2014年02月01日

起業家並みの活力で仕事する

CIMG3092.JPG

平日は夜遅くまで仕事だが、週末も会社。2014年の目標は 『起業家並みの活力で仕事する』。 米系金融業界は生き残りが厳しい世界なので、働くスピードも勢いも、起業家並みでないとついていけない。

Facebookやミクシイで知り合った起業家の人たちは、土日だからと言って休んだりはしない。日本の経済を拡大している人たちは、底抜けのバイタリティを持っている。雇われ人(サラリーマン)のレベルで止まってはいかん。
posted by ヒデキ at 23:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月18日

元気の出る言葉 (169)

スティーブ・ジョブズの感性の言葉

 スティーブ・ジョブズが語った言葉のうち、8つを紹介します。なぜ彼が55年の生涯の中であんなに成功したかという思考回路が分かります。

「 絶対に真似のできない、真似しようとすら思わないくらいの革新を続ける 」

「 美女にライバルがバラ10本を贈ったら君は15本贈るかい。そう思った時点で君の敗けだ。 」

「 週90時間、喜んで働こう。 」

「 コンピュータに進んだのは、やっている人がほとんどいない領域だったからだ。 」

「 移動手段ということでは、どの車を買ってもいっしょだ。でも多くの人が、BMWに多くのお金を払う。 」

「 創造とは結び付けること 」

「 歳をとればとるほど、動機こそがもっとも大事だと思うようになる。 」

「 大切なのはライバルより “ちょっといいもの” をつくることではない。世の中が思いもつかない “圧倒的にすごいもの” をつくることだ。 」

 【 スティーブ・ジョブズ名語録 人生に革命を起こす96の言葉 】


 
posted by ヒデキ at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月11日

元気の出る言葉 (168)

「少なくとも恋愛は、チャンスではないと思う。私はそれを意志だと思う。」
 − 太宰治

 昭和の文豪、太宰治の言葉です。出会いがないとあきらめている人が多いのですが、本当にそうでしょうか。ネット全盛の時代、真剣に探していないだけかもしれません。

 悩み多き人生の中で自由に恋愛を繰り返した太宰治は、「チャンス」 と題される恋愛についての軽快な小文を残しています。

 「チャンス」 の冒頭はこんな書き出しで始まります。

 「人生はチャンスだ。恋愛もチャンスだ。と、したり顔して教える苦労人が多いけれども、私はそうではないと思う。」

 恋愛とは好色で恥ずかしいものだ、チャンス (もののはずみ、ひょんなこと、と太宰は解釈している) なんかで始まるものではない。

 「要するに私の恋の成立不成立は、チャンスに依らず、徹頭徹尾、私自身の意志によるものである。」 と断言しています。

 大切なのは、ふとしたきっかけで恋愛が生まれる出会いの場なんかではなくて、自分は誰かのことが好きであるという意志、あるいは誰かのことを好きになりたい、恋愛をしたいという意志である。

 と太宰治は説いています。






posted by ヒデキ at 19:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月02日

元気の出る言葉 (167)

「人々のことを愛してほしい。それ以外のことは、後からついてくる。」

 − アマンシオ・オルテガ(スペイン)、ファッションブランド ZARA創業者
中卒から製造・流通・販売のファッションブランドを世界展開したFast Fashionの帝王。

  彼は、一代で世界5本の指に入る億万長者に登りつめた人間だ。スペインの小さな町、コルーニャで貧しい境遇に育ったサマンシオは、親を少しでも楽にしようと、13歳から近所の裁縫向上に働きに出た。

  そこで、近所の貧困な女性を幸せにするための洋服づくりに知恵をしぼり、世界に先駆けてFast Fashion の原型を作った。ZARAは世界80か国に6000店を展開するに至った。

  さまざまな試行錯誤にたどりついたのが、すべてを自社製でまかなう製造・流通・販売の一元化、ファスト・ファッションである。現在でも生産の5割を、労賃の低いスペインで行っている。

  彼が所有する総資産は5兆3000億円。極端なマスコミ嫌いだが、自宅の他に豪華な別荘、ヨットを所有し、移動の足は一機30億円もするファルコン900だ。自宅は今でも故郷、スペインのコルーニャに置いている。

  そんな彼のビジネス哲学は、まず先に人を愛し、客を愛すること。表記の言葉は、面接に訪れた女性に対して言った言葉。人の幸せを手助けすることで、後からお金は自然とついてくる、ということ。Give & take と言うが、人を幸せにすれば必ず商品・サービスは売れるし、感動をよべば商売は否応なしに拡大していく。

  この哲学は、小売業にとどまらず、ありとあらゆる商売にあてはまるのではないか。そして私たちの人間関係についても。
posted by ヒデキ at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月29日

元気の出る言葉 (166)

「 あなたが現状を変えられる唯一の人間だ。あなたの夢が何であれ、それを追いなさい。
 

 − マジック・ジョンソン、元NBAのプロバスケットボール選手、実業家。

 仕事をしていても将来が不安な時代なのですから、職に就いていない人でしたらなおさらのことでしょう。しかし、不安にさいなまれ続ける だけでは明るい未来はやって来ません。

 NBA史上最高のポイントガード、マジック・ジョンソン。彼の名前は、HIVウィルスの感染というショッキングな形で改めて多くの人に知られることになってしまいます。

 NBAからの引退を余儀なくされたジョンソンですが、そこでくじけてしまうことはありませんでした。自ら積極的にHIVに関する啓もう活動に参加し、ついに奇跡のNBA復活を果たしました。

 自分の運命は自分で切り開く。誰かがいつか手をさしのべてくれるのを待っていては、何も始まりません。足がすくんで動けないまま、不安に押しつぶされてしまうでしょう。未来が不安に包まれていようとも、夢を追い続けることの大切さをジョンソンは教えてくれているのです。

 ( 引用: 『 名言力 人生を変えるためのすごい言葉 』 )


posted by ヒデキ at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月09日

元気の出る言葉 (165)

 「どうせ死ぬときは楽になるんだからさ、生きているときはとことんつらい時を過ごそうと思うわけ。それが俺の考え。」 

 − 北野武、映画監督

 ちょっとのことで文句を言ったり、不満を言ったりする。辛いことが続くとへこたれるのが、普通の人。でも、こういった考え方もあるのだ。

 Facebook で仲良くさせて頂いている起業家の男性は、僕とおなじバブル世代だが、
 「 どうしてこんなに朝早くから夜遅くまで次から次へと仕事に夢中になれるの?」 と疑問に思うくらいにあちこち飛び回り、ハードスケジュールだ。見ているこっちがハラハラするくらいである。

 ある日、彼がこんなことをつぶやいていた。

 “ずば抜けた仕事をしてる人は、たいてい週末も働いている。”

 ほどほどの生活でよければ、人並に働いて遊んでいればよいが、傑出した仕事をする人たちは、取りつかれたように仕事に熱中して、あっと驚くようなプロダクツを作ったり、成果を出す。

 週末働いたとしても、そういうビジネスマンは時間管理も上手だから、どこかでフラッと息抜きをして、オンとオフのバランスを上手に取っている。

 ちょうど同じ頃、あるヘッドハンターが送ってきた中途採用のJD (Job Description) に、
”起業家並みの活力を持っている方” という採用条件が明記されており、「 なるほど彼のようなバイタリティを指すのだろう」、と納得した。

 ”起業家並みの活力を持っている” のであれば、たとえ起業家にならないにせよ、どんな業界でも一頭地を抜くに違いない。 

 【 渋谷ではたらく社長の告白 − 藤田晋、サイバーエージェント CEO 】

posted by ヒデキ at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月07日

ストレス耐性が高い人になる10の秘訣

Mixiに ”ストレス耐性が高い人になる10の秘訣” という特集記事が出ていました。とても参考になるアイデアが並んでいましたのでシェアします。1番から10番まであるのですが、ポジティブ・シンキング(前向き思考) な人に共通した考え方のように思いました。

 きっと、ポジティブ・シンキングな人は、ストレスに対しても打たれ強いのではないでしょうか。
 えっ? 自分はどうかって?
 僕は ”テフロン加工” と呼ばれているくらいですから、ストレスには強いほうです(笑)。  

 1 何事も「まあいいか」と思う

まずストレスをストレスと受け止めず、ひらりと身をかわすようなスタンスが大事です。

2 「自分は自分」とマイペースを保つ
 ストレスを感じやすい人は、人と比較して焦ることが多いのではないでしょうか。人に惑わされないでいられることがポイントです。

3 「人生は思い通りにならないもの」と思う
 人生経験が豊富で、達観した人のスタンスです。自分にも他人にも多くを望まないことがポイントです。「人生はどうでもいいことと、どうしようもないことで出来ている」など、達観できるフレーズを覚えておくのもよいでしょう。

 4 「タイミングが悪かった」と考える
 うまくいかないとき、自分や相手が悪いと思うよりも、運やタイミングなど、誰のせいでもないものを落とし所にすることで、ストレスを流すことができます。

 5 「相手にも事情がある」と想像する
 人にイライラさせられたとき、相手を責めるより「相手には相手の事情がある」と寛大な気持ちになれる人は、人と衝突することも少なく、ストレスも溜まりません。

6 「これもいい経験になる」ととらえる
 困難なことにぶつかったとき、自分の力量以上のことを期待されたときも、自分の成長につながると思えると、ストレスを前向きにとらえることができます。

7  自分のストレスを分析してみる
 自分がどんな刺激や状況に弱いのかが分析できると、ストレスを避けたり、克服したりする工夫につながります。一度自分のストレスと向き合ってみることも必要です。

8 周りを頼ることができる
 ちょっと「困ったなあ」と思うとき、上手に周りに頼ったり、相談したりしながら物事をすすめることで、限界まで抱え込むことを避けられます。適度に負荷を減らしながら、こつこつと走り続けることで、結果的にストレス耐性の高さが身に着きます。

9 上手に現実逃避ができる
 煮詰まったときは、ちょっとそのことから距離をとることも必要です。本を読んだり、映画を見たり、風景写真を眺めたり、ストレス源とは別の世界に入れる方法を持っておくとよいでしょう。

10 世界をとらえる視点を変えてみる
 様々な視点で世界を見てみることも有効です。「人間の細胞は毎日生まれ変わっている」とか、
「地球上に生命が存在することは奇跡」など、科学や宇宙に思いをはせると、日々の些細なことは気にならなくなります。

お仕事探しは【ジョブリンクWork】
posted by ヒデキ at 22:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月24日

元気の出る言葉 (164)

「うなされる様な情熱無しに大きな夢は成し遂げられない。」

− 孫正義、ソフトバンク創業者、CEO

 『 失敗した時は素直に認めた方がよい。 直後に切り替えて倍の努力をすれば良い。挑戦を続けている限り、そこに限界はない。
 諦めてはならない。その時点で成長は止まる。本当の勇気は周到な用意の元に生まれる。用意の無い勇気を蛮勇という。 』

 夢を成し遂げるために必用なのが ”うなされるような情熱”。それを手にいれるためにはまず、あれをしたい、これを成し遂げたい、という目標を見つけることだろう。

 その目標が強ければ強いほど、自分の心からふつふつと湧き出る ”うなされるような情熱” もまた、強くなる。最初のステップは、何が自分を熱狂させるのか、という目標の設定だろう。 


 【 孫正義語録 − 孫子の兵法 】

posted by ヒデキ at 19:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月10日

『 熱狂的なヤル気 』 - ポジティブ・シンキングの勧め

 “常に自分のヤル気をフルスロットルにする。リミッター装置が外れてるくらいの勢いで攻めていく。” − ブログ著者の言葉。

僕が毎朝、起きて行動をはじめるときに自分にかける呪文。会社に行くときでも、勉強するときでも、ブログから全国の見知らぬ人々に向けて、知性やヤル気をばら撒くときでも。

 ポジティブな人だけがうまくいく3:1の法則というのをご存じだろうか?

 たとえ自分が車にぶつかり交通事故に遭った恐ろしく不運な日であろうと、
「良かった。これで相手の人も、これからは安全運転するようになるだろうから、逆によかったよ。」 

 と思えるくらいの人が、超ポジティブ・シンキング(前向き思考)の持ち主であり、こういう人たちだけが、逆境の山をくぐりぬけてカリフォルニア州シリコンバレーのベンチャービジネスを上場にまで導くことができるし、米国大企業のCEOの座をゲットして、10億円単位の報酬を手にできる。

 世の中に、優秀な人間、頭の良い人間など、掃いて捨てるくらい大勢いるのだ。その中で、群衆から一歩抜け出して頂点を極められるのは、常に (不可能なくらいがちょうど良い) 高い目標を掲げて、服装が不格好だろうが、睡眠時間が短かろうが、がむしゃらに目標をめざして突き進む人間である。

 そして、そのタイプの人間は、周囲のネガティブな思考や情報をものともせず、勝手に自分流にポジティブな面だけに光を当てて、自分が夢見ている成功した姿だけを心の糧にして、他の人だったら不可能なゴールをも可能にしていくのである。

 平たい言葉でいえば、 ポジティブ・シンキングとは、“ヤル気のサイエンス” であり、ポジティブ・シンキングの裏には、「自分は何のために働いているのか (生きているのか)」 「自分の目標はここで、それと比べたら、今、直面している逆境など、たいしたことは無い。」

 といった、社会全体の問題を解決するために自分は何ができるのか? という問題意識や、自分の志の高さが、ポジティブ・シンキングを創りだすことができる。

そして、それ以外にも、自ら本能的に暗い闇の側面よりも、明るい光の方を求めるポジティブ感情が、自らの考え方をポジティブ・シンキングに変え、いつもはつらつと活気のある毎日を過ごすことができる。

B・フレドリクソン氏は、人間の感情には 「黄金比」 があり、感情のコントロールによりポジティブ・シンキングを定着させ、 「繁栄」 へのスパイラルに入り、何があっても立ち直りが速くなるという。

進化の過程で視野を広げる心理としてポジティビティ (自己肯定型な心の状態) を身に付けた人間は、それが成長に欠かせないと本能的に知っており、植物が光を求めるようにポジティブ感情に向かう 「向日性」 があるという。

心理学の対象は過去、ネガティビティに集中してきた。ポジティブ心理学の先駆けであるフレドリクソン氏は、ポジティブ感情には思考や心の幅を広げる拡張効果と、人が持つ能力やエネルギーを多面的に育成する形成効果があることを立証した。

 人はポジティブ感情の比率が3:1を超えると「繁栄」への上昇スパイラルに入り、打たれ強いマインドができるという “感情の黄金比” があるのだ。

 大半の人は2:1。これを片時も忘れてはいけない。常に自分の心の中でポジティブな感情の比率を高めておくのだ。

 ビジネスでもポジティビティ比の高い組織は成果を出せる。ES (Employee Satisfaction: 従業員満足度) を上げようと一生懸命やっている会社は、社員の表情も明るいものである。

 (引用: 『 ポジティブな人だけがうまくいく 1:3の法則』 B.フレドリクソン ) 


posted by ヒデキ at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月09日

元気の出る言葉 (163)

 「夢を持てば、生命力が盛んになる」
 −  渡辺弥栄司氏
 

 「125歳まで、私は生きる」(ソニー・マガジンズ)という本を著された方の言葉です。

 すでに90歳を超えるご老人で、真向法と、剣道、ゴルフで体を鍛えられ、法律事務所を経営する弁護士でありながら、TOEIC協会の会長さんも勤めておられるという意欲満々の紳士です。

 元は通産省にご勤務され、日中国交正常化に貢献された方であるほか、なんと65歳にして、 「125歳まで生きる生活費をまかなうため」 司法試験に合格したそうです。

 人間が物理的に一番生きられるのが125歳で、中国人の親友にそれを勧められて、約束したのだそうです。

 夢を実現するために、毎日欠かさず真向法を実践され、体と頭を柔らかくされているとのこと。

 東大法学部では、1,2位を争うほどの優等生だったそうですが、教授に 「司法試験を取れ」と勧められたにも拘らず、ご自身は公務員になることを決意されており、自分が司法試験に合格すれば、代わりに夢を失う若者が一人出るとの理由で受験を辞退されたという暖かいハートの持ち主です。

 渡辺氏が60過ぎで司法試験に臨まれた際、
 「自分が強い思いを持てば、人生は拓けていく。」

 と、実感されたそうです。また、「夢は、抽象的でぼやっとしたものではいけない。具体的でなければいけない。」とも言われています。

 夢は、現実から飛躍したものであり、無理があって、実現不可能に見えるものであるのが大事だそうです。
 実現が可能であり、現在の延長線上にあって合理的なものは、むしろ ”予定”と呼ぶそうです。

 不可能な夢に向かって、思いっきりチャレンジしていく勇気と根性は、なにも氏に限らず、若い世代ほど持つべきですね。勇気をふるい起こして、体内の細胞がフル回転する状態を維持すれば、バイタリティあふれる毎日を過ごせるでしょう。


posted by ヒデキ at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月03日

元気の出る言葉 (162) 

  「すべての新しいもの、美しいもの、素晴らしいものは、たった一人の孤独な熱狂から始まる。」

  − 見城徹、幻冬舎 創業者、社長

  “たった一人で熱狂せよ。本来、熱狂は、集団を襲うものだ。熱狂が去り、あたりに人がいなくなっても、自分の中に火種を見出せたら、それこそは本物の情熱である。”
 
 この言葉は、日本初の独立系テレビ制作会社、テレビマンユニオンを創立した、萩本晴彦さんから聞いた言葉である。僕はこの言葉に、強い共感をおぼえる。大きな仕事やいい仕事には始めは熱狂が、それも人知れない孤独な熱狂が必ずあるものだ。

  ダイヤモンドダイニングの社長、松村厚久さんは、銀座のユニーク極まる 『ヴァンパイアカフェ』 を筆頭に、自ら目標として掲げた 「百業態百店舗」 を達成した。第一号店の 『ヴァンパイアカフェ』 は、彼が新婚旅行で行ったオークランドのお化け屋敷がモチーフだそうだ。

  そこで松村さんは、とても怖い思いをすると同時に、徹底した非日常的なエンタテインメント性に心から感動したという。彼は、こんなところで飲み食いしたら、きっと素晴らしいと考えた。周りのみんなは、全員が反対した。

 そこから大ヒットが生まれ、 「百業態百店舗」 の第一歩になった。店舗ごとに全くことなるものにすること、これは大胆だがとてつもなく辛いことだ。内装、食材、食器、食材の仕入れなど、どれひとつ取っても全部違うのだから。

  松村さんは言う。
「 同じ店を出すのは簡単です。でも、それでは楽しくない。僕は新しい店を、毎回ゼロから作ることに、夢中になっていたんです。」 

  エイベックスの松浦勝人、GMOインターネットの熊谷正寿、グリーの田中良和、ネクシーズの近藤太香己 (こんどうたかみ)、そしてサイバーエージェントの藤田晋も、学生時代や起業する前は何者でもなかった。

 彼らはおのおの、音楽、ゲーム、インターネット、飛び込み営業の世界で、たった一人で熱狂していただけだ。彼らの並はずれた熱狂が、やがて人の心を打ち、他人を巻き込み、自分の立ち上げた会社をそれぞれの分野のトップに押し上げたのだ。

  熱狂できることを自分の仕事に選ぶべきだ。車、ファッション、犬、ラーメン、どんなことでもいい。大企業だからとか、安定しているからとか、条件で勤め先を決めるなど馬鹿げている。

 見栄や安定で、熱狂できない仕事を選ぶことは、ひどく退屈で辛いことだ。熱狂は退屈も苦痛も、はねのけてくれる。そして必ず、他の追随を許さない大きな実りをもたらしてくれる。

 ( 引用: 『 絶望しきって死ぬために、今を熱狂して生きろ』 見城徹、藤田晋 ) 


posted by ヒデキ at 22:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月24日

元気の出る言葉 (161)

「 一所懸命という、人生に対する取り組み方、壊れるまでやってみるという姿勢が大切。」
 − 大前研一、経営学者、マッキンゼー元日本支社長、ビジネス・ブレイクスルー大学院大学学長

 壊れるまでやってみる。自分の時には、新しい会社、マッキンゼーに入ったら、マッキンゼーが壊れるか、自分が壊れるかのどちらかぎりぎりまでやってみる。それでクビになったらクビになったでいいじゃないか。

 どっぷりやったという経験が、たとえその会社をクビになったとしても、次の仕事に就いたときに活きてくる。前の会社で、死ぬまで頑張ったという経験が、必ず次のキャリアに活きてくる。

 結婚でも仕事でも、 “This is it! ” (この会社に賭ける。この女房に賭ける。) という集中が大丈夫。壊れるまでやれば、死ぬ瞬間になって後悔することはないだろう。

 【 インタビューの様子がYou Tubeの5分間の映像でご覧になれます。】
http://www.youtube.com/watch?v=dlmUYtVVb1s

 【 やりたいことは全部やれ! 大前研一 】

posted by ヒデキ at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月20日

元気の出る言葉 (160)

 「すべては夢見ることから始まる。」
 −  ウォルト・ディズニー

 ウォルト・ディズニーはシカゴで産まれ、4歳まで何不自由なく暮らしていたが、祖父が事業に失敗したためミズーリ州の静かな田舎町、マーセリーンに引っ越し、そこで6年間暮らし、動物に夢中になった。家の近所には、当たり前のように馬やリス、スカンク、牛がいて、ウォルトはスケッチに夢中になる。

 そのうち、庭で馬を飼っている近所の医者がウォルトに 「5セントあげるから馬のスケッチを描いてくれないか。」 と頼むほどになる。ウォルトは後に 「今までの人生で重要なマーセリーンで起こったことだ。」と述べている。ちなみに、ディズニーランドの街並みは、マーセリーンの街並みをモチーフにしている。

 
 第1次世界大戦で欧州戦線から戻ったウォルト・ディズニーは、1922年にアニメーション宣伝会社を設立。だが、アニメーションフィルムは一作ごとに莫大な費用がかかるため、一つの興業で失敗すると制作会社は致命的な打撃をこうむるという博打のようなビジネスだ。

 カンザス州で会社を作るも、成功にはおぼつかない。やがてウォルトはハリウッドに出てくる。

 カンザス州で働いていたときの友人、アニメーターのアブ・アイワークスに
『 アニメの仕事は面白いぞ、田舎で平凡な生活に埋もれていないで、ハリウッドに出てこい! 』と、当時、地元の広告代理店で地道に働いていたアブ・アイワークスをハリウッドに引っ張り出し、一緒に働きはじめた。

 ところが、当時20歳前後だったウォルトに、信じられない事態が起こる。

 ウサギをモチーフにした“オズワルド” で、アニメの制作ビジネスが順調に走り出した矢先、オズワルドの人気に目をつけた取引先の広告配給会社の社長、チャールズ・ミンツが “オズワルド” の権利を奪い取ったのだ。

 そればかりか、ウォルトの会社のアニメ・クリエーター6人を高給で引き抜いたのだ。会社は倒産の危機に陥った。ところがカンザスを捨ててハリウッドに出てきたアブ・アイワークスは 「何があってもウォルトといつも友達でいる。」 と、引き抜き話を断る。二人は常にお互いを高めあえる仲だった。

 貧困の真っただ中にあったウォルト・ディズニーは、会社で寝泊まりしていた。ある日、殺風景なオフィスのゴミ箱の中に、数匹の赤ちゃんネズミが住み着いた。その中の一匹と仲良くなったウォルトは、ネズミを主役にしたアニメを思いつく。

 それまでネズミは脇役に過ぎなかったが、ネズミを主役にしたのは初めてで、そこから大躍進が始まる。

 ウォルトがネズミをモチーフにすると口にすると、アブ・アイワークスがすぐにデッサンをはじめ、1日に700枚のデッサンを書き、通常であれば1か月かかるデッサンを1週間で書き上げて、ミッキーマウスをこの世に送り出した。二人の天才クリエーターが、ミッキーマウスを世に出したのである。

 仕事が飛躍的に拡大する中、家庭でも2人の娘に恵まれる。長女、ダイアン・ディズニー・ミラー(現在79歳)が6歳になるまで、父親の商売が何かを知らなかった。

 あるとき、クラスメイトの女の子からパパのサインが欲しいとせがまれて、家に帰るとパパのサインをお願いした。その時、父が世間で特別なことをしていることに気付いたのだ。

 ウォルト・ディズニーは、あるとき、6歳の娘をつれてロサンゼルスの遊園地へ行った。子供が遊んでいる間、いつもベンチで考え事をしていたウォルトは、他の父兄もベンチでつまらなそうにしていることに気づく。

 『大人から子供まで全ての人が日常を忘れて楽しめる遊園地を作りたい。』ディズニーランドの始まりだった。

 事務所に出勤すると、イラストレーターに指示を出し、徹夜でディズニーランドのイラストを作らせた。
現在、カリフォルニア、フロリダ、東京、香港、パリと5カ所に展開するディズニーランドは、ここから始まったのだ。

 1965年の12月、ウォルト・ディズニーは65歳でこの世を去る。いっしょに会社を大きくしたアブ・アイワークスは

 「友人を失っただけでなく、ウォルトは私の才能の最大の理解者だった。」と語り、彼の死を惜しんだ。
ディズニーランドは、2人の天才クリエーターが作りだした世界、友情と愛情に包まれた世界だったのだ。

【 ウォルト・ディズニーの伝記は、連載コーナー “伝説の経営者たち” に連載しています。】

 ( 引用: 伝説の経営者たち ) 

posted by ヒデキ at 12:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月14日

元気の出る言葉 (159) 

「私の最大の光栄は、一度も失敗しないことではなく、倒れるごとに起き上がることである。」 
 − 本田宗一郎、本田技研工業 創業者

 松下幸之助や盛田昭夫と並んで戦後のサクセスストーリとして語られる本田宗一郎の企業家人生は、必ずしも順風万帆ではなかった。丁稚奉公から始めて浜松で自動車修理工場をはじめた頃の本田は順調にビジネスを伸ばしたが、事業を革新的に飛躍させるために製造業に転身したときには、鳴かず飛ばずだった。

 「技術さえあれば、どんな世になっても生きていける」 自動車修理工場で油まみれになりながら働く本田は、31歳のときに浜松で創業した自動車修理工場が成功すると、木製だった車輪のスポークが燃えたり湿度で狂うことから、鋳造することに決め、鋳造製スポークが当たってインドにまで輸出すると、製造業への転身をはかる。

 本田の手にかかるとすべてが黄金になってしまう。本田はその頃、錬金術師だった。本田は工場の隣に小屋風の研究室をつくり、仕事が終わると、そこに閉じこもってモーターなどの研究をした。

 モーターボートをつくたのも、その実験のためで、6,7隻はつくったという。若くて腕があり、金があって、得意になった本田はよく遊んだ。芸者を乗せた車で天竜川に掛かる橋から落ちたりしたのもこの頃の話である。

 静岡県立見附高女を卒業したさちと結婚した際には、当時は珍しいくらいの高学歴女性だったが、さちも本田の奔放な活躍ぶりに驚く。さちの父親は、 

「 よく働き、よく遊ぶ男らしい。自分で働いて遊ぶんだ。男はそれくらいでないと。」 と説いたが、それでも結婚当初からさちは驚くことばかり。ようやくその生活になじんだ頃、本田は 「新しい仕事をする」 と言い出した。

  新規事業をはじめた理由がいかにも本田らしい。修理屋ではどれほど腕がよくてもはるばる東京やアメリカからたのみに来ない。鋳造のスポークがインドに出荷されたことで、目からうろこが落ち、製造業ならば地域に縛られず、思う存分腕をふるうことができると確信したのだ。

 鋳造には自身があり、従業員も50名ほど雇った。

 ところが、思ったようにはいかない。トヨタ自動車に3万本収めようとしたが、50本の納品検査で47本が不良品扱い。いきなり事業計画はとん挫し、従業員への給与の支払いで資金繰りも悪化し、絶対絶命のピンチに追い込まれる。

 本田は浜松市の中心部にあった工場に泊まり込み、毎夜2時か3時まで機械にしがみつき、疲れ果てると機械の横で一升瓶の酒を一杯くらっては、仮眠をとった。資金が底をつき、さちはせっせと質屋に通うはめになった。

 しかし本田はくさりはしなかった。弟の弁二郎は語る。 
「兄の沈んでいるのを見たことがなかった。怒っているか笑っているかのどちらかだった。」 
情けなく思うより、情けない自分に腹を立てて、鞭打った。

 のちに日経新聞の「私の履歴書」にこう記す。

「私が一生のうちで最も精魂をつくし、夜を昼に継いで苦吟しつづけたのは、このころである。ここで挫折したら皆が飢え死にするとがんばったが、仕事はさっぱり進展しない。絶対絶命のピンチに追い込まれた。」

 行き詰まりを打破するために、本田は浜松工高 (静岡大学工学部)へ聴講に通い、鋳造技術のノウハウを学ぶ。さらに多摩川の自動車レースに出て、各地に武者修行に通う。こうして問題解決のアイデアをいくつも身につけ、3年間にわたる悪戦苦闘の末に、ようやくみごとなピストン・リングを作り上げた。

 しかし、本田は同じところに立ち止まったりはしない。さらに製品の質を改善し、また製造方法を改善し続けた。太平洋戦争が進むにつれ、仕事は増えるのに熟練工は不足する。若い女性でも作業ができるようにと次々に機械に手を加えていった。

 とくに、4つの旋盤をひとつに合体させたかっこうの四軸旋盤は、未熟練工の女性が熟練工の4倍の生産性を上げることができ、世の中の脚光をあびた。

 これを見た浜松の大企業、ヤマハの川上喜一社長が、本田に助けをもとめる。同社はプロペラを作っていたが、1本つくるのに一週間かかっていた。本田はここで、肉の厚薄にかかわらず、日本のプロペラを皮をむくようにきれいに削り、仕上げてしまう自動式カッターを開発し、30分で2本つくれるようにした。

  読売新聞がこの本田の発明を紹介し、「翼増産へ技術の凱歌、手の労働脱却」 と、絶賛する。ヤマハの川上は本田を 「日本のエジソン」 とまでたたえ、やがて浜松のこの2つの会社は、オートバイ業界ではげしい戦いを繰り返すことになる。

  豊田自動織機は、子会社であるトヨタ自動車の自動車部品も作っていたが、本田はその下請けもしていた。豊田自動織機はホンダの技術を高く評価し、株の40%を持つようになった。軍需工場としてさまざまの特典もあったが、やがて昭和20年に米軍艦載機による大空襲に見舞われ、物資も不足してきた。

  そんな中、本田は、工作機械をほとんど自分で工夫してつくり、しまいにはセメントやガラスまでつくってしまう。

 起業当時の苦労、戦時中の苦労を本田は
 「 僕は、たとえロビンソン・クルーソーの孤島に流されても生き抜いていくつもりだし、瓦の上にまかれても、芽を出し花を咲かせる自身がある。」 と語っていた。

 ( 引用: 『 私の手は語る 』 本田宗一郎 ) 


posted by ヒデキ at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月04日

元気の出る言葉 (158)

丸紅 洋上風力発電 (2).jpg

「やったことがなかった。しかし、私にしか、できない仕事だと思った。」 

- 丸紅、国内電力プロジェクト部長、福田知史 (日本初の洋上風力発電基地を福島県沖に建設した人)

  福島県沖20Km、世界初の浮体式洋上ウィンドファーム実証研究事業。海と生きてきた国の、新しい電力がはじまろうとしている。洋上の強い風は枯渇しない資源。海洋国家日本の新しいエネルギーである。

  全10社と東京大学のコンソーシアムを統括するのは丸紅、国内電力プロジェクト部長の福田知史。世界の電力事業を手がけてきた彼でも、洋上ウィンドファームも海の上に変電所を設置することも全く初めての挑戦だ。それは当然。世界初の試みである。

  ミッションは、外洋での工事経験がほとんど無い日本企業をまとめ、限られた工期での完遂。ただでさえ高いハードルに、更なる壁が立ちはだかった。海底調査の結果、当初想定より海底が固く浮体を固定するアンカリングに確信が持てない。

  難題を前に福田は決断する。海底作業の経験豊富なオランダから技師を呼び解決策を検討、オランダで試験用アンカーを作成。すぐさま福島県沖で試験を実行。結果、海底に見事アンカーを刺すことができたのだ。

「 ケタ外れの難関突破に挑戦し続ける。新たな可能性はそうすることでしか見出すことはできない。 」 

 丸紅、福田にとって仕事とは、可能性への挑戦そのものなのだ。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎  

  福島沖洋上風力発電所

 2013年10月に発電をはじめる。実証研究は国と福島県が、丸紅など10社の企業と東京大学に委託して進める。風車を海に浮かべる方式は、海底に据え付ける方式よりも設置できる範囲が格段に広い。

 洋上風車は海面から頂点までの高さ106メートルで風車の直径は80メートル。沖合では1本の重さが330トンある鎖6本などで固定する。発電能力は約600世帯分に相当する2000キロワットだ。

 風車は日立製作所、浮体は三井造船が製造した。
posted by ヒデキ at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月29日

元気の出る言葉 (157)

  「どないかします。」

− 東大阪市の町工場職人の言葉

 日本の“ものづくり”を支えるメッカである東大阪市の6千の町工場。機械の音が通奏低音のように街全体を包み、狭い路地に金属と油の匂いが漂う。ほとんどが10人以下の零細企業の町だ。

 この街を歩くとおかしなことに気づく。看板に偽りが多いことだ。会社の名前に「○○ミシン工業」とか「XXバネ製作所」などと記しているのに、実際は全く違うものをつくっている。

 フセラシ社はその典型だろう。「螺子(ラシ)」とはネジのこと。小さなネジ工場から出発し、今では世界に7つも大工場がある。この会社の精巧な金属部品がなければ、ハイブリッド車もスマホも商品にならない。

 トヨタ自動車の純利益が1兆円を超え、記者会見で 「スタートラインに立っただけ」 と語った豊田章男社長の眼が光った。製造業が元気になると、明るい気分になってくる。

 その大企業の陰には、無数の縁の下の力持ちがいる。つきつめて考えると、日本の競争力の源泉は、無名の中小企業の群れかもしれない。

なぜ社名と仕事が異なるのか?
東大阪の職人がよく口にする言葉は 「どないかします」 である。

 こんな部品をつくれるかと聞かれれば、決して無理だとは言わない。次々と大企業の要望に応えるうち、いつのまにか本業からずれていった。そして、新境地を切り開いて現在に至っている。偽りの看板は、進化の証でもあるのだ。

 現状に満足することなく、難しい課題を与えられても 「どないかします」で、どんどん自分の新しい領域を切り開き、時代の変化、環境の変化にあわせて自分も進化させてきた東大阪市の町工場の企業家精神に学ぶところは多い。

 どんな無理な難題にぶち当たっても、「どないかします」、の挑戦心があれば、たいていのことは突破できるのではないだろうか。そんな気がしてきた。
 
====================================================
東京、大阪など出発地も選べる婚活バスツアー
旅行と婚活のプロが恋人探しをサポート。

婚活なら【ハピネスツアー】

http://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=25Y9BX+D0K5V6+2TA4+5ZMCJ
=======================================================
posted by ヒデキ at 06:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月15日

元気の出る言葉 (156)

「 わたし、極限まで集中できることが一番の能力だと思っていて、曲作りでも歌っているときでも、極限の集中状態まで昇りつめていくと、すごく居心地よくて懐かしい気持ちいい場所まで突き抜けるんです。」
 − 宇多田ヒカル、歌手

  赤ちゃんは予定日を3週間過ぎても、誕生しなかった。医師は帝王切開を決断する。そして、取り出された赤ちゃんの心臓は動いていなかった。

  母親は麻酔で意識無し。医師は父親に「残念ですが…」と胎児の死を告げる。しかし、父親はこの小さな命をあきらめようとはしなかった。

 父親は泣きながら、必死にマッサージをした。すでに決めていたその子の名を叫びながら。そして、奇跡は起こった。なんと、赤ちゃんは徐々に血の気が戻ってきて蘇生した。

 アメリカで生まれ育ったあの奇跡の赤ちゃんは、やがて両親の影響で音楽に目覚める。10才でファミリーユニットとしてデビュー。14才でソロデビュー。その才能は祖国、日本へと渡り、15才で日本デビュー。

  奇跡の命は次々と伝説をつくった。デビュー曲、「Automatic」はいきなりミリオンセールスを記録。16才でファーストアルバム「First Love」を発売。国内外で1000万枚近い売上で日本アルバム歴代チャート1位に輝く。

以後10年にわたり、奇跡の少女は歌姫として音楽業界で神話をつくり続け、アメリカや全英でもメジャーデビューを果たし、世界の歌姫になる。

 日本の歴代ミリオンセールスアルバムランキングで1位、4位、8位に彼女の作品が入っている。そのため日本で最もアルバムを売ったアーティストとしてギネスブックに紹介されている。

彼女の名は宇多田ヒカル。そして27才、彼女は突如、活動を休止する。最後となる彼女の公演は、全国64の映画館70スクリーンで計1万7000人が生中継を見守った。Ustreamでは全世界に生配信され、全世界最高、国内過去最多となる延べ92万5000件のアクセス数を記録した。

「 わたし、極限まで集中できることが一番の能力だと思っていて、曲作りでも歌っているときでも、
極限の集中状態まで昇りつめていくと、すごく居心地よくて懐かしい気持ちいい場所まで突き抜けるんです。」

突き抜けよう。極限まで集中させて。命は奇跡。人生は奇跡の連続。あなたの命をあきらめるな。あなたの夢をあきらめるな。あなたの人生には奇跡が毎日積み重なっている。あなたの命を一生懸命、守ってくれた人たちのために。

 あなたの命を生んでくれた人のために。
posted by ヒデキ at 02:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月24日

元気の出る言葉 (155)「集中力を持続させる」 ことができれば、誰でもかなりのことができる。

「集中力を持続させる」 ことができれば、誰でもかなりのことができる。

- 村上龍、作家

「寝食を忘れる」という大原則

先日「カンブリア宮殿」という私のテレビ番組で、金属加工会社、岡野工業(株)の代表、岡野雅之さんと会いました。

日本が世界に誇る職人さんです。岡野さんの工場は従業員6人の零細企業ですが、アメリカ空軍の戦闘機のパーツを始め、世界の誰も作れない超精密性部品を作ってきました。

つい最近では、痛くない極細注射針を数年がかりで開発したそうです。蚊の針と同じくらいの太さで、1型糖尿病など常時注射が必要な人が多大な恩恵を受けることになります。

 夜中に飛び起きて工場にこもる、みたいなことは日常茶飯事だそうです。アイデアが浮かんできたら、布団の中にいてもそれを試してみようとするわけです。

 アイデアから製品化まで数年かかることもざらだそうです。でも仕事場の岡野さんは、つらそうな様子はみじんもなく、楽しんでいるようにみえました。

 つまり、本当に好きな仕事、向いている仕事というのはそういうもので、集中力が持続する、その対象がはっきりあるということです。実は、私は小説の執筆を好きだと思ったことはありません。

 脳を酷使するので非常に面倒なのですが、決して飽きることはないし、書いているとき、また書き上げたときの充実感と達成感は、他では絶対に得られません。

 執筆に夢中になると、つい浸食を忘れそうになるので、 『半島を出よ』 など大長編の場合はあえて自分に休憩を義務づけていました。そういうときに思うのは、誰でもこのくらい集中すれば何かできるのにな、ということです。

 “無力だが、無能ではないはず”

 あの人は特別な才能があるから、というようなことをよく言いますが、才能というのは、その人間にペタッとくっついている特別なものではないんです。

 プレスや金型のことを考えている岡野さんや、小説を書いているときの私と同じくらい夢中になることが何かあって、 『集中を持続させることができる』 ことができれば、誰でもかなりのことができるのだと思います。

 要するに才能の問題ではなくて、向いている何かを見つけたか、見つけられなかったかの違いでしかないわけです。

 多くの人が、「自分には特別な才能がなかった」 というような自己弁解をして、充実感のない人生をごまかしているんだろうと思います。でもそれは間違っていて、自分は結局、自分に向いた仕事と一生出会うことがなかった、ということではないのでしょうか。

 人間には誰でも無限の可能性があるとよく言われますが、それは自分に向いた仕事に出会えて、高いモチベーションとともに思う存分力を発揮できる場合に限られます。

 しかしそうはいっても、特に若い人は無力感にさいなまれることも多いでしょう。若いということは無力とほとんど同義語です。自分は無力だと認めてそこから出発すれば良いのですが、無能だと卑下するのは間違っています。

 高度成長期の頃は失業も少なかったけど、人はほとんど仕事を選べなかった。今はある程度仕事を選ぶことが可能です。選択することこそが自由の行使なので楽ではないですが、昔よりもはるかにチャンスは多いのです。

( 『他人と違うことをしなければ生き残れない』 岡野雅行 )


 
posted by ヒデキ at 11:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月11日

元気の出る言葉 (154)

 「おまえのような人間にでも生きていく方法は二つある。人の3倍働くか、それとも人のやらないことをやるかだ。」
 − ニトリ創業者、似鳥昭雄氏の父親の言葉

 「お、ねだん以上。ニトリ」 というテレビCMでおなじみ、家具の製造・販売を手掛けるニトリの創業者が似鳥昭雄氏。彼は常々、「買い物をしたお客さんが儲かったと感じれば、また、店に足を運んでくれる。」と言うが、会社を年商3,500億円にまで育てたのには紆余曲折の苦難を乗り越える必要があった。

 昭和19年に樺太で生まれ、敗戦後に父親の故郷、札幌で昭雄は貧しさの中で育つ。勉強は嫌いで、お米を配達する母を助けたり両親の手伝いに追われて過ごす日々だった。

 大学を出て勤めたのは父親のコンクリート会社だったが、数か月で挫折し、広告代理店に職を求めた。しかし、小さな会社で、営業マンとして月に50万円のノルマが達成できなければ辞めてもらうと言われての入社だった。

 昭雄は初対面の人と話すのが苦手だった。注文がとれるわけもなく、計約ゼロが続いて、5か月でクビになる。途方に暮れる昭雄によぎったのは父親の言葉。
 
 「おまえのような人間にでも生きていく方法は二つある。人の3倍働くか、それとも人のやらないことをやるかだ。」 人の3倍働くのは無理だが、「人のやらないことはやれる」。そこで選んだのが家具屋だった。


 住んでいる周りに家具屋がなかったという単純すぎる理由だった。しかし、ここから昭雄の本当の戦いがはじまる。23歳のとき、たった一人で30坪の似鳥家具店を札幌に開業したが、問屋が家具を売ってくれない。

 どこも若くて経験のない昭雄を信用しなかったからだ。
「このままではだめだ。」昭雄は4軒目の問屋に行くと、「若いけど頑張りだけは誰にも負けません。」と打って変わって自信満々で話すと、問屋も交渉に乗ってきた。

 品物が揃って店がなんとかオープンすると、お客さんが押し寄せ売り上げは想像以上に増えた。だが、それは一時的なものに過ぎなかった。売上はすぐに減少し、昭雄は毎日インスタントラーメンを食べてしのぐしかなかった。

 この窮地を救ったのが、母親の勧めで見合いした嫁だった。人当たりがよく朗らかな嫁は、お客さんの受けがよく、売上はみるみる2倍になった。以降、接客が苦手な昭雄が仕入などの裏方を、嫁がフロントを見るようにして、商売は軌道に乗っていく。

 ところが2軒目を出して間もなくすると、近くに1,300坪もの巨大な競合店がオープンしてしまい、店の売上はまた激減し、苦境に立たされた。借金は増え、追い詰められた昭雄は、自殺しようかとさえ考えた。

 この時、転機となったのが、半ばやけっぱちの気分転換で参加した 「米国の研修セミナー」だった。百貨店のシアーズなどを視察し衝撃を受ける。米国の家具は値段が日本の3分の1と安い。品質も機能も素晴らしい。

 米国の消費者は値段を気にせず買い物を楽しんでいる。アメリカの豊かさに驚き、日本の暮らしぶりの貧しさを再認識したのだった。

 自分の悩みがちっぽけなものに思えていた。そして 「日本人の暮らしをもっと豊かにしたい」という志が昭雄に生まれた。家具だけでなく食器や雑貨など生活に関連したモノを取りそろえると、売上はアップしていった。

 これまでより格段に安い価格でしかも品質の良い製品を提供したい。それは自社で作るしかないと考え、行きついたのがSPA (製造小売業)だった。工場を海外に求め、品質管理は自分たちが指導して日本レベルを達成した。

 お客さんは 「儲かった」と感じてくれ、また店に足を運んでくれた。気づけば日本で業界トップの地位に上りつめていた。

 「借金だらけで、つぶれかけた会社をどうやって立て直せばいいんだ。」 と目先の問題に振り回されていたら、札幌の家具屋のままだけだったかもしれない。

“人のやらないことをやる”ことで、昭雄の人生は急激に開けていった。

 ( 引用: 『心に火をつける名経営者の言葉』 )

posted by ヒデキ at 19:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月04日

元気の出る言葉 (153)

「若い人は、もっと自分自身に期待していいんですよ。」
 − 柳井正、 ファーストリテイリング(ユニクロ) 会長

 これはユニクロの柳井正の言葉だ。しかし、彼自身、若い時は、自分に期待している様子はなかった。地元の宇部高校を出て早稲田大学に入ったが、学生紛争が吹き荒れ、デモに熱中する同級生たちを横目に、マージャンやパチンコに明け暮れる無気力な学生だった。

 柳井の実家は、洋品店をしていた。父親は土建業を手掛け、さらに喫茶店や映画館を経営し、地元の国会議員の後援会長までやっていた。気性は激しく厳しい人だった。

 子供時代、内気だった柳井は、実家の洋服屋の商売に興味はなかった。大学4年になっても就職活動に身を入れず、 「できれば仕事はしたくないな」 というほどであった。

 就職先は自分で見つけられず、父親から 「ジャスコに入れ」 と言われて従った。ところが、ジャスコでも半年で辞めてしまう。働くのが嫌でしょうがなかったからだ。

 東京で友人宅に居候して過ごしたが、宇部に帰った。

 結局、実家の洋服店を手伝い始める。だが、ジャスコで働いていたときと感覚が違う。仕事の効率は悪く、社員についあれこれ口出しをし、意見を言ってしまう。

 結局、1人を残してみんな辞めていった。この間、父親は何も言わなかった。社員がいないから、仕入れから在庫管理に接客、経理や掃除まですべてを柳井がやるしかなかった。

 そしてある日、会社の実印を父親から渡された。この時、柳井の覚悟が決まった。

 「後戻りはできない」 と、懸命に仕事に打ち込んでいく。
「働きたくない」 と思っていた若者は、いつしか働く面白さを実感していた。

 「若い人は、もっと自分自身に期待していいんですよ。」 という言葉は、若き日の柳井自身に向けられたものでもあった。

 ユニクロの一号店を出したのは広島だった。だが、お店の知名度は全くなかった。柳井は知恵を絞り、早朝6時に店を開くことにした。ターゲット層は若い世代だったので、他の店のように10時の開店だと若い人は学校に行った後だ。

 「学校に行く前に来てもらおう。」 と開店のチラシを近くの学校や駅の周辺で配り、ラジオなどで宣伝もした結果、開店前からお客さんの行列ができた。柳井35歳、入社から12年目のことだった。

 店舗を増やしていくうちに、柳井は自分がいいと思う商品を扱いたいと考えるようになった。従来、衣料品小売りではメーカーが作った商品を仕入れ (バイイング)、そして販売する 「委託販売」が主流だった。

 商品が売れなければ返品できるので、小売店にとってリスクは少ない。しかし、販売価格は仕入れ原価でほぼ決まるので、価格競争力に足かせがあった。さらに、メーカーが作りたいものと小売店が売りたいものにギャップもあった。

 そんな時、柳井はジミー・ライと出会う。広東省から香港に密入国し、SPA(製造小売業) のカジュアル専門チェーン 「ジョルダーノ」 を作って巨万の富を作った人物だ。

 会ってみると年齢は柳井と同じで、見た目もパッとしないオヤジだった。
「この人にできて私にできないはずがない。」 そこで、1987年に柳井はユニクロのオリジナル商品を作った。しかし価格が高くて失敗する。

 それでも柳井はあきらめず、店舗数を増やしながら、商品の取扱量を増加してバイイングパワーをつけていった。

 原宿に都心1号店を1998年にオープンさせ、1,900円で売り出した “フリース” は大ヒットしユニクロの代名詞になった。

 さらにあったか肌着 “ヒートテック” は若い人だけではなくお年寄りなど幅広い世代で受け入れられていく。

 2001年にイギリス、翌年に上海と海外出店も積極的に行い、組織のグローバル化を進めて社内の公用語は英語とした。2020年に売上5兆円の目標にひた走る。そんなユニクロの快進撃は、父親が若い柳井に会社の実印を預け、すべてを任せたことから始まっていた。

 (引用: 『 心に火をつける名経営者の言葉 』 )


posted by ヒデキ at 01:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月15日

元気の出る言葉 (152)

 「 生死を賭けるような危険を冒すのでなければ、生きている感動がない」

 − アラビアのロレンス、T.E.ロレンス、Thomas Edward Lowrence

 映画 『アラビアのロレンス』 で有名になったT.E.Lowrenceは、第1次大戦中にアラブをトルコから解放した将校で、北アフリカ戦線を率いた勇猛果敢なリーダーであるばかりか、学者、作家でもあった。

 ロレンスは1888年に北ウェールズに生まれ、オックスフォード大学在学中にシリアへ遺跡の発掘旅行に加わり、アラビア語を学ぶ。 トルコ支配下にあったアラブに深く同情し、1912年には世界的な考古学者サー・チャールズ・レナード・ウィリーの伴をして中東を旅して回った。

 ロレンスは第一次大戦の開戦と共に、エジプトのカイロで情報将校となり、トルコの抑圧に対するアラブの蜂起を支えた。ロレンスは素晴らしい戦術とゲリラ戦の理論に長けており、彼の小さいながらも小回りの利くゲリラ部隊が、トルコ軍の通信や補給線を破壊し、アラブの独立に糸目をつけた。

 1917年にはアラブ軍は紅海のアカバ港で大きな勝利を上げ、アラブ軍は北に向かって自由の道を広げていく。

 その翌年にシリアのダマスカスが崩壊すると、ロレンスはロンドンに向かい、その後はパリの講和会議でアラブ独立のためのロビー活動をする。

 1921年にイギリスの植民地長官だったウィンストン・チャーチルがロレンスをアドバイザーに任命するも、彼は独自の美学から、その職を翌年辞し、英国空軍に名もなき一兵士として加わる。

 そして1935年にバイク事故で亡くなる。金や名誉のためでなく、自分の信ずる熱い目的に向かって生き、多くの人々に慕われた人生だった。


posted by ヒデキ at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月07日

元気の出る言葉 (151)

「やれるところまでとことんやれ。しかし悔やむな。」
 “Do what you can do, as far as you can do, and don’t ever regret it.”


- 渋沢栄一、明治時代の資本家、日本初の第一銀行をはじめ、500社の企業と600の教育福祉事業の設立に関与し、 「日本の資本主義の父」 と言われた男。

 三菱の創業者、岩崎弥太郎が有能な人物が資本と経営を独占すべきと主張したのに対し、渋沢栄一は経営と資本の分離を基本に、株式を介して大勢が利益を得ると共に国全体を富ます合本主義を主張し、両者は対立した。

パリの万国博覧会に十五代将軍徳川慶喜の弟が派遣されるがフランスに一緒に行くことになった。
異常な好奇心を持つ彼はパリの下水道の中を歩き回り、アパートの賃借契約のやり方などをすべて書き留めるなど、ヨーロッパの文化と知識を吸収していく。

 吸収摩といわれるほど受信能力を持つところが彼の強みであり、こうした性格が何でもない農村の一少年を日本最大の経済人に仕立てあげた。

 彼の著書 「論語と算盤」 の中で渋沢は経済では 「公のために尽くす」 といった確固とした倫理観と道徳観が必要であると述べている。渋沢の行動は一貫して 「世のため人のため」 という私心のなさで貫かれている。

 渋沢のもう一つの特徴は対人関係能力である。彼は晩年に類tまでいつも目の前にいる人に心のすべてを傾けて対応した。どんな人に対しても同じ態度だった。

 いつも初心を忘れず自分に安住せず人から学ぼうとする力。その人が成長するかどうかは出会った人や経験から学ぶ力があるかどうかが大きいと思う。学ぶ力がある人は人や経験から学ぼうとする “謙虚さがある人” だ。

 なぜ渋沢がそんなことをしたかというとどんな人にも必ず良いところがあり、それを学ぼう、認めよう、引き出そう、伸ばそうという強い信念があったからだ。

 簡単に人を馬鹿にしたり否定したりしない。リーダーというのはどんな人も許容するという 
“懐の深き人” である。

  ( 引用: 「渋沢栄一 100の訓言」 ) 

posted by ヒデキ at 20:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月30日

元気の出る言葉 (150)

 毎日にメリハリがなく、惰性的な仕事を続けている。ワクワクするような躍動感が仕事で感じられない。

 そんな人はおそらく、上から指示された仕事をこなすのに精いっぱいで、自分の考案する全く新しい製品やシステム、プロジェクト、業務の方法を考え出していないからではないでしょうか?

 今あるものよりも更に良いものを創りだすことで自分も会社も世の中も良い方向に改善する。想像力を働かせることで知恵が生まれ、楽しみが生まれ、仕事がワクワクしてくる。そんなコツを世界的製品を世に出した技術者が教えてくれます。

 ”今までこの世になかったモノを創造して送り出す” のは、事務系でもサービス業でも個人事業でも応用できる、毎日をワクワクと楽しむコツだと思います。

「 物を作ることが創造性を開発する原点。 」

 − 中村修二、カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授、徳島県の日亜化学から世界初の青色LEDを開発した独創的技術者

 発光ダイオード用の結晶材料の研究を始めたのはいいが、何せ予算は皆無に等しいほど少なかった。しかも、半導体の結晶材料のガリウム・リンを作れと言われても、開発にあたってのスタッフがいるわけではなく、作るのは私一人である。学生時代の友人に話すと、「おまえはなんちゅう会社に入ったんや。」 と笑われた。

 大手企業の研究室はみな4〜5人でチームを組んで取りかかり、開発経費もふんだんに使えるのに対し、私の方はと言えば、鉛筆1本、ノート1冊買うのにも課長のサインが必要なくらい。

 普通、このような圧倒的に不利な状況に置かれれば、ヤル気をなくすか、最初から投げ出してかかるものだろう。いくら頑張っても先が見えているからだ。しかし私に限っては、そのようなことなど何ら苦にならなかった。いやむしろ不利な状況を楽しんでいたような部分もあったと思う。

 実験装置などハナからないわけだから、自分で手作りするよりほかに方法がない。工場内に転がっている不要な部品を拾い集めてきて、電気炉を汗だくになって組み立てたりもした。また、実験で使う高価な石英管を何度も溶接して再利用したりしていたのである。

 「物を作ることが人生だ」 と言った人がいるけれども、本当にその通りだと思う。何かを作ったことがない人からすれば、完成するかどうかわからないようなもの、でき上がっても儲かるかどうかわからないようなものに一生懸命になるのは、時間のムダに思えるかもしれない。

 しかし “物を作る”という仕事は、広い宇宙でも人間だけに与えられた特権だ。だから、それが完成しようがしまいが、物をつくるという作業に従事している限り、人間であることを実感し得るのだ。そのことこそが、人間であることの証だからだ。

 人間は有史以来、さまざまな物を作ってきた。そして近代文明が開始される前までは、そのほとんどが手作りだと言っても過言ではない。ところが近代文明がさまざまな機械を発明して、人間が機械で物を作るようになってから、手作りのあの人間の原初的な姿は次第に消えていった。物を手作りする人がほとんどいなくなったのだ。

 人間が手で物を作らなくなってから、近代における人間の疎外感は強まったのではないかと思う。人間が人間であることの証を自ら捨て去ったところに、近代の悲劇があるのだろう。

 簡単に言ってしまえば、自分の手で物をつくらないから、皆、自分の人生がつまらなくなってしまうのだ。そこには創意工夫も何もない。その点、私は大手企業と決定的に違い、本当の意味での物づくりをしていた。文字どおり、 「物を作ることが人生だ」 を地で行く毎日であった。

 ルーティンの仕事をスムーズにこなしても、それは近代の合理主義と同じで、大量生産には向いていても、物作りそのものの持つ創造的な喜びには欠けるのである。

 ところで物づくりの基本は、想像力にあると思う。ああなるかもしれない、こうなるかもしれないという想像力を働かせて、試行錯誤をしながら物を作り上げていく。ところが、実際には当初の想像とは違って、うまくいかない部分が多く出てくる。それらを自分の経験や知恵で克服していこうとする。

 この困難を乗り越えたところに創造的な物が生まれてくると思うのだ。

 実は手作りの重要性は徳島大学の研究室にいるとき、多田教授からもみっちりと教えられたことだった。参考文献を読めば、人はそのとおりのことしかやらないものである。ところが、自分で器具や装置を作れば、自分だけのやり方を編み出していく。それこそが物作りへの第一歩であり、創造への第一歩だというのである。

 そして幸運にも私は、日亜化学という小さくてお金もないメーカーに入社したおかげで、創造力の開発を身をもって体験することになったのだ。とにもかくにも、想像力が働かないところには、知恵も生まれなければ楽しみもないのである。

【 引用: 「考える力、やり抜く力、私の方法」 中村修二 】

posted by ヒデキ at 15:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月23日

元気の出る言葉 (149)

「 3年黙ってひとつのことをやり続けなさい 」
- 人間国宝の漆芸家、大場松魚さんの言葉


 3年とは、365日x3年、つまり1,095日のことです。土曜も日曜も休まず、ひとつのことを考え続けるということ。そうすれば将来、全然関係のない職についても、その経験が驚くほど役に立つはずだということです。

 ただ、現代は就職難の中、働く場のない若者も多くいます。どうしたら良いのでしょうか?

 いや、実は、そんなことは歴史の中で一度もありません。 “好きな仕事がない” だけです。 ”好きな仕事” にこだわらなければ仕事はあるのです。スタート台はなにも超一流企業でなくても、手の届くところから始めれば良いのです。そこで工夫を凝らして技能を磨けば、やがて経験が活きて大きく花開くでしょう。

 ある仕事で結果を出した人に話を聞くと、 “この仕事は好きではなかった” ということも意外と多いものです。だれでも好きな仕事からスタートできる訳ではありません。

 目の前の仕事にがむしゃらになって取り組んでいれば、自然と自分の仕事が面白く思えてくるものです。
posted by ヒデキ at 17:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月02日

元気の出る言葉 (148)

 ”信ずるところに人生を賭ける” という企業家のインタビュー記事に、日米で活躍した二人に
 「 挑戦すればできるということを見せたい 」という信念の言葉があり、紹介したい。

 楽天を創業された三木谷社長が、アメリカのハーバード・ビジネススクールを出て、興銀に戻られた頃、阪神大震災で大勢の方の亡くなった姿を見て 「人生有限だ。」との思いを強くされ、エリート銀行マンの道を捨て、新しいeコマースの商店街を当時24歳だった大学院生と二人で始めたという。

 「これ、一丁やって、若いやつでも挑戦すればできるんだというところを見せてやろう」と、いちばん大きなテーマを掲げて社会のシステムに風穴をあけるべく奮闘されたらしい。

 大企業の方からはきっと嫌われるに違いないと思ったそうだが、もし楽天がなければ、日本のインターネット業界は欧米勢にテナントを取られて寂しい状態になっていたところを、日本でも独自のものが作れるのだということを立証させるのが目標だったという。

 同じような発想をした人がアメリカの移民にもいる。1970年代のアメリカのコングロマリット(複合企業)の創始者、チャールズ・ブリュースターは、ニューヨークのセントラルパークの脇に立つガルフ・アンド・ウェスタン(石油会社:ブーン・ピケンズ氏の乗っ取り合戦の標的となった。)の本社ビルにやってきた取材に対し、

 「 自分はこの会社を始めてから三時間以上続けて眠ったことがない。途中で必ず起こされる。アメリカ、欧州、アジアには時差があるから、こっちが寝ている頃には起きている奴がいるので非常に忙しい。 」と、Eメールの普及する20年も前からそのようなグローバル体制で働いていたのだから驚かされる。大した執念とど根性である。

 「 なぜあなたはそんなに働いているのですか?」という質問に、

「 第一に無能な経営者が社会の資源と人材を無駄使いしているのを改善するためだ。第二に、自分は1948年にトランク二つ持ってウィーンから来たけれども、その私がアメリカのトップクラスの金持ちになれるというアメリカン・ドリームをつくるんだ。これが我々の義務である。

したがって、アメリカンドリームらしく豪勢なビルを建てるのも必要だった。第三に、その二つの反射的効果としておれ自身も金持ちになった。 」

 国も人種も違うが、常に新しい夢、新しい成功、そして新しい開発を続けていく姿勢は見上げたものである。

 【 成功の法則92か条 − 三木谷浩史 】


posted by ヒデキ at 15:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月20日

元気の出る言葉 (147)

「 いいえ、私は何もしていませんよ。私にできることは、挨拶することと謝ることくらいですから。でも、いつも自分がやっている仕事を楽しみたい、そう思っているだけなんです。 」

 − 福岡県北九州市で多くの人を感動させた60歳の駐車場係の言葉


 100mほど離れたところに駐車場があり、そこにいつも車を停めていました。その駐車場には、いつでも元気で明るい、60歳を過ぎたばかりの管理人のおじさんが働いていました。

 年齢に似合わずシャキシャキとした行動で、手際よく仕事をこなします。毎日のように顔を合わせていましたが、いつもおじさんは明るい笑顔で挨拶をしてくれました。

「おはようございます!
今日も天気で、いい一日ですね!」

 以前は大手企業で働いていたそうです。その会社を定年になって退社し、家が近くにあるというだけの理由で、駐車場の管理人の仕事を始めたということでした。

 ある朝、急に雨が降ってきました。その時、傘を忘れたことに気がつきました。

 駐車場について、車から出ることもできずに、どうしたものかと考えていたところに、管理人のおじさんが走りよってきました。

「 傘、忘れたんじゃない?ちょうど、今降り出したばかりだから。これ、持っていきなよ」

 といって、自分の持っている傘を差しだしてくれたのです。

「 でも、これっておじさんの傘じゃないの? 」
「 私のことを気にすることはありませんよ。とにかく持っていってください。」

 自分の傘をお客さんに渡して、自分は濡れて帰ってもいい。普通はなかなかそんな風に考えることはできないと思います。管理人のおじさんは、いつもこんな調子で自分のことよりもお客さんのことばかり考えてくれるような人でした。

 その駐車場はいつも満車の状態でした。

 他の管理人さんは、満車になると小さな管理人室で本を読んだりしていましたが、そのおじさんは、駐車場の前に立って、申し訳なさそうに、

 「 満車です、申し訳ありません。」

 と深々と頭を下げて謝っているのです。中には、苦言を呈する人もいます。でも、必ずその車が見えなくなるまで、深々と頭を下げ続けていました。

「 何も、あそこまでしなくてもいいのに・・・」と思っていました。

 そんなある日、いつものように車を停めようとしたとき、いつもの違う表情でおじさんはやってきました。

「 実は、今週いっぱいで仕事をやめることにしました。妻が、肺を患っていて、空気のきれいなところでのんびり暮らすことに したんですよ。いろいろお世話になりました・・・」

 お世話になったのはこっちのほうですよ、と何ともいえぬ寂しさを覚えました。

 今日が最後という日、ちょっとした感謝の気持ちで、おじさんにてみやげを持っていくことにしました。そして、駐車場に着いたとき、信じられないような光景を目にしたのです。

 小さなプレハブの管理人室には、色とりどりの花束がいっぱいに積上げられていて、中がまったく見えません。さらに、管理人室の横には、置ききれなくなったプレゼントがたくさん積み重ねられています。それは2列にもなって。

 駐車場は、たくさんの人でごった返し、感謝の声が聴こえてきます。

「いつも傘を貸してくれてありがとう」
「あのとき、重い荷物を運んでくれて助かりました」
「おじさんに、挨拶の大切さを教えていただきました」

 次々と写真を撮り、握手をして、感謝の言葉を告げています。最後の列にならんでおじさんと話す機会を持ちました。

 「おじさんには感謝しています。おかげで、毎日気持ちよく仕事を始めることが出来ました。
 いなくなってしまうなんて残念です・・・」

「いいえ、私は何もしていませんよ。私にできることは、挨拶することと謝ることくらいですから。
でも、いつも自分がやっている仕事を楽しみたい、そう思っているだけなんです」


仕事が面白いかどうかを、その仕事の内容に期待すると裏切られてしまうでしょう。面白い仕事もつまらない仕事もないからです。つまらない仕事なんてない。仕事に関わる人の姿勢が仕事を面白くしたり、つまらなくしてるに過ぎない。

仕事の最後の日、自分がこれまでどのように仕事に関わってきたかをまわりの人が教えてくれます。その時に得られる最高のもの、それは人と人とのつながりの中でうまれる感動です。
posted by ヒデキ at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月11日

元気の出る言葉 (146)

「 日々がむしゃらにやるだけです。 」
 − 元F1レーサー、片山右京が、1992年にフランスでF1デビュー戦を飾ったときの言葉

 「僕は当時、いつ天国にいってもいい、と思っていましたから、マシンに乗る前にはすごくピリピリしていました。向こうの関係者からは、ムチャクチャな走り方をするバカな奴、という意味を込めて 「カミカゼ」 と呼ばれていました。

 予選ではトップでも決勝では無理をしてリタイアの連続でした。

 F1の世界は自分の責任で即断即決するのが常識。自分は自己主張するタイプなのに、その時だけはしなかった。アイルトン・セナもシューマッハも、この世界のトップで生きる人間は、周囲が全く理解できないほどのバイタリティがある。

 結局、自分にはそんな弱いエネルギーしかなかったから、そこまでのレーサーで終わったんでしょうね。

 この世の中、がんばることをバカにする風潮があります。一生懸命やっている子をみんなで冷やかしたり、いじめたりする。そんな空気が大嫌いです。

 やる限りはギリギリのところでやるしかない。楽な道を選ぶとしたら、僕は誠実じゃないと思います。」

  「 負け、のち全開 フルスロットル − 片山右京 」

posted by ヒデキ at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月04日

元気の出る言葉 (145)

「 孤独、憂鬱、怒り、それを3つ足してもはるかに上回る希望 」
 − 藤田晋、サイバーエージェント社長

 「渋谷で働く社長の告白」に続き、2冊目の著書を出した藤田晋氏が、ベンチャー起業してから遭遇した苦悩や挑戦を余すところなく新著 『起業家』 に書いていますが、経営者として誰にも相談できず一人苦悩する中で、そこに少しの光明を見つけようとする藤田氏の好きな言葉がこちらです。

 どんな逆境にあっても常に ”希望” を持つことは、私たちにとっても大切な心がけではないでしょうか。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 1998年、24歳の時に希望を胸にゼロから会社をスタート。三軒茶屋の1ルームの部屋には寝るだけのために帰り、それ以外は全部仕事につぎ込んでいた。人生を賭けてやっているつもりでした。

 それでも取引先には足元を見られて。同僚や知り合いには鼻で笑われて。銀行には客として扱ってもらえなかった。

 インターネットの同業者には無法者扱いされて。内定を出した人材には蹴られ。期待していた社員に見限られ辞められたこともあった。

 不利な取引条件を飲まされて悔しかったこと。未熟なベンチャーだからできなかったこと。年齢が若いから信用してもらえなかったこと。知らないから騙されそうになったことも何度もあって。

 不安と焦りで眠れない夜もあった。責任の大きさに気づかされて、プレッシャーに押しつぶされそうになった。
カネのためにやっている訳ではないのに、金を批判され。名声名誉のためでもないのに、陰口を叩かれて。前に進もうとするとあげ足を取られる。成功するたびに増えていく妬みや嫉妬。

 少しの本当を混ぜながら嘘をつかれたり、全くの出鱈目の噂話も、今ではもう慣れました。今だから笑える話も、当時はただもどかしくて、悔しくて、見返したくて、いつか全員黙らせたくて。

 サイバーエージェント今日で10年。(2008年当時のブログ記事) 従業員数1,600名強、売上高は760億円の会社になりました。昔、口に出しても信じてもらえなかったことを、次々に実現してきた。

 根も葉もない噂話は風化していき、実績で黙らせたいと思っていたことすら思い出せず、怒りや悔しさは時間とともに消えてなくなりました。

 起業家として、金や名誉なら自分はもう充分得ていると思う。
『孤独、憂鬱、怒り、それを3つ足してもはるかに上回る希望』 
それこそが起業家には必要。これからまた勇気を持たなくては。

 アメーバは日本を代表するメディアにしてみせる。世界に通用するサービスを産みだしてみせる。世界的な成功を収める会社になってみせる。

 自分は同世代の起業家のトップランナーと自負しています。だからこれからも走り続けなければならない。途中で退場した友人の起業家のためにも。次の世代の起業家のためにも。

 ( 引用: 「起業家」、サイバーエージェント代表取締役社長 藤田晋 ) 



posted by ヒデキ at 08:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月22日

元気の出る言葉 (144)

「 もし、自分が好きなことをしていて、

自分の好きなことが何か、ちゃんと知っていて、

しかもそれが自分のためにも人々 (社会) のためにもなるので、

他の人々から尊敬されているということを知っているならば、

あなたは、幸せであり、成功している、と言えるだろう。」

 − デニス・ウェイトレイ博士、南カルフォルニア大学客員教授、『成功の心理学』の著者

posted by ヒデキ at 07:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月07日

元気の出る言葉 (143)

 「ウォール街では、ぼう大な仕事量を信じられないスピードでこなす弁護士たちが、複雑きわまりない取引に傾注していった。」

 日本でもアメリカでも、電話帳のようにぶ厚い法律書を頭の中に叩き込み、複雑な問題を分かり易く解きほぐして解決に持っていく弁護士は、優れ者だ。しかも仕事量が半端ではなく、昨今の企業弁護士は一日15時間以上も働いている。

 あふれる書類を、デスクだけでなく、机のまわりのカーペットに大量に並べながら。

 ゴールドマン・サックスで働いていた法務部の弁護士先生も、今勤務している会社の企業弁護士も、仕事のスピードといい、知識の量といい、全く凡人が歯が立たないくらいに凄い。

 成果=スピードx仕事量

 自分の仕事が遅遅として進まなかったり、”なんだか去年から全然進歩していないじゃないか!”

 と嘆きたくなった時には、この弁護士に関する言葉を思い出しては自分を鼓舞している。

 ( ウォール街のマネー・エリートたち − ヘッジファンドを動かす人びと  )


posted by ヒデキ at 08:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする