は約5時間。時には早朝4時半に出社して、米国とのテレビ会議に臨んでいた。

 松本はこのような働き方を自動車のエンジンにたとえる。

 「 高いトルクのエンジンを搭載した車を低回転で走らせるよりも、低トルクのエンジンをガンガンにまわして馬力を絞って走る。こっちの方が性に合っている。 」 つまりベンツでゆったりと走るよりも、 「 バイクで突っ走る 」 方がいいという。

 松本は、債券のトレーディング、デリバティブの開発とトレーディングを手がけていた。
フロント12人、ミドルバック5人、すべてで17人を率いた。そのチームには専門家はほとんどいなかった。

 デリバティブは、かなり専門性が高いので、ほかのデリバティブを担当するチームでは、たいていデリバティブ知識のあるアメリカ人、フランス人、ドイツ人をつかっていた。日本人でも、外資系証券でデリバティブにかかわったことのある人ばかりであった。

 松本の考えはむしろ独特で、まわりが思うほどデリバティブは難しいと思わず、日本人の高い能力からすれば十分に伍していけると考えた。日本の機関投資家が世界の機関投資家に太刀打ちできないのは、日本人個々人の能力の低さでは無い。

 組織だてをするトップが、プロフェッショナルな世界である投資金融について理解できていないからだと思っていた。

 そこで集めたのは、学部卒、大学院卒の、ほとんど知識の無い若手社員ばかりであった。経験者といっても、せいぜい他の証券会社で数年の経験があるくらいの若手であった。

 松本の狙いは、みごとに当たった。若手社員は、経験はなくとも、毎日毎日現場にいることで実地でデリバティブを理解した。どのように仕組めば、デリバティブ商品はできるかが経験則でわかってくる。しかも、若いので、一度分かれば柔軟な発想で金融にアプローチするようになる。

 外国人トレーダーとベテランの営業マンをつかって利益を上げる他の外資系証券と比べると、松本がゴールドマンサックスで債券のトレーディング、デリバティブの開発・トレーディングを手がけたチームに、専門家はほとんどいなかった。

 まるで子供のようなチームであった。

 それでも、松本の率いるチームは、当時としては飛び抜けた額の収益を上げた。東京市場だけに限定すれば、おそらくダントツだったであろう。若い社員ばかりを使っていたので、利益率も高かった。

 そのうち、まったく未経験だった社員のうちのひとりは、外国人トレーダーたちが下を巻くようにさえなった。

 「 彼の書くプログラミングは、世界中で最もすばらしい。 」 

                       ( つづく )

  ( 引用: 「GOETHE」、 「 Big Tomorrow 」、 「 日経ビジネス 」、 「 ネット金融維新伝 」、 「 私の仕事術 」(松本大: 著) )






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2011年02月13日

日本の金融業界の天才たち (9) 松本大 (まつもとおおき)

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 ( 前号までのあらすじ )

 ソロモン・ブラザーズ・アジア証券で松本大は外国債券のオプション、先物取引、トレードアイデアを練り、マーケティングも手掛けた。米国債のトレーダーとしても活躍した。だが人一倍働いていた松本は3年目の冬の報酬の面談で上司にうそをつかれ、会社不振で憔悴する。

 かつての同僚は、 「本人だけに年功序列的でない報酬を払うと言われたようですが、仲間と飲みに行った時に同じ賃金だと分かったのです。」

 善悪の判断がはっきりしている松本は、役員の引き留めにもかかわらず1990年2月に退社。その頃、何度か誘いのあった赤坂アークヒルズの一階上、ゴールドマン・サックス証券に4月に転職する。

 「 ソロモンブラザーズで築いた実績はチャラでもいいや。毒を食らわば皿までもという気分でしたけどね。」

 とはいうものの、往時ソロモンとゴールドマンとでは天と地ほどの差があった。ゴールドマンサックスは立ち遅れていた。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 
 
 − ゴールドマンサックス証券へ − 
 
 とはいうものの、往時ソロモンとゴールドマンとでは天と地ほどの差があった。ゴールドマンサックスは立ち遅れていた。英語はできるが日系企業の枠に適応できなかった人材が外資系証券には少なくはなく良質といえなかった。

 東京のゴールドマンとしても将来的な波及効果を考え、実績さえ伴えば日本人のパートナーづくりを構想していた。松本は有力な役員候補として迎えられた。

 なぜか? 面接した外国人上司が松本の異能を瞬く間に見抜いたからである。

 証券は人が財産。松本は組織強化のために年間150年から200人ペースで業界の人材に会い、引き抜いた。嫌われて出入り禁止になった金融機関も多かった。

 その頃、5分も話せば相手の能力が分かるようになっていたという。人に会うと、逆に自分たちの立ち位置が良く見え、目標の設定がしやすかったという。

 外資系はすでに出来上がったインフラで実績を上げるより、新しいものを立ち上げたほうが評価が高い。もの作りに凄まじい情熱をかける松本の性分には合っていた。以前、松本の面接を受けてゴールドマンに入社した社員はこうも指摘する。

 「 松本さんは、軌道に乗ったものを引き継ぐのは凄くないかもしれない。ゼロからスタートするものについては本領を発揮した。 」 

 入社して1カ月の研修後に米国債、トレーディング、日本以外の国債、マーケティングなどを担当し、1990年11月に円金利のデリバティブをゴールドマン・サックスで立ち上げる。

 パソコンを使いこなすようになったのはこの頃だ。 松本は秋葉原を歩きまわるのが大好きで、週末に秋葉原に行き、電器店でパソコンのカタログをどっさりもらってきて、喫茶店でタバコをふかしながらスペックを見る。

 そして、自分で実際にロータスのプログラミングまで作ってしまったのだ。プログラムを書き、債券用の計算機を改造して、職人芸で半年間スワップの計算をしたという。

 また、ソロモン・ブラザーズ時代は外貨のみだったのが、円も扱うようになり、大企業の社債の引受けなどキャピタルマーケット (資本市場) の仕事も担当する。基本的に、債券や為替ビジネスに関しては、営業以外のすべてのことを行う。

 「 ゴールドマン・サックスの人たちは、本当に分かっていないな。 」 

 と、松本は言った。

 ソロモンブラザーズのトレーダーたちと比べると、金融の知識は驚くほど低かった。
松本が所属していたソロモン・ブラザーズのスペシャル・チームには、ノーベル賞を受賞してもおかしくないといわれた世界レベルの専門家たちが揃っていた。

 ノーベル賞クラスの専門家でさえ、金融マーケットの動向全体を理解し、日々起こる現象を説明することなどできない。理解できるのは、その大きなマーケットで起きたほんの一部の現象に過ぎない。

 ソロモンブラザーズでは、マーケット全体を解明することはできないと見切っていたうえで、利益を上げることに徹していた。それゆえ、世界屈指の専門家たちを集め、解明できることだけに徹底して資金をつぎ込んだ。それが、莫大な利益を得られたソロモン・ブラザーズの独特の手法だった。

 ソロモンブラザーズのライバルは、ソロモン・ブラザーズがどうしてぼう大な収益を上げられたのか、当初は分かっていなかったらしい。ソロモン・ブラザーズがマーケットの仕組みを解明したのではないかと焦り、マーケット全体の解明にむけて懸命になる金融機関すらあらわれたという。

 松本が入社したゴールドマン・サックス証券は、ソロモンブラザーズのような徹底したアプローチはしていなかった。利益を上げるための執着、取組も甘い。

 たとえば、そのころ、新たな手法として脚光を浴びたデリバティブ ( 金融派生商品 ) に関しても、ゴールドマン・サックスのトレーダーたちは、それほど深く理解していないように見えた。

 デリバティブは、株式・債券・金利・外国為替などの金融商品 ( 原資産 ) から派生して生まれた。先物取引・オプション取引・スワップ取引が代表的である。

 そのような商品の深いところまで理解していなくても、 「 デリバティブは凄い 」 と単純に受け入れてしまっているようであった。そのような知識的にも技術的にも浅い金融機関でも、しっかりと利益をあげられていたからである。

 松本は、ソロモンブラザーズにいた頃、後に LTCM ( ロング・ターム・キャピタル・マネジメント ) に移籍したエリック・ローゼンフェルドに言われたことを思いだした。

 「 なあオオキ、金融の世界のお金儲けって、分かっているか、分かっていないかは、本当は関係ないよな? 」

 さらに、松本が、ゴールドマン・サックスに入社して驚いたのは、情報の扱われ方だった。

 ソロモン・ブラザーズでは、スペシャルチームしか知らない極秘の情報がかならずあった。他のスペシャルチームも知らない。スペシャルチームにそれぞれついているリサーチチーム同士で、情報交換をすることもなかった。

 それどころか、自社のセールスマンにすら伝えられなかった。

 ところが、ゴールドマンサックスでは、自社で把握している情報は惜しげもなくすべて社内で共有していたのだ。顧客にもそれを伝えていた。同じ金融機関でも、情報開示のしかたがあまりにも違いすぎた。

 松本は、その企業風土の違いに慣れるまでには半年ほどかかった。
 
                         (つづく)

          (引用: 「GOETHE」 、 リスクテイカ― ネット金融維新伝)




 

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2010年12月23日

日本の金融業界の天才たち (8) 松本大 (まつもとおおき)

 【 各連載記事はカテゴリー分けされております。過去の連載は下記のカテゴリーからご覧ください。 】

 松本がソロモン・ブラザーズ・アジア証券に入社してから3年後の平成2年、ある事件が松本の心を揺るがす。ある日、松本は上司から呼ばれた。

 ボーナスの査定についてであることは、まわりの様子からも、松本は察することができた。上司は松本が席につくや、やや暗い表情で言った。

 「 おまえは本当によくやっている。 」
 「 はい。 」

 松本は、その言葉を素直に受け取った。実際に、松本の業績は目を見張るものがあった。同期入社の社員たちと比べて、はるかにいい数字を上げていた。上司は、その後、ボーナスの額を提示していった。

 「 これがボーナスだ。少ないと思うかもしれないけど、きみは、まだ若いから。でも、本当によくやってくれているから、ちょっとだけだけど、同期に比べるとおまえだけ多いんだ。 」

 「 はい、わかりました。 」

 松本がオフィスに戻ると、興味津津といった顔で同僚たちが待っていた。松本が、いったいいくらボーナスがもらえたのか、知りたくてウズウズしていたのである。外人の先輩が訊いてきた。

 「 オオキ、いったい、いくらもらったの? 」
 
 松本は、正直に、上司から告げられたままの数字をいった。先輩が、青ざめた。おどろきを通り越して、信じられないといった表情をあらわにした。

 「 オオキ、きみは、それで、文句ひとつ言わずに戻ってきたのかい? 」

 「 ええ、そうですよ。 」
 
 「 信じられない。 アメリカの感覚では、きみの上げた利益に対してそんな低いボーナスなんてありえない。少なすぎる。 」

 「 そうなんですか。 」

  松本は飄々としていた。
  アメリカではいざ知らず、ここは日本であり、東京である。しかも、上司は、同期よりも少しでも多くしてくれたと言うのである。自分の実力を認めてくれた証があればいい。そう思っていた。

 ところが、飲みにいった際に、同じ東京大学から入社した同期社員が、ボーナスの額について話し、額がいっしょだったことがばれてしまう。

 「 ああ、もう駄目だ。 」

 松本は、瞬時に思った。松本のヤル気を粉々に打ち砕いた瞬間だった。

 上司は、まわりの先輩たちが認めるほどに素晴らしい業績を上げている松本に対して、ボーナスは同期入社の社員たちと同じとは言い切れなかったのかもしれない。つい嘘が口を衝いて出たのは、申し訳ないとの思いがあったせいかもしれない。

 それならば、松本に会社の方針をきちんと伝えて欲しかった。

 「 入社3年目までは、どんなに高い業績を上げたとしてもほかの同期社員と同一の扱いをすることになっている。松本には、本当に悪いと思っている。 」
 そのように話してくれれば、松本も納得できた。

 しかし、上司のとった行動は、松本が知らず知らず引いている一線を越えてしまっていた。小学生のころ、担任の言葉に疑問を抱き、校長先生に詰め寄ったときと同じで、松本には受け入れることがとうてい出来なかった。

 いっそのこと、金融業から足を洗ってしまおうかとすら考えた。

 「 ジャズ喫茶でもはじめるか。。。 」

 ただ、3年前に、さまざまに考えた末に入った業界である。もしかすると、この一件は、業界的な問題ではなく、個人的な問題ではないかと思いとどまった。

 ソロモン・ブラザーズ・アジア証券のオフィスがある赤坂アークヒルズには、ひとつ上の階の10階にゴールドマン・サックス証券があった。東京大学法学部の同期で、新卒でゴールドマンに入社していた中居英治に電話を入れた。

 中居英治は当時、FICC ( Fixed Income, Currency, and Commodity Trading; 債券・為替・商品取引部門) で日本国債のトレーダーとして活躍しており、その後ドイツ証券の債券部門のヘッドに引き抜かれ、現在はバークレイズ・キャピタル証券の社長を務めている。

 松本が学生時代、就職活動をしている時に、先にゴールドマン・サックスに就職が決まり、
 「 ゴールドマン・サックスに来れば? 」 と、いつも誘いかけてくれていたのである。

 ただ、1990年代初頭は、ソロモンブラザーズが  “ウォール街の帝王“  と呼ばれるくらいにトレーディングで大きな利益を稼ぎ出しており、米国投資銀行では断トツでトップの地位にあり、ゴールドマン・サックスに行くのは格落ちだと思われていた。

 話はとんとん拍子に進み、ゴールドマン・サックスに入社することが決まった。
                                                                              (つづく)
 



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2010年10月02日

日本の金融業界の天才たち (7) 松本大 (まつもとおおき)

松本氏がトレードしていたデリバティブとは?

 ソロモン・ブラザーズ・アジア証券でも、ゴールドマン・サックス証券でも、松本大はデリバティブのトレーダーとして名を馳せた。それでは、いったいどのようなトレードをしていたのだろうか。
 インタビュー記事からその全貌をひもときたい。

 松本はヘッジファンド・LTCMを作ったジョン・メリウェザーなどの元で、デリバティブの理論などを勉強した。

 デリバティブとは、日本語では金融派生商品と訳される。株、債券など従来からある金融商品を “原資産” として、文字どおりそこから派生した取引を行うものだ。

 デリバティブには、先物取引、オプション取引、スワップ取引などがある。また、デリバティブの “原資産” となるものには、株、債券の他、外国為替、金利といったものがある。

 今、そこでついている価格で買ったり、売ったりする伝統的金融商品と比べて、デリバティブはなかなか直感的には理解しにくい。たとえば、「決められた期日に決められた価格で売る権利を買う」などと言われても、「売る権利を買う」ってどういうこと? などと思う人が少なからずいるに違いない。

 ■ ニュースが出る前に相場が上がっていることがある!?

 ニューヨークのソロモン・ブラザーズでデリバティブについて勉強した松本氏は、翌年、東京へ戻り、実際の業務でデリバティブを担当することになる。

 「東京へ戻って一番最初の仕事は外国債券の先物、オプションをシカゴの取引所に取り次ぐことや、新しいオプション取引のアイデアを考えることでした。それに加えて、正確なマーケット情報を社内に伝えることもやってましたね。

 当時は、チャートを手で書いてました。そして、どんなニュースがいつ出たかということをチャートに書き込むのです。

 一般の市況解説的なものを読むと、『××のニュースが出て、昨日の相場は上がった』なんてことが書いてある。けれど、よく調べてみると、ニュースが出る前に相場が上がったりしていることがあるんですよ」

 「そこで、本当は何が理由で相場が上がったのかを突き止めるわけです。

 通信社が提供しているニュースのサービスではすべてタイムスタンプが記録されているので、正確にそういうことが調べられるんですね。そして、どうしてもよくわからなかったら、シカゴに電話して聞いたりしてました」 チャートにニュースを書き入れるのは、誰かに言われて始めたのではなく、松本氏が自分で考えてやり始めたことだという。

 さて、日本でまだデリバティブが盛んでなかったこの当時、ニューヨーク仕込みでデリバティブの知識を身につけていた松本氏は、ほどなく、実際のデリバティブのトレードをやり始めることになる。

 「最初のデリバティブのトレードは、外国債券のオプションでした。外国債券のオプションに自分でプライスをつけて、機関投資家相手に売買するんです」

 松本氏は「オプションに自分でプライスをつけて…」とさらりと語ったが、オプションの値つけというのは非常に難しい。

 オプションの価格の話というと、だいたいノーベル経済学賞が云々、ブラック・ショールズ・モデルがうんたらかんたら、数式がバ、バ、バーッという感じで出てきて、記事を書いておいて大変申し訳ないが、記者自身もよくわかっていない。

 とにかく、そういった難しいオプションの価格決定を数式を駆使して行い、機関投資家相手に少しでも有利な取引を行うことが松本氏の利益の源泉の第一歩だったようだ。

 ■ 株のバブル崩壊に気づかないほどトレードに熱中

 さて、そんなふうにして、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券でデリバティブのトレードを行っていた松本氏だが、1990年4月にゴールドマン・サックス証券に転じることになる。

 時あたかも平成バブル崩壊の真っ最中。日経平均は約4ヵ月で1万円も下落するという恐ろしいことが起こっていた。

 しかし…

 「当時の記憶があまりないんですよ。株のことはあまり気にしてなかったし、見てなかったです。気づいたら、バブルは崩壊していた。

 金利や債券に関連する仕事をしていたので、金利下がってるな、債券上がってるなと思うだけですね。

 当時は朝から晩までトレーディングのことばかり。いろいろな人とのつき合いもあまり覚えがないほどです。

 夜中に自宅へニューヨークから取引の電話がかかかってきたりするんですよ。午前2時、3時、4時といった時間帯です。ベッドの横にラップトップパソコンを置いて、プライスを出したりしてましたね」

                     (つづく)
              (引用: 「ザイ! FX」、『ネット金融維新伝』大下英治 著 )




 
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2010年09月12日

日本の金融業界の天才たち (6) 松本大 (まつもとおおき)

 数人だけ半年間ニューヨークに残り、松本は希望した金融商品開発部門の研修を受けた。ジョン・メリウェザーのいた部署である。松本は、そのチームを補佐するための特殊チームに配属された。

 日本人の新卒が、このようなソロモンを代表するトップチームに配属されるのは大変稀有なことであった。そもそも、ニューヨーク研修には、日本人社員だけでなく、アメリカで採用されたMBA (経営学修士号) やイギリスで修士を取った経験豊富な凄腕が200人も来ている。投資銀行では、欧米では修士卒以上でないと、新卒採用されない。

 ニューヨーク研修では、ボンド・マスマティックという債券数理の講義を受け、債券の残存期間であるデュレーションや、金利の微小な変化による債券価格の変化率があるコンべクシティ、債券の証券化といった複雑な計算が加わってくる。

 開成高校時代は医者や物理学者をめざした松本である。6回行われたテストで、615点満点で612点というダントツ一位の成績を取ったところから、このような栄誉ある配属となった。

 ここで松本はマーケットに対する見方、リスクに対する見方の基本を教わった。世界の金融業界で名だたるトレーダーたちから、様々なことを教わることもあったという。

 ところが、英語はまったく通じなかったという。
ある日、部署のひとたちと一緒に酒を飲みに行ったらしい。店で、ビールを片手に話はじめた。いっしょに来ていたアメリカ人の同僚たちが、
 
 「 おまえはそんなに英語ができなかったのか? 」 と驚いたという。
仕事では、主に数字、計算が多いので、必要な言語はさほど多くはないのだが、日常会話となると、ほとんど上達していなかったのだという。 松本が必死で英語を鍛錬したのは、のちにゴールドマン・サックスに移ってからである。

 松本が日本に帰国して、外債のデリバティブを担当した二年目には、もう新卒の社員には見えないほど目立っていたという。デリバティブ (金融派生商品) の担当となった松本だが、

 「 デリバティブというとそれだけで、ものすごく難しそうなイメージを持つのですが、要は株や債券と同じ金融商品の一種。現在ではデリバティブを開発する時に必要な数学的技術というのは、すでに相当のところまで進んでいるのです。あとは税法をきちんとチェックして商品の性格付けをするくらい。 」 と言う。

 「 よく評論家の人が “金融技術はアメリカ。日本人にデリバティブは作れない”  なんて言っていますが、そんなことは全然ありません。日本の銀行に勤めていても開発できる金融商品です。ただしバブルの後、土地の値段が下がり、株価も下落したから日本の銀行は非常に苦しい経営状態の中で仕事をしていかなくてはならなかった。

 そんな中ではデリバティブの運用をしようなんてとてもできなかったし、やったとしても小額だった。あのころ、日本の金融マンにはデリバティブを開発したり運用したりする機会がなかっただけで、創造する能力はアメリカ人とまったく同じです。

 今、ITと金融はアメリカが一番だと思われています。日本はアメリカの真似をしても良いんだという風潮もある。でも、私がゴールドマンにいた時でも、デリバティブの開発をしていた時、誰かのマネをしたことは一度もなかった。」 

 松本は外国債券のオプション、先物取引、トレードアイデアを練り、マーケティングも手掛けた。米国債のトレーダーとしても活躍した。だが人一倍働いていた松本は3年目の冬の報酬の面談で上司にうそをつかれ、会社不振で憔悴する。

 (引用: GOETHE、 プレジデント、エコノミスト、『ネット金融維新伝』大下英治 著 )

 




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2010年09月06日

日本の金融業界の天才たち (5) 松本大 (まつもとおおき)

 1987年に新卒で、10人ほどの同期生とともにソロモン・ブラザーズ・アジア証券に入社した松本大は、当時、日比谷の富国生命ビルから赤坂アークヒルズに移っていたソロモンのトレーディングフロアで働き始める。

 新入社員の同期で、あすかアセットマネジメントの平尾俊裕氏は、松本を称して
「 研修当時から、自分が中心になって東京支店を支えるという認識が彼にはあった。ヘッドになるという意識は強かったですね。 」 と語る。

 やがて新人社員が送り込まれたニューヨークでの研修の、数学のトレーニングテストでは、松本が世界から集まった130人の中でトップだった。松本の演出出力処理の特性は、限られた時間内で間違わずに解く、という能力だった。

 松本は、10人ほどの新入社員の中で、他の日本人トレーナーとは一線を画した優等生であったと、おなじく東京大学法学部を卒業した同期の末永徹氏は語る。

 松本は特に英語ができたわけではないのに、苦痛に耐えて授業を解禁し、日本人の群れとは距離を保ち、アメリカ人に交じって努力していたという。

 優等生といっても、ソロモン・ブラザーズの優等生とは、暇を見つけては、トレーディング・ゲームにふける連中である。これは、全員に配布されたヒューレット・パッカード製の高性能電卓を使い、疑似先物市場で賭けごとをする遊びである。

 電卓に乱数表示をプログラムして、十回、不規則に数字を表示させる。その合計値を基準にして売買の成績を競うものである。零から九の合計の四十五が最も確率の高い値であるが、たとえば、最初に大きい数字がでれば、予想される値も大きくなる。

 回数が進むにつれて狭められていく合計値のとり得る確率分布を考え、それより、低い値で買い、高い値で売ろうとする。大きい数が続くと思ったものが  「五十で買う」  と言い、誰かがそれに応じてヒットすれば、取引が成立する。この場合、合計値が五十なら引き分け、大きければ買い方の勝ち、小さければ売り方の勝ち。こういう取引を積み重ねて、合計値との差にあらかじめ決めてある倍率を乗じて清算する。

 儲ける額は、麻雀でいえばテンピンほどの小遣い銭のようであったが、松本は日本人として唯一、この10人ほどのグループに属していたという。

 ニューヨーク研修が終わると、本配属になるが、松本は周囲から集めた情報で、債券先物オプションに配属されることが最も有利だと判断する。理由は至極簡単で、この、ヘッジマネジメントと呼ばれるデスクの長がソロモンで一番偉かったからである。

 1987年12月のある日、ニューヨークのアパートの一室に日本人トレーニーが集められ、松本大は東京から出張してきた幹部から、ヘッジ・マネジメントチームへの配属を告げられる。ニューヨーク勤務である。
 末永徹氏も、株式先物オプション配属で、ニューヨーク勤務となる。

 1980年代当時のソロモン・ブラザーズは、ジョン・メリウェザーを中心とした、面倒な計算のうえに、異なる回号の債券だが同じ種類の債券の価格差を割り出し、会社の巨額自己資本をそこに投じて割高な方を売り、割安な方を買うアービトレージ (裁定取引) によって巨額の収益を得ていた。

 アービトレージは金融用語だが、分かりやすく言うと、りんごとみかんを並べて、割安な方を買い、割高な方を売るトレーディングである。美味しいみかんを棚に載せて客に売るのは、普通の証券営業の世界である。

 ジョン・メリウェザーは、アービトレージの神様で、41歳。 当時のソロモン・ブラザーズではバイス・チェアマンだった。社内のナンバー・ツーの立場にいたが、実力ではまさにナンバー・ワン。飛ぶ鳥を落とすどころではなく、雲が全部落っこちてくるような勢いがあったと松本は振り返る。

 ジョン・メリウェザーは、ソロモン・ブラザーズがやがて米国債不正入札事件で屋台骨が揺らぐようになると、トレーダーの部下を引き連れてLTCM (ロング・ターム・キャピタル・マネジメント) を、コネティカット州に設立し、裁定取引を主とした巨大ヘッジファンドを設立するが、要するにアメリカではトレーダーの神様のような人である。

 松本はこのジョン・メリウェザーの部下となり、トレーダーとしてのキャリアをはじめる。
 
                                    (つづく)
  ( 引用: 「私の仕事術」 松本大著、 「メイク・マネー! 私は米国投資銀行のトレーダーだった」 末永徹著、 「GOETHE」 )

 



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2010年08月28日

日本の金融業界の天才たち (4) 松本大 (まつもとおおき)

 松本大がたいていの東大生が進む進路を選ばずに外資系金融に進んだ理由は、84年と85年に米国を旅した際、言葉がまったく通じなかったため、英語をきちんとしゃべれる様になろうと決意したことだった。

 それではなぜ外資系の中でも金融だったのか?

 松本大が就職を考え始めた時期、経済学者ジョン・ガルブレイスの 『 不確実性の時代 』
という本を手にとったという。題名だけで 「 世界は不確実なんだ 」 と 納得して、逆に確実なものはなんだろう? と考えたそうだ。

 まず頭に浮かんだのは地震。地震はいつか必ず来る。そのときは都市の再構築が必要になるので、都市計画に関する仕事は確実だと思ったが、よく考えれば地球のきまぐれで地震は今後50年間こないかもしれない。地震の周期は、自分の人生の波を簡単に飛び越えてしまうかもしれないと考えた。

 国や企業、人間など個々にバイオリズムがあるとすると、金融は、ある瞬間でバイオリズムの波が交錯した企業と企業、人と人との間をとりもつ仕事だ。金融の世界なら、経済的なダイナミズムに数百倍、数千倍の頻度で触れられる。それが魅力に映ったという。

 英語を話せるようになりたかったから外資系、そこに金融をかけあわせて外資系金融となったわけである。

 プラザ合意のあった1985年から主要外資系金融企業が東京市場で新卒採用をはじめるようになり、松本大が就職した87年には、米系銀行や米系証券は10人から20人の新卒を採用するようになっていた。それがバブル経済の拡大とともに1988年には各社で20人から40人と、徐々に拡がっていくのである。

 松本はJPモルガン、ゴールドマンサックス、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券の3社を受ける。JPモルガンは肌があいそうになかった。

 ゴールドマン・サックスは、あとになって分かったことだが、人事部が履歴書を紛失したらしく、途中で選考の過程から外れてしまった。ソロモン・ブラザーズ・アジア証券だけが順調にすすみ、採用が決まる。

 1987年4月に、当時、赤坂アークヒルズに移転したばかりのソロモンに入社した松本は、入社式に東京支店長で、イギリスの大蔵省出身のデリック・モーンから入社祝辞を受け、債券のトレーディング部門に配属される。

 債券のオプション、スワップ、先物といったデリバティブの組成・販売、トレーディングなどを担当した。新人のころは自発的に毎朝7時までには出勤し、テレックスやアメリカのニュースサービスをチェックし、ニューヨークのマーケットなどの正確なリポートを作って社内に配ったという。

 夜もその日にアメリカで出される統計などの予定を出したりしたという。文字通り、セブンイレブン (7時から夜11時まで) の生活である。

 松本は “日経Associe” の取材の中で、 『 仕事は量だ。 1日14時間働けない奴に仕事を語る資格はない。 』 と語っている。

 生き馬の目を抜くとも揶揄される証券業界の中で、人より優れた成績を残そうと思ったら、当然仕事に没頭する時間は長くなくては業績は残せないし、何よりも、人の倍くらい働くことでさまざまな経験値を積み、だれよりもキャパシティの広い金融マンに育つ。なにもこれは金融の世界に限らない。どの業界にも通じる。

 マイクロソフト日本支社で社長を務めた成毛眞氏も、新卒社員の入社式の場で、

『 おまえらは1年365日、24時間働け! 』 とハッパをかけ、それを真に受けた新入社員は、当時笹塚にあったマイクロソフトの支社のそばにあるフィットネスクラブに会員登録をし、夜になってシャワーだけを使いに出入りするようになったため、フィットネスクラブの支配人が愚痴をこぼしたという逸話が残っている。

 金融の世界もITの世界も、傑出した個人のタレント (=才能) は、同じように育っている。

 世界的にワークライフバランスがもてはやされ、
 “ 残業をせずに帰る技術 ” 
なる本がもてはやされている。こんな働き方はいまどき時代遅れで、 “時間効率” も悪そうに見えるのだが、実際の松本は違う。

 松本は効率を人一倍重視している。例えば、都合10時間かかっている仕事を8時間で終える方法はないかと常に模索している。だが、8時間で終わったとしても、
 “ 2時間早く家に帰れる ” とは考えない。
 “ 2時間、別の仕事ができる ” と考え、なにか会社のためになる仕事を、さらに2時間やってから帰宅するのである。

 松本大は、それを新入社員の頃から今にいたるまでずっと続けている。
                      ( つづく)

  (引用: エコノミスト、GOETHE、日経ビジネスAssocie)



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2010年08月16日

日本の金融業界の天才たち (3) 松本大 (まつもとおおき)

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 お盆休み特集ということで、第三話も、前回に引き続き、ヒデキの前職の先輩の話です。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 ゴールドマン・サックス証券の最年少共同経営者としての地位と、数十億円とも言われる株式公開益をそでにしてまで、IT革命に賭け、自らの事業、マネックス証券を始めた男、松本大の半生は、波乱に満ちたものだった。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 東大法学部入学後、父からは、一切合切四年間を四百万円でまかなえ、との要請があった。初年度の百万円から授業料と入学金を支払うと、八十万円が残った。

 有頂天になった松本は、あっという間に残りを使い込んでしまう。好きな作家は坂口安吾と阿佐田哲也。

 講義には出席せず、麻雀を打っては飲んだ。後期授業料の支払いのためにヨドバシカメラの店頭でカメラを売り、ある時は板橋の団地を一軒一軒訪問して干物を売って埋め合わせた。

 『 無軌道な学生でした。
 
 お金にも無縁だと思っていたし、将来もサラリーマンで、企業の一つの歯車でやってゆくのだろうと。 』 

 それまで質素に暮らしてきた松本に、大学二年に入ったある日、一本の電話が人生を変える。

 しゃべったこともない開成高校の同級生からだった。

 『 一緒に塾をやらないか。 』 

 という申し出だった。親は帰宅赤羽に住む資産家である。あって数週間後に松本は実家を出て、その家の書生のように、塾の事務所で暮らしはじめた。塾の名は東應ゼミナール。四十人ほどの子供を教え、夜は、麻雀仲間のたまり場になった。
     
 松本の気風と未だに発揮されない潜在能力の高さを見込んだ資産家の母親は、大学三年の時に米国旅行の資金を提供した。

 この頃から、 

“自分の能力を鍛えておけば家がなくても人間は歩んでいける方法があるかもしれない”

 と気づくようになる。

 『 お金は流動性であって必ずしも使いきれるものではない。自分の力さえきちんと高めておけば別に心配する必要がないんだ。お金を借りられるアビリティーがあれば、お金を稼ぐのも借りるのも同じじゃないか。お金に対する畏怖感がなくなったんですね。 』

 書物を通して世界を眺めてきた父の “ What shall I do (自分はなにをすべきか)  ”
 から、
 “ What can I do (自分は世の中に対して何を差し伸べられるか) ”
という境地をこのときに開いたのだった。

 だがそんな松本も、4年生の時に失望にでくわす。米国のタフツ大学のサマースクールに留学し、寮に泊まり込んで様々な留学生と交流する。
いろいろな学生から話しかけられるのだが、英語が全然わからない。映画とかキャンプに誘われるのだが、面白くもおかしくもない。あまりの辛さにとうとう予定を一週間早く切り上げて、帰国した。
 一か月ほどはショックのあまり落ち込んでいたという。

 『 夏休みに生まれて初めて日本を出てボストンに行きました。言葉くらいなんとかなる、と気軽に考えて出かけたんですが、向こうにいた1カ月の間、まったく英語が分からなかった。言いたいことも言えなかったし、向こうの人の言っていることもわからなくて。。。
 
 落ち込みましたね。日本に帰ってきてからも、その落ち込みは続いていたんです。

 僕はポジティブなほうで、それまで挫折を味わったことなど無かった。

 よし、このままコンプレックスを引きずると良いことがないから、米国の会社に入ってしまえばいいんだ、と。英語世界のプロトコールを手に入れてしまえば、より広いステージで動き回れる。それで就職の時には外資系の投資銀行を選んだのです。』
 
 『 大学時代は、絶対、私は生涯サラリーマンだと思っていました。
ハア。野心なんてほとんど無かった。世の中の出来事は雲の上のこと、という感じで。』 坦々、飄々である。

 開成高校 − 東大法学部と絵に描いたようなエリートコース。だが、松本が選んだ就職先は大蔵省 (現・財務省、金融庁) ではなく、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券だった。
 
 1987年当時、ソロモンは米国債や社債、住宅モーゲージ (債券) などのアービトレージ (裁定取引) で巨額の利益を稼ぎ、
 ”ウォール街の利益を一社で稼ぐ”、と言われるほどの勢いのあった会社であった。

 ちなみに、この時代はゴールドマン・サックスも、モルガン・スタンレーもトレーディング業務においては、ソロモンブラザーズのはるか後塵を拝していた。

 87年当時は新卒で外資系金融に入る東大生は非常に珍しかった。バブル目前で登り基調にあった日本経済、東大生の就職先は中央官庁や邦銀、大手メーカーなどだった。

 大学を出て、ソロモンへの入社を決めた時、親父さんは 
 『 そうか。 』 と言ったきり。親父さんは電話を切るなり、本屋に飛び込んで “米国の投資銀行” という本を買い込み、翌日、電話をかけてきたという。
 『 いいんじゃないか。 』 と。
                                                  ( つづく )
       引用 「GOETHE」、「プレジデント」、「Big Tomorrow」 

 
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2010年08月14日

日本の金融業界の天才たち − 松本大 (まつもとおおき) 2

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 日本列島もお盆にはいり、半分くらいは開店休業状態。

そんなオフタイムにこそ、ふだんは耳にすることのない、日本経済を引っ張る傑出した個人の伝説を知ることで鋭気を養いましょう。

 第二話も、前回に引き続き、ヒデキの前職の先輩の話です。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 ゴールドマン・サックス証券の最年少共同経営者としての地位と、数十億円とも言われる株式公開益をそでにしてまで、IT革命に賭け、自らの事業、マネックス証券を始めた男、松本大の半生は、波乱に満ちたものだった。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
 
 1963年、松本大は埼玉県浦和市で二人兄弟の二男として生まれた。
父は東大仏文科卒で、出版社の元翻訳出版部長。文芸翻訳と文芸文庫の出版に尽力し、新訳の 「世界文学全集」 を完結させた。

父は仕事が終われば毎日のように神田神保町の古本街をあるき、給料の大半を希少本に費やしたといわれる教養人だ。そのおかげで、松本の家には中学生になるまで自家用車はなく、家族で外食をすることもなかったという。松本大は幼少の頃から世界一流の絵画集、写真集を与えられて早熟な子供に育った。

  キリスト教系私立の小二のとき、兄の転校問題で松本も校長から、
 「 君も中学は他校に行くのか? 」 と詰問され、 
 「 明日のことは神のみぞ知ると聖書で教えらた。神じゃないのに4年先を聞くのはおかしい。」  と答え、小二にして退学処分にされた。小学校の理科で教科書の教師用赤本にあやまりを見つけ、正したこともあったという。

 転校した公立の三、四年、担任の女性教師は授業を黙って聞くのが苦手でしじゅうしゃべりまくる松本に手を焼き、新しく担任になる教師に、 「 松本君は大変ですよ。」  と引き継いだほどだ。 
 小学校一年から四年までの体験は、松本に 
 「 自分はどこかずれている。世間には簡単には受け入れられないのではないか 」 との認識を植え付けたという。
 小五のときに、天文学者になりたかった4歳年上の兄が難病で夭逝する。松本は泣きじゃくり、自宅に引きこもって3カ月も小学校を休んだという。

 松本は兄が憧れていた開成中学校を受験し、塾通いはせずに、月一回の模試を受けただけだったにもかかわらず、トップで合格する。ところが、中一のスキー合宿で飲酒がばれ、校長の訓告処分を受けた。教師泣かせだが、秀才ぶらず人気者だったという。

 松本は物理学者をめざすようになる。しかし、デンマークの理論物理学者ボーアの、原子のまわりを電子が飛ぶ法則の発見が18歳のときだったと知り、同じ年齢に達する数ヶ月前に物理学者を断念する。

 「 現代理論物理学の世界は、その十年間で一番になれなかったら、その他大勢になりますから。。。」 
というのが道を閉ざした彼の弁だ。
 ここに誇大妄想狂ともとれる遠大なロマンチシズムと、欲の深い負けず嫌いの気性が見え隠れしている。

 また、病院で兄の看護にあたった医療従事者を尊敬していた。医者も志す。だが高三の直前でテレビ番組 『 小児病棟 』 を見て、
 
 「 ここまでのヒューマニズムは僕にはない。医者になってはいけないのではないか? 」 と疑問をもたげ、とりあえず東大の文一にでも入っておくか、と決める。

 喫茶店でたばこを吸い、マンガを読む、どこにでもいそうな高校生だった。高三の12月になってはじめて世界史の教科書を開くなど、集中的な冬の突貫工事で、希望通り東京大学法学部に進む。
                                                         ( つづく )
                                                         引用 「GOETHE」  

 
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2010年08月01日

日本の金融業界の天才たち − 松本大 (まつもとおおき) (1)

【 各連載記事はカテゴリー分けされています。下記のカテゴリーからお選びください。 】

 さて、日曜日も終わって夜が明けたら月曜日。
また猛暑のなかを、体力も精神力も奪われてフラフラになる毎日。

 そんな滅入るようなシーズンにはこれを読んで下さい!
 新しい連載をはじめて、インターネットを通じて日本経済に活力剤を突っ込んで行きます!!!

 第一話は、ヒデキの前職の先輩の話です。

 保守的でリスクを取らない体質がゆえ、世界の金融業界の中でなかなか表に浮上できない日本の金融業界にも、傑出した個人がいます。そんな個人にスポットライトを当てて連載をはじめます。

 史上最年少でゴールドマンサックスの共同経営者に抜擢されたかと思いきや、翌年には株式公開により40〜50億円とも憶測される創業者利得を捨ててまで、インターネット証券を起業。そんな日本の金融界の若き天才の原動力がどこにあるかを探っていきます。
 
 一日の労働時間を20時間と考える − ハードワークこそ最善の効率化策

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 
 松本大、 マネックス証券社長CEO、マネックスグループ社長CEO
 
 1963年埼玉県浦和市生まれ。46歳。開成高校を経て、1987年東京大学法学部卒。ソロモン・ブラザーズ・アジア証券に新卒で入社。ニューヨークで新人200人の研修で最優秀成績を取り、ジョン・メリウェザーの部下としてヘッジ・マネジメントチームに配属。

 1990年ゴールドマンサックス証券東京支店に移り、デリバティブ(金融派生商品)トレーディングおよび開発、証券化ビジネスで頭角をあらわし、30歳で史上最年少のゼネラルパートナーに非英語圏からはじめて抜擢される。

 1999年にマネックスを設立し、社長就任。東京証券取引所の社外取締役や日本政府諮問委員会などもつとめる。
 
 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

  早朝6時から深夜2時まで、すきま無く予定がぎっしり。土日も頭の中にあるのは 「仕事」 の二文字。
 マネックス証券松本大社長は、そんな毎日を送っている。経済界屈指のハードワーカーである。
 人並みはずれた激務を支えているのは、独自の時間活用術。

 “返信メールはなるべく長く”
 “会議の資料は事前に読まない” 
 
いずれも効率が悪いようにみえて、実は長期的に見ると効果をあげている。
 いったい彼の行動原理と時間活用法の秘密はどこにあるのだろうか?

 彼は、一日の “労働時間” を20時間と考えている。睡眠時間は毎日4〜5時間と極めて短い。日中、目いっぱい働いているうえに、夜も取引先などとの会食がほぼ毎日予定されている。これも仕事の一環だという。

 夏期休暇など、まとまった休みを取ることもない。週末も出社はしなくても会社の事業戦略などを考えていることが多い。どこで何をしていようとも頭の中から 「仕事」 の2文字が消えることはない。

 会食の時間を含めれば、一日の “労働時間” は20時間ちかくに及ぶことになる。
時間は長いが、結果的に大きな成果をあげているので、この働き方の時間当たり “効率” は高いというのが松本大氏の考え方だ。

 では、松本氏のある一日のスケジュールを紹介したい。

6:00  起床。朝食を取った後、腹筋100回、腕立て伏せ100回、逆立ち100回などの運動を行う。メールを確認。

8:00  出社途中の車中で海外子会社からの定例報告を携帯電話で受ける。

8:30  子会社(マネックス・オルタナティブ・インベストメンツ) の役員と内幸町で会議。

9:00  内幸町から丸の内の本社へ車で移動。自席で秘書とスケジュールについて打ち合わせ、確認。

10:00  自社主催イベントについて、イベント会社のスタッフを交えた会議に出席。予定時刻より
  
10:30  取引先企業の社長と電話で会議

11:30  自席で昼食 (出前のかしわ南蛮そば) を取りつつメールを確認したり社内文書を決裁。 ブログ 「松本大のつぶやき」 の執筆も。

12:30  社内スタッフを交えた経営戦略策定会議に出席。予定時刻より早く終えて自席でメールの確認や電話をする。

13:30  取引先企業のスタッフとの会議に出席。

14:30  マスメディアの取材を受ける。予定時刻より早く終えて自席でメールの確認や電話をする。

15:00  中途採用社員の研修に出席。経営方針などをプレゼン。

16:00  役員とミーティング。予定時刻より早く終えて自席でメールの確認や電話をする。

17:30  役員会議開催に向けて役員全員を集めた事前会議に出席

18:30  社外の知人とレストランで会食

2:00  帰宅し、就寝

 さて、松本大氏は、ゴールドマンサックス証券在籍中、FICC ( Fixed Income, Currency and Commodities 債券・為替・商品取引部門) の部下に、

 「 日本の金融ビジネスマンの99%は保守的だ。 」 と語ったことがあるそうです。
つまり、残り1パーセントの俺たちが、東京市場を改革して進化させなくて、いったい誰がやるんだ! という意味です。

 現在、ゴールドマンサックスのトレーディングフロアで彼の部下だった人間たちは、経営陣に昇進し、松本大氏のことを、

 “たいへん厳しい上司だったが、あとになって振り返ってみると、多くを学ぶことができて、良い上司だった。” 
 
 と述べています。ゴールドマン時代にも、東京時間からロンドン時間、ニューヨーク時間にいたるまで、一日14時間から16時間もぶっつづけで働いていたのです。

 日本の金融業界に革新と進化を吹き込みつづけている彼の原動力はいったいどこにあるのでしょうか?     
                      (つづく)

           (引用: 日経ビジネス Associe ) 



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2010年07月31日

日本の金融業界の天才たち 【 銀行編 】 磯田一郎 ( 最終回 ) 

 大阪の銀行を東京進出でメガバンクに発展させた京大出身のラガーマン − 磯田一郎
 ( 元・住友銀行頭取、会長、現三井住友銀行 )


 部下を持つマネージャーが、どうやって部下の人心を掌握し、部下を熱狂的なやる気にさせて組織を成功させていくか? 

 バブル前の高度経済成長期に、多くの日本企業をターンアラウンド ( 再建 ) し、 ”大阪の銀行” から、日本を代表するトップバンクに育て上げた、伝説の頭取から学べます。

  ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

日本の金融業界の天才たち 【 銀行編 】 磯田一郎 

 タイミング絶妙の電話  

 「 後天性やせ我慢症 」 については既に述べた。言葉が悪ければ、抑制の美意識と言い換えてもよい。磯田一郎によって危うくバンカーの道に留まり得た峰岡などは、 

 「 武家社会のもののうの美意識 」 とまで言う。 

 磯田は、そうやってひとたび人を送り出すと、すべてを任せて口を出さない。 

 言いたいことは山ほどあるはずだが、せっかく負荷を与えた以上、途中で介入しては何もならないことを
と歯をくいしばって我慢する。高麗橋支店のはみ出しかかった新人の前で、張り倒したい思いを必死にこらえていたのと同じことだ。 

 その頃の部下は、磯田が妻の着物を質に入れて、部下に酒を飲ませた、などというばかな痩せ我慢のことも知っている。 

 しかしこの人物には、しばしば癇癪を起こすことでもわかるように、どうにもならない情のほとばしりというものがある。

 「 あの男、どうしていやがるか 」 と思うと、つい電話に手が伸びてしまうのだ。 

 花岡信平が言う。

 「 マツダでは胃のちぎれるような思いをした。どうにもならない難問にしばしばぶち当たり、いっそ投げ出すか、それとも生煮えのまま磯田さんにぶちまけてしまおうかということが何度もあった。 

 今思うと不思議でならないのだが、そういうときに限って、磯田さんから 

 『 どうや、元気でやってるか。困っていることはないか。 』 と電話がかかってくる。それで何も言えなくなってしまうのだ。 

 あれはなんとも絶妙なタイミングだったが、何か気配でも察するのだろうか。 』

 大昭和製紙の副社長だった頃、和田はこんな経験をした。頭取室を訪れる役員は、頭取のデスクの前に置いてある椅子に座り、デスクをはさんで話をするのが慣例だ。 

 ところが、大昭和製紙副社長の和田が月に一度、報告のために頭取室にいくと、磯田一郎はデスクを離れ、来客用のソファーをすすめる。

 初めの頃、和田は大いに勝手が違ったが、やがて、かつての部下を 「 顧客 」 として遇しているのだと察した。 

 本人は照れくさいのか、何も言わない。しかも、銀行にいた頃は 「 時間が5分しかないんや 」 などということがしばしばあったのに、いつも30分から1時間をとってきちんと待ってくれている。 

 城の外、いわば敵中で戦っているものにとって、この心遣いは見にしみた、と和田は言う。 

 もう一つ。社長で社外に出たものは、そこで仕事をまっとうするのが通例だが、アサヒビール元会長、村井のところには思い出したように電話をかけてくる。 

 村井が 

 「 一体なんの用や 」 と電話に出ると、

 「 今日、何々氏に会ったらアサヒビールのことを褒めていたよ。嬉しいね。 」 
 それだけ言って、ものの30秒かそこらで切ってしまう。 

 昼間は 「 仕事の話しかしない男 」 で通っていて、しかも痩せ我慢のストイックな人間がそんなことをする。 

 “ どうだ、仕事で俺にかなうか ” 

 という威圧型上司にそういうことをやられると、部下のほうはもうどうしようもないことになる。 

  最後の痩せ我慢  

 その磯田一郎が住友銀行頭取として最後にやった人事は、いうまでもなく 

 「 住友銀行の後任頭取 」 である。

 ある都銀 ( 現在のメガバンク ) の幹部が語る。

 「 堀田投手 ( 堀田庄三元頭取 ) は、ピンチにはコーナーいっぱいのくさい球を投げて勝負した。その後の大ピンチに登板した磯田は、真っ向微塵の剛速球、ときにビーンボールもあえて辞さずの腕っぷし勝負で投げきった。

 しかし、それではチームのほうがいつまでももたない。そこで、磯田同様、激しい情の持ち主だが、同時に守りに強いコツコツ型でもある小松康 ( 元頭取 ) がマウンドに上がったのは、まさに適役だ。

 住友銀行の業績はもちろん目覚ましいが、安宅産業の処理で体力を消耗したことは間違いない。同型の、ミニ磯田のような人物が後をつぐと、たとえば海外融資にデフォルトが発生したりした場合、つらいことになる。

 現場主義一筋の住友幹部の中では小松にはそれなりのビジョンもある。磯田は実にいい人材を選んだ。」

 頭取交代を発表した日、磯田は、

 「 この6年間、やせ我慢と緊張の連続で本当にくたびれた 」 

 と語った。やせ我慢とは、考えてみれば ”攻撃的我慢 ” のことである。その果てに彼は、いわば
 ” オーソドックスな我慢の人 ” を自らの後継に推した。

 できることなら自分と同型の人材を据えたかったろうに、彼は最後にもう一度、やせ我慢を演じた。

 その後、住友銀行は1988年、1989年と日本が空前の好景気、 ”バブル景気” に入る中、国内では平和相互銀行の買収により首都圏進出をはかり、返す刀で国際業務のスイス、ゴッダルド銀行 ( プライベートバンク ) の買収、そして米投資銀行、ゴールドマン・サックスへの資本出資と、国内外で大きく発展する。

 財閥系銀行であるにもかかわらず、” 大阪の銀行 ” と呼ばれていた住友銀行は、日本を代表するトップバンクへの仲間入りを果たした。 

                   ( おわり )

 

posted by ヒデキ at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の金融業界の天才たち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする