新しく連載をはじめました。 「 伝説の経営者たち 」 は、徒手空拳で創造力とバイタリティを武器に企業を創り上げた伝説の人物の生涯を報じます。
ウォルト・ディズニーの第2話をお贈りします。第1話は、記事の下にあります。
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ラフォグラム・フィルムズを設立したウォルト・ディズニーは、二つの原則をつくる。
第一に、彼は他人に使われる身分にはなりたくはなかった。父と軍の将校に仕えてきて、これ以上ボンクラな上司の命令に従いたくはなかった。
第二に、ウォルトディズニーは現行の技術を越えたいと思っていた。1920年初めには、紙に描いた粗雑な人形の絵を切り抜き、その手足を切り離してピンで留め、それを少しずつ動かしながらコマ撮りしていくという方法で、一分間のアニメーション広告映画が作られていた。
ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがガレージで起業する半世紀前に、ウォルト・ディズニーはストップアクション・カメラをガレージに持ち込んで、もっと高度な絵で実験を始めた。
結果は素晴らしかった。
観客は彼らに関心を持ち始めた。1922年には、ウォルトディズニーはきわめて現代的な6分間の
『 赤づきん 』 を制作した。この映画の中では、おばあさんは映画を見に行くし、赤づきんを助けるのは飛行機のパイロットだ。おまけに狼は、博物館のはく製のような姿はしていない。日本足で立ち、シルクハットと燕尾服を身に付けているのである!
カンザスシティのニューマン劇場の支援を得て、地元の投資家から1万5000ドルの資金を集め、若くて才能があり、エネルギーに満ちたイラストレーターをさらに数人雇った。
金銭的には綱渡りのような日々だったが、この間にもウォルトディズニーは驚くべき画期的なアイデアを思い付いた。
アニメーションの中に人間の俳優を誕生させるというアイデアである。
1923年、ラフォグラム社は、 『 アリスの不思議の国 』 を制作する。この映画は、六歳の子役の女の子がディズニーやイヴェルクスに漫画を描いてくれとせがみ、やがて彼女自身がお話の中に飛び込んで、猫の楽隊の演奏に合わせてダンスするという構成になっている。
ウォルト・ディズニーのイノベーションがまさに発揮されているのである。
これにより、ディズニーのラフォグラム社は笑いと称賛を勝ち取った。勝ち取れなかったのは、給与や家賃を払えるだけの金だった。
若いアニメーターたちは解散し、会社も解散を余儀なくされ、一文無しになったウォルトディズニーは、列車の時刻表と地図を眺めはじめた。それまでの数年間で、彼はドイツとフランスとシカゴに行っていた。一文無しの彼が目指したのは、アメリカ西海岸のハリウッドだった。
ところが切符を買う金が無い。未来のプロデューサーが無賃乗車をするわけにはいかない。ウォルトディズニーはカンザスシティを歩き回って、赤ん坊を動画フィルムに収め、誇らしげな親たちにそのフィルムを売り付けた。
片道切符を買えるだけの金がたまると、彼はアッチソン・トピカ・サンタフェ鉄道に飛び乗った。
ロサンゼルスのユニオンステーションに降り立ったとき、ウォルト・ディズニーにはカネも仕事もなく、頼れるものは漫画のアイデアでいっぱいの頭だけだった。
さて、ハリウッドはそこで仕事をしようとする人間には冷酷さをむき出しにすることで知られている。ウッディ・アレンが言ったように、
”食うか食われるか ” よりもっとひどく、 「 電話してもなしのつぶて 」 の世界である。幸いなことにウォルトディズニーには、部屋代も取らずに居候させてくれる叔父がいた。
ウォルトディズ二―が最初に得た仕事は、西部劇のエキストラだった。だが、砂漠で撮影されていたにもかかわらず、彼の出演シーンは雨で流れ、その後別のエキストラを使って撮影された。
「 それが私の俳優としてのキャリアの終わりだった。 」 と彼は後に語っている。
” どうすれば自分の 「 才能 」 を仕事に変えることができるだろう? ” 真剣に考えたウォルトディズニーは、自分の想像力を生かして、すでに仕事を持っている引く手あまたの優秀な人材として、自分を売り込むことにした。
大物経営者として振る舞うのにまず必要なものは何だろう?
文房具と名刺である。派手なレターペーパーは、ウォルトディズニーのような漫画家にとっては決して邪魔にならない。
彼はオリンポスの神か、でなければ大監督のセシル・B・デミルが書いたかのような自信満々の手紙をニューヨークの配給業者に送りつけた。自分は
「 これまでに無い新しい漫画映画シリーズ 」 を制作するため、ロサンゼルスに新しいスタジオを開こうとしている。 と宣言し、さらに、 「 精選した 」 スタッフも引き連れていると云い添えた。
この手紙は、 「 精選した 」 スタッフの数が 「 ゼロ 」 であることをわざわざ明かしてはいなかった。だが、それが功を奏して、アリスの映画を6本つくってくれという注文が舞い込んだのだ。
スタジオを構えていると嘘をついて注文を受けたので、本物のスタジオを早急に作らなければならなかった。
( つづく )
( 引用: 伝説の経営者たち )
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【 第一話 】
ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがIT産業で脚光を浴びるより50年も前から、ウォルト・ディズニーはアメリカに夢の産業を立ち上げた。 「 ミッキーマウス 」 や 「 ディズニーランド 」、 「 眠れる森の美女 」 などで知られるこの会社だが、ウォルトディズニー自身はそのような安定した家の出ではなかったし、学歴も無い。
彼の父、イライアスは、一つの仕事に腰を落ち着けることはできず、説教師、建設労働者、大工、郵便配達人などの職を転々とし、農業にも手を出して失敗していた。
しかし、子供に対しては、厳しく目を光らせる厳格な父親で、倹約を尊び、ののしり言葉を嫌った。
ウォルトディズニーは幼い頃からスケッチや演技に夢中で、どんな舞台にも上がりたがる目立ちたがり屋だった。
厳格な育てられ方をしたにも拘らず、ウォルトディズニーは愛情深い男に成長し、人の肩に腕を回して親愛の情を注ぐことがよくあった。上司としては厳しく、ときに気難しいこともあったが、素朴で飾らない人柄は終生変わらなかった。
ウォルトディズニーは1917年、初めて仕事に就く。サンタフェ鉄道の社内でピーナッツやポップコーン、クラッカージャックを売り歩く仕事に就く。目立ちたがり屋のウォルトは、派手な金ボタンの青い制服を着るのがうれしくてたまらなかった。
鉄道マニアとなったウォルトは、その後経営者となった1940年代には自宅の裏庭にこもって総延長400メートルのミニチュア鉄道を組み立てる。
やがて16歳になったウォルトは、郵便局の面接を受けたのだが、16歳の割にはやせていて、14歳くらいにしか見られなかったため、不採用になった。変装の名人の彼は、衣装と帽子を変えて、あらためて面接に出掛けた。
履歴書には10歳サバを読んで26歳と書き、なんと前回彼を不採用にした同じ面接官から仕事をもらったのだ。
だが、列車に乗ることも、郵便配達人として町を駆け回ることも、若いウォルトディズニーには物足りなかった。新聞はヨーロッパでの第一次世界大戦を大々的に報じており、兵士たちが背嚢をかついで
” Over there ( はるか彼方 ) ” のヨーロッパに向かう船に続々と乗り込んでいた。
ウォルトディズニーの3人の兄もすでに入隊していたが、ウォルトの前にはまたもや年齢の壁が立ちふさがった。彼は年齢制限のゆるいカナダ軍に志願することすら考えた。
結局、いやがる母を無理やり説き伏せてサインをさせ、年齢を偽装して軍隊に入る。そしてフランスに赴き10ヶ月を過ごす。
第一次世界大戦時の他の多くの兵士と異なり、ウォルトの場合は海外に派遣されたことでキャリアの前進を妨げることにはならなかった。彼は仲間の兵士の制服にもニセの勲章を描いて、彼らを 「 昇進 」 させてやった。
ウォルトにとっては救護車も画用紙だった。殆どの車はくすんだ緑色だったが、そこにオリジナルの漫画のキャラクターをカラフルに描いた。
さらに、彼とジョージア出身の友人は、奇抜な金儲けの方法を思いついた。彼らはドイツ軍のヘルメットを集めて、それに迷彩色を施し、石で叩いてボコボコにした。そして、抵抗の証として銃まで打ち込んで、ボロボロの 「 リアル 」 な戦場土産をつくったのである。
ディズニーランドは金儲け主義に走りすぎていると批判する人たちは、ウォルト・ディズニーはそもそも世界大戦を金儲けの道具にしたのだということを思い出すべきだろう。
戦争の廃墟の中で漫画家として稼ぐことができたのだから、アメリカに帰ったらすぐにそれで食べていけると、ウォルトディズニーは自信を持った。
シカゴの家族のもとを離れてカンザスシティに行き、農業関係の商品を専門にする広告会社に就職した。
しかしそこでの仕事は長く続かず、やがて数人の漫画家を誘って、アニメーション映画制作会社、ラフォグラム・フィルムズを設立する。