2011年09月03日

伝説の経営者たち (17) ウォルト・ディズニー

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  − ウォルト・ディズニーはいよいよ、カリフォルニア州にディズニーランド建設構想を進めていきます − 

 1953年、ウォルトディズニーとロイ・ディズニーは、カリフォルニア州アナハイムに建設予定のテーマパークの完成予想図を手にニューヨークを訪れた。

 彼らは二つの大手ネットワーク、CBSとNBCの幹部に会って、テーマパークに資金を出してもらう代わりにディズニー・スタジオがテレビ番組を制作するという案をもちかけた。

 CBSとNBCのお偉いさんは、おもしろそうだとは言ったものの、提案に対しては首を横に降った。CBSもNBCも業績は好調で、リスクの高い契約を結ぶ必要はなかったのだ。そのためディズニー兄弟は、当時は最も弱小のネットワークだったABCに向かった。

 当時のABCはヒット番組を出すことなどめったにないマイナー・プレイヤーで、ディズニーがABCを必要としていたのに劣らず、ABCの側もディズニーを必要としていた。ABCはディズニーランドの3分の1の所有権と引き換えに、50万ドルを出資するとともに450万ドルの銀行融資の連帯保証人になることになった。

 この歴史的な契約に基づいて、ディズニーはABCで毎週放送される番組を制作することになった。この番組にどんな名前をつければよいか。映画とテレビとテーマパークを抱き合わせで売り込むというウォルトディズニーの考えに、どのような名前が役立つか。答えは明白だった。

 1954年秋、ABCは 『 ディズニーランド 』 の放映を開始した。この番組はABCを若く野心的な連中が集う会社に生まれ変わらせた。ABCは初めて視聴率トップテンに入る番組を持ち、より多くの人材や広告を集められるようになった。

 ウォルトディズニーは 『 ディズニーランド 』 を巧みに使って、アナハイムに対する視聴者の関心を掻き立てた。

 テーマパークはフロンティアランド、アドベンチャーランド、ファンタジーランド、トゥモローランド、に分かれることになっていたので、テレビ番組もこの4つに分けられた。

 視聴者は、たとえばトム・ソーヤーについてのクリップを見て、それからいつの日か本物の筏 (いかだ) に乗ってトム・ソーヤーの島に行くことができる夢が聞けるわけだ。

 これらの楽しく魅力的な情報に加えて、 『 ディズニーランド 』 は視聴者に番組づくりの裏側や、やがて誕生するテーマパークの準備の舞台裏を見せた。スクリーンテストまで放送して、一種のバックステージ・ツアーを提供したのである。

 これもまた斬新なアイデアであった。プロデューサーのマイク・トッドはかつて 『 顧客には絶対に舞台裏を見せてはいけない 』 と言った。マジシャンと同じく、ほとんどのプロデューサーがトッドと同意見で、 「 映画のマジック 」 の背後にある平凡な現実に観客が幻滅するのを恐れていた。

 だが、ウォルトは違った。映画づくりのプロたちがどのように仕事を進めているかを見られれば、観客は完成した作品により一層わくわくするはずだと考えたのである。

 ディズニーの先例にならって、ユニバーサル・スタジオは1964年にハリウッド・スタジオ・ツアーを開始して、大成功を収めている。

 テレビ番組の 『 ディズニーランド 』 は、大都市ではCBSとNBCの視聴率を併せた数字より高い視聴率を叩き出して、テーマパークのディズニーランドに勝るとも劣らぬほどの成功をおさめた。

 内容的にも高く評価されて、エミー賞を受賞した。かつて水曜の夜は、CBSでバラエティ番組をやっていたアーサー・ゴッドフリーの独壇場だった。そこに 『 ディズニーランド 』 が登場して、ゴッドフリーの視聴率をごっそりかっさらった。

 ゴッドフリーはこうぼやいた。 「 私はディズニーが大好きなんだ。水曜の夜は仕事をせずに、家でゆっくり彼の番組を見たいものだ。 」 

 テレビがディズニーをつくっただけでなく、ディズニーがテレビをつくったとも言える。

    ( つづく ) 

 ( 引用: 「 伝説の経営者たち 」 ) 


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2011年08月31日

伝説の経営者たち (16) ウォルト・ディズニー

 【 システムトラブルのため再掲載します。連載記事は下記のカテゴリー欄より通してご覧になれます 】

 ウォルト・ディズニーはたった1つのテレビ番組を制作しただけで、早くもこのメディアにもっと優れた技術を使わせたいと考えた。

 1920年代に手足をピンで留めた原始的な紙人形を使っていたアニメ技術を飛躍的に向上させたように、彼は自分の番組は粒子の粗いキネスコープではなくフィルムに録画してくれと要求した。

 キネスコープは、番組が生で放送されている間に、モニター画面から画像を撮影して作られる二次画像である。そのためぼやけたり歪んだりしており、それが視聴者をいらいらさせる原因となっていた。

 その後、デジ・アーナズが1951年に曇りのないピカピカのフィルムに録画して放送する画期的な技術を開発すると、ウォルト・ディズニーも同様に放送のスペックを高く要求する。

 さらに、ディズニーは業界の慣行に反して、自分のテレビ作品に対する所有権を局に要求する。ウサギのオズワルドが肩に乗っかって 

 ” 奪われるんじゃないぞ! ” と囁きかけているかのように毅然と行動したのだ。

 彼の映画を買い取りで放送させてくれと、あるテレビネットワークが何百万ドルの取引をもちかけたときも、ディズニーは断ったと言われている。

 1950年のクリスマス特別番組の成功に続いて、ウォルト・ディズニーは1951年の特別番組も制作する契約を結んだが、今度はタイトルに彼の名前が入ることになった。ジョンソン・エンド・ジョンソンが25万ドルを払ってスポンサーになった。

 この番組、 『 ウォルト・ディズニー・クリスマス・スペシャル 』 では、ディズニーの次の大型プロジェクト 『 ピーターパン 』 のプレビューが流された。今度もまた、子供たちはこの映画に連れて行ってくれとせがみ、前売り券が飛ぶように売れた。

 だが、ディズニーにはクリスマス特別番組やチケットの売り上げに加えて、もう一つ大切なことがあった。海賊や冒険やおとぎ話のお姫様、そして彼自身のミズーリ州マーセリンの思い出話をつめこんだ、まったく新しいテーマパーク、 ” ディズニーランド ” である。

 それは彼には素晴らしい計画に思われたが、残念ながら兄のロイ・ディズニーは、この計画を進めたらカネがいくらあっても足りなくなり、会社が倒産して株主たちから訴えられることになると判断した。

 銀行の融資担当者もロイ・ディズニーと同じ考えだった。

 そのためウォルトは、当たり前のことを − ウォルト・ディズニーの頭の中では当たり前のことを − 行った。パーム・スプリングスの別荘を売り別荘を売り、自分の生命保険を担保に銀行から借金をし、さらには社員からも資金をかき集めて、後に ( ウォルター・イライアス・ディズニーの頭文字をとって ) WEDエンタープライジズと呼ばれる別会社を作ったのである。

 だが、1700万ドル ( 約13億円 ) もの大構想を実現するにはそれでも足りなかった。 ” ディズニーランド ” を建設する資金をどこから調達してくれば良いか。

 彼はその答えをテレビの中にみつけたのである。

               ( つづく )
                ( 引用: 『 伝説の経営者たち 』 ) 





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2011年08月11日

伝説の経営者たち (15) ウォルト・ディズニー

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純然たるビジネスの観点から見て、ウォルト・ディズニーは自社のテレビ作品と新しいテーマパークを抱き合わせて売り込む巧みな方法を考え出すという点で、非凡な才能を発揮した。

 1950年代始めには、ほとんどのテレビ番組は旧来のラジオ番組をブラウン管を通じて送り出していただけだった。

 ジャック・ベニーやジョージ・バーンズの番組は、テレビとラジオで同時に流されていたほどだった。

 おまけに、ラジオから移行してきたテレビの台本作家や出演者の多くが、実際には1920年代にボードビルの世界でスタートしており、劇場でやっていたことをスタジオに持ち込んだだけだった。

 だがウォルト・ディズニーはテレビに全く新しい何かを見出していた。

 他の映画スタジオのトップたちがテレビに顧客を奪われるのではないかと戦々恐々としていたのに対し、ヲルトはテレビには人々を刺激して映画館に足を運ばせる力があることに気付いていた。

 そのうえ、売れる保証がないまま制作する映画とは異なり、テレビの場合はネットワークや企業スポンサーから制作費を前金で受け取る契約を結ぶことができた。

 ウォルトは1950年に、NBCテレビのためにクリスマス特別番組 『 不思議の国の一時間 』 を制作したが、この番組にはコカ・コーラ社が12万5000ドルのスポンサー料を払った。

 『 不思議の国の一時間 』 は、ウォルトディズニーのオフィスでのパーティを思わせる構成になっており、腹話術師のエドガー・バーゲンと彼の人形、チャーリー・マーカーシーがホストをつとめた。

他のテレビ・タレントと同じく、バーゲンとマッカーシーも最初はラジオのスターだった。

 ラジオで腹話術とは奇妙な話だ。それは iPod でタップダンスを聴くようなもので、サビオン・グローバーが踊っているのかもしれないし、誰かがスプーンでテーブルを叩いているだけかもしれない。

 エドガー・バーゲンの古いビデオクリップを見ると、彼の唇は、唇を動かさずにしゃべろうかとしているように動いている。

 いずれにしても、1950年のクリスマス特別番組の本当に新しかった点は、ディズニーのまだ公開されていない映画 『 不思議の国のアリス 』 の5分間のプレビューを流したことだった。

 このプレビューはアメリカ中の子供たちを興奮させ、近日公開予定のこの映画に夢中にさせた。

 プレビューのクリップが終わったとたんに、子供たちはこの映画に連れていってくれとせがみ、親たちは一斉にディズニースタジオに電話をかけて、ピンポイントの質問を浴びせかけた。

 「 チケットはいつ買えるんですか? 」 と。

 ウォルトディズニーは後にこう語っている。

 「 私はテレビというメディアの、映画を売り込む力を強く信じている。ギャラップ社の調査では、われわれのクリスマス番組は ( 観客への ) 浸透度を大幅に高めたという結果が出ている。

 われわれはテレビを販売促進の場として使うつもりだ。 」

 他の者たちがテレビという未開の地を即座に避難したのに対し、ウォルト・ディズニーはテレビの最大の支持者になった。

 「 テレビはあらゆる年齢、あらゆる階層の人に訴えかける、まだ発展途上だが、コミュニケーションの最も身近な手段である。」

 だが、たったひとつの番組を制作しただけでウォルトは早くもこのメディアにもっと優れた技術を使わせたいと考えた。

       ( つづく )
       ( 引用 『 伝説の経営者たち 』 )


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2011年08月05日

伝説の経営者たち (14) ウォルト・ディズニー

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 インスピレーションというやつは往々にして、逆境の中であがいているときにひらめくものだ。

 2005年にスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式ですばらしい、伝説的なスピーチをしたが、彼はその中で自分が困難にぶつかっていなかったら、アップルの革命は起きていなかっただろうと述べた。

 === 引用 : スティーブ・ジョブズの2005年 スタンフォード大学卒業式でのスピーチ
 ” ハングリーであれ! たとえバカと呼ばれても! ” ===

 「 寮に自分の部屋はなかったので友人の部屋を転々として床で眠り、コークのビンを返却するともらえる5セントをためて食事をしていました。

 毎週日曜日の夜には7マイル ( 11キロ ) 歩いて街はずれのハレクリシュナ教の寺院まで行き、週に一度のまともな食事にありついたものです。

 養父母に引き取られて育てられていた僕は、家庭の経済的事情で、リード大学をドロップアウトしていたので、正規の単位を取ることはできませんでしたが、聴講生としてカリグラフィー ( 装飾書体 ) のクラスをとることにしたんです。

 それは美しく、歴史があり、科学ではとらえられない芸術の微妙さに満ちていました。こうしたことはどれもみな、私の人生でなんらかの実用的な役に立つ見込みは全くありませんでした。

 ところが、10年後に、最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計していたとき、それがよみがえってきたのです。

 こうして出来上がったのが、美しい印字を持つ世界初のコンピュータでした。

 私がもし大学であの一つのコースにドロップイン ( 寄り道 ) していなかったら、マックは複数書体もプロポーショナル・フォントも備えてはいなかったでしょう。 

 人生、どこで何が幸いするか、分かったものではありません。 」

 もちろん、ディズニーランドは、ウォルト・ディズニーと彼のスタジオが1940年代に資金繰りに苦しんでいたことだけから生まれたわけではない。

 二人の娘、シャロンとダイアンに対するヲルトの深い愛情もその源になっていた。

 ウォルト・ディズニーは子供を楽しませるのが大好きな愛情深い父親で、自宅のプレイルームにソーダ・ファウンテンを置いていた。

 「 父はよくそこにやってきて、誰も飲む気がしないような奇妙な飲み物を作っていたんです。 」 とシャロンは語る。

 彼は子供たちを連れて世界各地のアミューズメントパークを訪れていたが、そのほとんどが薄汚れていて子ども達から嬉々として硬貨をだまし取るような程度の低い人間をスタッフに雇っていた。

 だが、コペンハーゲンのチボリ公園には感銘を受け、もっと素晴らしいテーマパークをつくれないだろうかと考えるようになったのである。

 CEOはお高くとまるべからず

 ウォルトは最終的にはディズニーランドを成功させるわけだが、われわれはそこからもう一つ教訓を引き出せる。

 CEOはお高くとまってはいけないということだ。

 1950年代のディズニーの映像ビジネスの復活とディズニーランドの見事な船出は、テレビによって推進力を与えられた。

 ウォルトディズニーがテレビという新しいメディアに対してお高くとまっていたなら、ディズ
ニーランドは国際的な成功をおさめてはいなかっただろうし、彼の映画は資金不足で前に進めなくなっていただろう。

 1940年代のラジオの大スター、フレッド・アレンは、テレビが 「 ミディアム ( メディア、中くらい ) に焼けた 」 と呼ばれるのは 「 何一つウェルダン ( よく出来た、よく焼けた ) ではない 」 からだと皮肉を言ったが、ウォルトディズニーはアレンが間違っていたことを実証した。

                    ( つづく ) 

          ( 引用: 『 伝説の経営者たち 』 )


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2011年07月22日

伝説の経営者たち (13) ウォルト・ディズニー

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 ウォルト・ディズニーはアメリカ陸軍省だけでなくスタジオのスタッフからも追い詰められた。給料が安定して配られていないという理由で、1941年に組合が厳しいストを呼びかけたのだ。

 ウォルト・ディズニーは打ちひしがれた。彼の目には、これはミンツやパワーズやアイワークスの仕打ちと同じような裏切りと映ったのだ。

 子飼いのアニメーターたちがピケを張るなかで、彼はそのピケ・ラインを越えてスタジオに行かなければならない。とりわけ辛かったのは、アニメーターたちが掲げていたプラカードに、彼の愛す
るキャラクターたちが彼を避難している漫画が描かれていることだった。

 グーフィーが自分を 「ごろつき」 呼ばわりする漫画を目にするのは彼の士気を消沈させた。

 第二次世界大戦に協力したことによる売上の低下と組合との協定で負担することになったコストで、スタジオの財務状態は繁栄からさらにかけ離れたものになった。

 戦後の1946年には、ウォルト・ディズニーは優先株を売却するとともに、1500人のスタッフの約3分の1を解雇せざるをえなかった。

 この時期の彼は、兄のロイ・ディズニーや信頼していたアドバイザーたちとしょっちゅう口論をしていた。ファンタジーと現実逃避の達人、ウォルト・ディズニーが、現実におしつぶされそうになっていたのである。

 スタッフを怒鳴りつけながら、彼は自分の精神が今にもポキンと折れそうな気がしていた。

 バーバンク (カリフォルニア州) のスタジオの暗黒時代だった。彼は不眠に悩まされ、廊下をうろついては誰彼構わず小言を言い、そうかと思えば自宅に引きこもることもあった。

 アナハイムでの再生

 第二次世界大戦後、ウォルトディズニーはやがて彼の精神を救い、彼の会社も救うことになる新しい遊びを思い描くようになる。

 はるか遠くのサンタフェ鉄道の音は、子供の頃からずっと彼の頭に鳴り響いていた。成功し名を上げたもののストレスに押しつぶされそうになっていた彼は、自宅の裏庭を眺めながら、何本か木を切り倒して列車を走らせるスペースを作ろうと決意した。

 1947年、彼は妹のルースにこう語っている。
 「 自分で自分に誕生日とクリスマスのプレゼントを買ったんだ。列車だよ。子供のころどれだけ列車がほしかったか、お前には分からないだろう。でも、とうとう列車を手に入れたんだ。 」

 信じがたいことだったが、このファンタジーメーカーは、40代半ばになって初めて自分の玩具を買ったのだ。

 もちろん、それはライオネル社の初心者用キットではなかった。彼は37メートルのトンネルを持つ総延長800メートルのループ状の鉄道を裏庭につくり上げた。

 列車は本物の8分の1のサイズだった。ヲルトは自社の小道具部に電話を入れて、列車を乗せる8分の1サイズの人間の模型を作ってくれと頼んだ。

 「 本物の列車のように見せるためには乗客が必要なんだ。 」 と。小道具部の責任者は気をつけの姿勢をとって「 やってみます 」 と答えた。


 彼がボスは自分をからかったんだと気付いたのは、受話器をおいてからのことだった。7人の小人でさえ8分の1のサイズにはおさまらなかっただろう。

 ディズニースタジオの暗黒時代にヲルトが飛びついたミニチュアの列車は、ディズニーランドのアイデアにインスピレーションを与えた。

    ( 引用 伝説の経営者たち」 )




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2011年07月09日

伝説の経営者たち ( 12 ) ウォルト・ディズニー

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 1941年にカリフォルニア州バーバンクにあったディズニースタジオを米軍が接収するのには、2つのミッション ( 使命 ) があった。一つは、ディズニーのファンタジー・マシンを戦争マシンに変えて、軍のロゴから訓練用映画までのあらゆるものを制作させることだった。

 ウォルトディズニーは、モスキート( 蚊 ) ・ボート とも呼ばれていた海軍の魚雷艇のロゴをデザインしたが、それは魚雷にまたがった獰猛そうな蚊の図柄だった。

 ダンボは航空隊のロゴに登場し、爆弾に乗って 「 的は決して外さないぞ! 」 と叫んでいた。

 1942年には、ディズニーが制作した映画の90%以上が戦争関連のもので、スタジオが生み出す映画フィルムの長さは平時の6倍にも達するようになった。

 ヲルト・ディズニーは愛国者で、自分の会社が軍の役に立てることを誇りに思っていた。だが、その彼でさえ、海軍の年配の司令官が彼の部屋を何ヵ月も占領し、彼が制作会議を開こうとしている隣で、ガダルカナルの前線にでもいるつもりなのか、バケツで靴下を洗い始めたときには仰天した。

 陸軍省はディズニーのアニメーターたちに、 『 十二指腸虫 』、 『 病気の伝染経路 』 『 健康は清潔さから 』 など、人目をひくタイトルの映画を次々と作らせた。言うまでも無く、ディズニーの典型的なファンは競ってチケットを買いはしなかった。

 1500人のスタッフを抱え、スタジオはまもなく400万ドルの赤字に追い込まれた。

 ウォルトディズニーは犠牲を払う必要があることは理解していたが、アメリカ政府がもう少し感謝してくれてもいいと思うこともあった。

 一例をあげると、アメリカ財務省が、国民に税金を期日までに納めるよう促す映画、
 
 『 新しい精神 』 にドナルドダッグを抜擢したとき、財務長官のヘンリー・モーゲンソーは、感謝するどころか、ドナルドの演技についてウォルトに文句を言った。

 ウォルトディズニーは、怒りをぶちまけた。

 「 私はドナルドダックを貸し出したんですよ! MGMがクラーク・ケーブルを貸し出すのと同じ意味なんですよ! 」 

 ドナルドのまずい演技にもかかわらず、何千万人ものアメリカ人がこの映画を見て、ギャラップの調査によると、そのうちの37%の視聴者の納税意識が高まったのだという。

                              ( つづく )


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2011年07月02日

伝説の経営者たち ( 11 ) ウォルト・ディズニー

ブログで 『 伝説の経営者たち 』 を書くのはいいけれど、当の僕自身は 
『 伝説の過酷労働男子 』 になりそうです (笑)!

 12連勤の半ばに達し、午前様でやっと自宅に戻ってきましたよ。 えっっ !? どこで残業してたんだって? 赤坂や六本木じゃないですよ! オフィスで残業してたんですよ〜。(泣)

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1950, 60年代にディズニー制作のテレビ番組が大ヒットして、アライグマの毛皮の帽子をかぶったダニエル・ブーンやデイビー・クロケットが男の子たちの最大のヒーローになったときは、アライグマの毛皮の値段が20倍以上にはね上がった。

 毛皮商人は狂喜し、アライグマの毛皮が売り切れると、ネズミの毛皮に縞模様をつけて売った者もいた。チャンスを一つたりとも逃がさないよう、ディズニーはデイビー・クロケットのテーマソングを委託製作させた。

 この曲はヒットチャートのトップに躍り出て、以来、今日に至るまでディズニーに著作権使用料をもたらしている。

 ウォルトディズニーがキャラクターの商品利用を積極的に展開したことが、消費者のカネをわれ先につかみ取ろうとする今日の競争の土台をつくったわけだ。

 今日のマーケティング担当者は、消費者が製品やサービスを口コミで宣伝してくれる安上がりな 「 バイラル・マーケティング 」 を促進したいと強く願っているが、一度手をとめて、1930年代に、 

 「 ミッキーマウスクラブのあの会員たちは、いったい何のとりこにされていたのだろうか? 」  と考えてみるのも良いだろう。

 ミッキー、ドナルド、グーフィー、それに彼らの仲間たちは、アメリカだけでなく世界中の子供たちをディズニーファンにした。

 スタジオの売り上げの半分近くが海外で生み出されるようになった。

 だが、絶好調で1940年代を迎えたウォルトディズニーは、ヒトラーの戦車とヒロヒトの戦闘機のために、彼のキャリアの中でもっとも厳しい時代に突然追い込まれることになる。

 ピノキオの物語の部隊はイタリアだったが、ウォルトディズニーが1940年に 「 ピノキオ 」 公開したときには、ヨーロッパはナチスの征服者とムッソリー二の軍隊に蹂躙されていた。

 軍国主義者たちは外国製品に対して門戸を固く閉ざし、ディズニーの売上は落ち始めた。

 カリフォルニア州バーバンクは爆弾や銃弾から何千キロも離れていたが、1941年12月7日に日本軍がパールハーバーを攻撃してほどなくすると、500人の米軍部隊がディズニースタジオに乗り込んできて、スタジオを接収した。

                       ( つづく )



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2011年06月25日

伝説の経営者たち ( 10 ) ウォルト・ディズニー

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 以前の商習慣では、メーカーはまず無名の製品を小売店に置いてもらい、それから宣伝してブランドを築かなければならなかった。
 だがこの方式では、製品にミッキーやドナルドやミニーの顔がついている限り、製品は売り場に並ぶ前から広く知られているのである。

 ディズニーのスピード重視は今も続いており、さらに強化されている。今日のDVDやゲームの販売ではスピードが決定的に重要だ。

 多くの大手ソフト会社の在庫を管理しているダイタン・コーポレーションによれば、売上の約40パーセントが発売から三日間のうちに発生する。

 新作ビデオゲーム - たとえばエレクトロニック・アーツ社が出しているジョンマデンのNFLフットボールシリーズ - の大多数が火曜日に発売され、若い男性が購入する。

 ビデオゲームのプロバイダーや卸会社は、火曜日の朝の開店時間にはふんだんに在庫を並べておかなくてはいけない。

 ディズニーとタイアップしなくても、企業がただ乗りの利益をエンジョイする場面も多々あった。

 企業が他の企業の活動から利益を得て、対価を支払っていない場合には、エコノミストはそれを 「 ただ乗り 」 と呼ぶ。これは、 「 正の外部効果 」と呼んでも良いし、経済用語がむずかしい方には 「 たなからボタモチ 」 と言ったほうが分かりやすいだろう。

 ウォルトディズニーは、芸術をビジネスに持ち込むことで、アメリカ経済のあちこちに 「 たなからボタモチ 」 を降らせたのである!

 「 白雪姫 」 でヒロインが衣服を洗濯する長いシーンがあったとき、石鹸の販売業者は大喜びし、業界紙 「 ソープ 」 は、 "ウォルトディズニー、映画に石鹸を持ち込む " と題した記事を掲載した。

 白雪姫が登場するまでは、衛生はおそらく二の次だったのだろう。

 エコノミストはまた、「 負の外部効果 」 にも注目する。いうなれば、「 風評被害 」 である。

 たとえば、クルーズ業界は 「 ポセイドンアドベンチャー 」 のような映画が客離れを招くのではないかと心配するのだ。

 もちろん最近は、ハリウッドは 「 プロダクト・プレイスメント 」 を販売することで、ただ乗りを一掃しようとしている。トム・クルーズの映画にコカコーラの缶が出てきたら、コカコーラ社がそれなりの対価を払っていると思って間違いないだろう。

 こうした契約は、今日ではかなり早い段階から結ばれる。クリエイティブ・アーティスツ・エージェンシー ( ビバリーヒルズで最も有名なタレント事務所 ) の映画台本アナリストたちは、何本もの台本に目を通して、どの台本がプロダクト・プレイスメントに最も向いているか検討しているのである。

                   ( つづく )
                   ( 引用 : 『 伝説の経営者たち 』 )





 
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2011年06月18日

伝説の経営者たち ( 9 ) ウォルト・ディズニー

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 芸術とカネの関係

 1920年代に 「 ベイビー・ルース 」 というキャンディーバーが登場したのに続いて、 「 ウサギのオズワルド 」 というキャンディーバーも登場した。

 また、 「 蒸気船ウィリー 」 の制作資金を集めるために、ディズニー社はミッキーの顔を鉛筆に使用させるライセンス契約を結んでいた。

 「 ミッキーマウスクラブ 」 のアイデアはヲルトが生み出したわけではなかったが、彼は1930年代初めにこれらのクラブを熱心に応援し、ニュースレターを発行したり、バッジや筆箱やテーマソングを提供したりした。50万人の子供たちがこのクラブに入った。

 それに加えて、キャラクター商品があった。ディズニーグッズはまさにゆりかごから墓場までで、世界各地の100社以上のメーカーが、ベビーグッズ、石鹸、杖までも作っていた。

 ディズニー社が受けとるロイヤリティは、0.5%から10%まで、商品によりかなり差があったが、売上は1億ドルに達し、ディズニー社がキャラクター商品をきちんと管理するのは半端な作業ではなかった。

 ミッキー・アイスクリームコーンなどは、発売からわずか1ヶ月で何百万個も売れた。

 もちろん最大のヒットはディズニー・グッズの象徴とも言えるミッキーマウス腕時計で、この商品は世界大恐慌の時代だったにもかかわらず爆発的な売れ行きを示した。

 1930年代後半には、ドナルドダックがミッキーの人気を追い越しはじめた。おそらく彼の怒りっぽくて無愛想な性格が、当時のアメリカの閉塞感にちょうどマッチしたのだろう。

 いずれにしても、ドナルドダックが腕時計やポップコーンやオレンジジュースに登場するようになった。

 ウォルトディズニーは、こうして芸術をカネに変えるすべを開発していった。

 ウォルトディズニーのイノベーション ( = 革新 ) は、スクリーンに登場するキャラクターの商品利用だけではなかった。

 ビジネス界にスピードの重要性を教えたことも、彼の手柄と言わねばならない。

 他の企業がすでに人気者になったキャラクターを使っておもちゃを作っていたのに対し、ウォルトはもっと早く、キャラクターが映画館のスクリーンに登場する前に、おもちゃやグッズ、文房具を商品に売り出した。

 「 白雪姫 」 や「 ピノキオ 」 が封切られる前に、アメリカのデパート、メイシーズでは、 「 白雪姫で遊ぼう ! 」 とか、 「 ドーピー人形のお皿でピーナッツバターサンドを食べよう! 」 といった子供向けの広告で新聞を埋め尽くした。

 ディズニーのスピード力がいかに凄いかを知らしめてくれたのは、1995年に、娘がやっと言葉を発するようになった時だ。

 よちよち歩きで 「 ターゲット 」 のショップに入った娘が、まだ未公開の映画のポスターを見て、 「 あれ! ポカ・レディだ 」 とはっきり口にした時だ。

 キャラクター商品の責任者、ハーバート・ケイメンにスピードを重視させることで、ウォルトディズニーは売り上げを伸ばす一種のカンフル剤を産み出した。

 親がグッズを子供に買ってやることで、子供たちの映画への関心はさらに高まる。映画を見た後、親はもっと多くのグッズを子供に買うはめになる。

 結局はディズニーの金庫がうるおい、さらに素晴らしい映画を作ることが出来るわけだ。

 このサイクルは幅広いプレーヤーを巻き込むことに成功したので、芸術とカネの関係を、革命的に進化させた。

           ( つづく )

 ( 引用 『 伝説の経営者たち 』 )





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2011年06月11日

伝説の経営者たち ( 8 ) ウォルト・ディズニー

 やっと帰宅しましたよ!
 と言っても飲み会ではありません。仕事で終電帰りでした。。。

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 1930年代から1940年代初めにかけて、ヲルトは芸術面でも財務面でもレパートリーを拡大した。スタッフの数をさらに増やし、カリフォルニア州バーバンクに300万ドルの広大なスタジオを建て、株式を公開したのである。

 ヤンキー・スタジアムが 「 ルースの建てた家 」 と呼ばれていたのに対し、ウォルトディズニーはバーバンクを 「 白雪姫の建てた家 」 と呼んだ。

 だが、ウォルトの頭に中には白雪姫の二番煎じを作るつもりなど毛頭なく、シリーズ化に興味はなかった。

 彼の映画はどれもみなあの独特の 「 ディズニー・タッチ 」 を備えてはいるが、どれ一つとして同じつくり方をされていない。それぞれが予算規模も違えば、資金調達の仕方も違っていた。

 複雑なシーン ( イタリアの小さな町やクジラの口の中など ) の多い 『 ピノキオ 』 に巨額のカネをつぎ込んだあとは、規模を縮小する必要があることを彼は承知していた。

 そのため 『 ダンボ 』 は、もっとつつましい地味なストーリーにした。この作品は記録的な速さで完成し、早々に利益をもたらした。

 長編の合間には、ミッキーとその仲間たちを配した短編も数多く制作された。短編は一本約5万ドルのコストで、たいていその二倍以上の売り上げをもたらした。

 常に現実的でカネに厳しい弟のロイ・ディズニーは、リスクの高い映画よりこういったクイックヒットを好んだ。

  ビジネスの革命 !!

 ウォルトディズニーの映画は第一級のイノベーションだったが、彼は自分にシェークスピアやピカソのような天才的な創造の才があると錯覚してはいなかった。

 長編映画にはスタジオを倒産させるリスクが必ず伴うので、金儲けにも力を入れなければならないということを彼はよく承知していた。

 そうしなければ、この入れ替わりの激しい業界からあっという間にはじき出されてしまう。そのため、彼は創造性と資金の理想的な関係を作り上げた。

 世間知らずの大学の先生たちは、芸術家は金銭的関心とは無縁の純粋で創造的な人種であると、世間知らずの学生たちに何世代にわたって思い込ませてきた。

 芸術家は人間の状況を見抜く独特の洞察力を備えており、無神経なビジネスによってスポイルされてはならない存在だと、教授たちは教えている。

 だが、それがたわごとであることは、歴史がはっきり示している。シェークスピアはドラマチックなストーリーと扇情的な掛けことばで大衆を惹きつける芝居で、グローブ座を満席にした。

 ピカソは自分の作品の価値を知り尽くしていて、自動車ディーラーのショールームでスケッチを走り書きし、それで車を買ったと言われている。

 連れの人間が 「 二分の走り書きで車を手に入れて良心がとがめないか。 」
と聞くと、ピカソは 「 あの二分のために60年かかった。 」 と答えた。

 社会主義者だったジョージ・バーナード・ショーでさえ、ハリウッド映画の脚本をしたときは、カネの重要さを分かっていた。彼はプロデューサーのサム・ゴールドウィンにこう言った。

 「 ゴールドウィンさん、問題はあなたが芸術にしか興味がなく、私がカネにしか興味がないことです。 」

 ウォルトディズニーは、果たして芸術とビジネスのギャップをどのようにして埋めていったのだろうか?

                ( つづく ) 

                ( 引用: 『 伝説の経営者たち 』 )







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2011年06月09日

伝説の経営者たち ( 7 ) ウォルト・ディズニー

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 試写会で初めて 「 白雪姫 」 を見たとき、弟のロイ・ディズニーは、コメント用紙に匿名で 
 「 ウォルト、短編に専念してくれ! 」 と書いた。

 もちろんウォルト・ディズニーは耳を貸さなかった。ウォルトディズニーの妻のリリアンでさえ、この危険なコースから撤退すべきだと彼に忠告した。

 予算が膨大な額に膨れ上がるなか、ウォルトは最終的には自宅を抵当に入れて資金をひねり出した。

 ハリウッドの誰もが 「 ディズニーの愚行 」 と呼んでいたこの作品に投じた金を、ウォルトディズニーはどうやって回収すれば良いのか ?

 「 すばらしい作品にすること 」 それしか方法はなかった。

 彼は 「 白雪姫 」 の一コマ一コマに細心の注意を払い、当時の技術の限界を押し広げた。
 
 ハリウッドの誰もが 「 ディズニーの愚行 」 

 と呼んだが、ときには旧式の技術に頼らざるをえないこともあった。初期の試写で、ウォルトは白雪姫の顔色が青白すぎると判断して、トレース・彩色部門のスタッフに修正を指示した。

 コンピューターによる微調整が可能になる50年前のことだ。今日では、ウォルトディズニーは
アイコンをクリックするだけで青白い顔のお姫さまをたちどころに日に焼けたお姫様に変えられるが、当時はそうはいかない。

 トレース・彩色部門の女性たちは、旧式のテクノロジー、すなわち自分の化粧ポーチの中の口紅に頼った。

 すべてのセル画の白雪姫の頬に慎重に口紅を塗り、それを辛抱強くぼかしていったのである。

 「 白雪姫 」 がハリウッドで封切られた時には、ケーリー・グラント、チャーリー・チャップリン、ジャック・ベニーなど、大勢の一流スターが、レッド・カーペットの上を歩いてこの映画を見にやってきた。

 その一方で、ディズニーの財務状態はレッド・カーペットよりさらに赤かった。観客はこの映画をどの程度気に入ってくれるだろうか。

 ウォルトディズニーのその不安は、最後のシーンで完全に吹き飛ばされた。

 白雪姫が棺の中に横たわり、死んでしまったかのように眠っている。ウォルトの耳に鼻をすする音が聞こえてきた。

 観客は泣いていたのである。ウォルトディズニーにとって、それはこの世で最も嬉しい音だった。
皮肉屋でひねくれ者のハリウッドの観客が、ストーリーに深く引き込まれ、アニメのおとぎ話に感動していたのである。

 「 白雪姫 」 は観客を虜にし、現在の金額で6億ドル近い興業収入を上げて映画産業のあらゆる記録を塗り替えた。

 この映画は現在もなお、史上最高の興業収入をあげたアニメ作品である。

 この映画のカラーアニメーション技術は広く称賛され、1938年にはメトロポリタン美術館が水彩原画を展示したほどだった。

 この映画の何十万枚ものセル画は、オークションでたいてい一枚5000ドル以上 ( 約40万円 ) の値がついている。

 1939年、ウォルトディズニーは「 白雪姫 」 でアカデミー賞特別賞を受賞し、子役スターのシャーリー・テンプルからオスカー像を手渡された。

 普通サイズの像に7つの小さな像がついた特別のオスカー像だった。

 「 白雪姫 」 がもたらした勢いと資金でディズニー・スタジオは1940年代に突入し、やがて 「 ピノキオ 」 「 ダンボ 」 「 バンビ 」 で再び驚異的な興業収入を上げることになる。

                      ( つづく )


 

       
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2011年05月15日

伝説の経営者たち ( 6 ) ウォルト・ディズニー

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 配給業者が巨額の小切手をヒラヒラさせながらウォルト・ディズニーを追いかけ回すようになったが、ウォルトは独立を保つことを選んだ。

 だが、シネフォンのパットハワーズとは長期の契約を結び、パワーズが売上の10パーセントの手数料でミッキー映画の配給を行い、ウォルトディズニーは新しいトーキー作品の音入れに利用料を払ってシネフォン・システムを使うことになった。

 ミッキーマウスに対する権利はすべてウォルトが保持していたものの、新しいミッ キー映画が封切られるたびに、パワーズからの売上金の送金がしだいに遅くなり、額も減ってきたにウォルトは気づいた。

 この金銭的混乱を回避するため、1929年末、ロイ・ディズニーがニューヨークに出向いたが、その報告は芳しくなかった。
 「 パワーズという男はぺてん師だ」 とロイは断定した。

 ウォルト・ディズニーは最初はパワーズを擁護したものの、自らニューヨークに出向いてパワーズと直接話し合うと、彼の不安は的中した。パワーズはクーデターを計画していたのである。

 パワーズはまず、アブ・アイワークスを引き抜いて彼に独立したスタジオを持たせ、ディズニーと競争させると宣言した。アイワークスこそがディズニー・スタジオを支える本当の天才で、ウォルト・ディズニーはお飾りにすぎないとパワーズは思っていたのである。

 ショックを受けたウォルトに、パワーズはディズニー・スタジオを買収して、ウォルト・ディズニーを高額の週給で迎えるという案を持ちかけた。

 ミンツのときの記憶が頭の中を駆け巡り、ウォルト・ディズニーはパワーズの提案を蹴って、怒りに震えながらその場を後にした。どれほど気前のいい条件を出されても、どれほど悪辣な脅しをかけられても、彼はミッキーマウスを他人に譲り渡すつもりはなかった。

 ちなみに、アイワークスはパワーズと組むために、ディズニー・スタジオの20%の所有権を手放した。その20%を持っていれば、1936年に消滅したアイワークス・スタジオの株式より何十億ドルも大きな富をもたらしていたかもしれないのに。

 ウォルトディズニーはスタジオに戻って、新たにアニメーターを採用し、善人が悪の世界に呑みこまれる架空の物語の制作に取りかかった。ウォルトにとって、映画産業のやり手たちとの出会いは、彼の次の大勝利 − 『 白雪姫 』 にインスピレーションを与えてくれたのかもしれない。

 ミズーリ州の小さな農場で育ったウォルトディズニーにとっては、プロデューサーや配給業者や出資者と交渉するときには、いつも魔女に狙われる白雪姫のような気分だったに違いない。

 短編が次々に成功をおさめていた中で、ウォルトはなぜわざわざ長編アニメを作ろうと思ったのか?

 それは第一に、彼は野心家で、大物映画製作者たちの尊敬を勝ち取りたいと願っていた。第二に、素朴で飾らない性格にも拘わらず、彼は抜け目のない経営者だったからだ。

 当時、映画館は長編映画の二本立てに移行しつつあり、短編映画は出番が減ってきていた。また、ミッキーマウスは途方もない人気を誇っていたが、ポパイや猫のフィリックスなど、ライバルも出てきていた。

 だが、長編映画を制作できれば、ディズニーが劇場を支配することも出来るだろう。これは新たに何百人ものアニメーターを必要とする巨大でリスクの高い賭けだった。

 何百人ものスタッフがスタジオを動き回り、予算は当初予定していた25万ドルから150万ドルに膨れ上がった。債権者たちは気を揉みはじめ、倹約家の兄、ロイ・ディズニーは日ごとに不安を募らせた。

                 ( つづく ) 引用 『 伝説の経営者たち 』 
                      
 





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2011年05月07日

伝説の経営者たち (5) ウォルト・ディズニー

 【 エンターテインメントビジネスで第一級のイノベーションを誇るウォルト・ディズニー。ディズニーランドや映画で多くの人々を惹きつけ、大きな経済を作ったディズニーの思考とノウハウをここに公開します。 】

 ミッキーマウスはうさぎのオズワルドにそっくりだった。だが、彼はミッキーをオズワルドのそっくりさんで終わらせるつもりはなかった。ミンツとその仲間たちの手でこれからもオズワルド映画が作られるはずだから、ミッキーはオズワルドを超える存在にしなければならない。

 これからは2つのキャラクターのガチンコ対決になるはずだ。まさにこの時、ウォルト・ディズニーはその非凡な才能を発揮し、マーケティングの実務と経済に永続的な貢献をなすことになる。

 ほとんどの漫画家がまずキャラクターを描き、それから観客がおもしろいと思ってくれるよう祈るのに対し、ウォルトディズニーはまず観客を分析し、それから観客のニーズに応えるキャラクターを描いたのである。 

 選挙の専門家が 「 フォーカスグループ 」 を使って候補者の評価分析を行うはるか昔に、ウォルトディズニーはミッキーマウスをフォーカスグループのところに連れて行った。

 ミッキーの冒険談の試写用プリントをロサンゼルス郊外のグレンデイルの劇場で上映してもらい、後ろの座席に座って観客の反応をメモしたのである。

 ユング派の精神分析派のように、ウォルトディズニーはミッキーマウスが普遍的なシンボルになれることを、すべての疲れた人間にとって最後のよりどころとなる、子供のおもちゃのような存在となることを理解し、目指していたのである。

 ちなみにこれは、カール・ユングが 『 元型と集合的無意識 』 を書く数年前のことである。

 ディズニーのストーリー部門は、やがて自社のスター軍団の真剣かつ詳細なキャラクター分析を行うようになる。たとえば、ドナルドダックは ” 見栄っ張りで、気どり屋で、自慢したがり。。。勝ち目がなくても絶対に後には退かない。 』 という風に。

 顧客とのつながりを深めるために、他に何をすれば良いだろう。時代の精神を持ち込む必要があった。ミッキーは時計もカレンダーもない漠然とした世界に生きる存在であってはならない。

 ビクトリア時代のような堅苦しいマナーは捨てて、人前でガールフレンドにキスをする。 『 交通トラブル 』 では、車の中で恋人に愛をささやく。ミッキーをジャズエイジのチアリーダーにするのだ。彼の衣服はネズミにしては高級で、あたかも成り上がりの青年実業家のようだった。

 ウォルト・ディズニーは、ミッキーをすぐに消え去る存在にすることなく、画面に時代の息吹を持ち込む方法を考え出した。チャールズ・リンドバーグの大西洋横断飛行がアメリカ人の心をとらえたら、 ミッキーは 『 プレーン・クレイジー ( 飛行機狂 ) 』 で飛行機を操縦する。

 大恐慌でアメリカ経済が疲弊し、人々が映画のチケットを買うのも難しくなると、ミッキーマウスはもちろん庶民の側に立つ。

 『 ムービング・デイ ( 引越しの日 ) 』 と題された映画では、ミッキーは家賃が払えないから家具をよこせという乱暴な取り立て屋に立ち向かう。

 『 ゴールデンタッチ 』 では、触れるものすべてがハンバーガーに変わる。ミッキーに時代を超える魅力があるとしても、それでも観客は時代とのつながりを感じる必要があった。ミッキーは観客と同じ時代にいなければならなかったのだ。

 時代を超越し、それでいて今という時代を感じさせるというのは、稀にみる素晴らしい才能だ。ウォルトディズニーはロナルド・レーガン元大統領と同じく、アメリカ人のなつかしい記憶を掻きたてながら、それを使って今日の人々を奮い立たせる才能を持っていたのである。

 映画が初めて全米を席巻しはじめたとき、ウッドロー・ウィルソン大統領は、映画技術は 「 稲妻で歴史を書く 」 ようなものだと言った。1927年に 『 ジャズ・シンガー 』 が封切られ、トーキー映画が誕生すると、それはあらゆる種類の問題を生み出した。

 とりわけ、たくましい主演男性が舌足らずだったり、ドイツ訛りがあったり、かよわい女性のような、なよなよした高い声を持っていたりした場合には、問題は深刻だった。

 ウォルト・ディズニーは競争相手より技術面で少なくとも一歩先にいかなければならないと強く感じていた。ミッキーはしゃべらなくてはいけない。これは疑問の余地のないことだった。オズワルドが先にしゃべったら、悲惨なことになる。

 ウォルトディズニーは進んで自らミッキーの声をやることにした。ところが、一つだけ問題があった。まもなく封切予定のミッキー作品 『 蒸気船ウィリー 』 は、すでにサイレント映画として完成していたのである。

 ウォルトは待ったをかけて、約2000コマの映画に音を入れられる会社を探し歩いた。最終的には、ニューヨークのパット・パワーズという男と契約して、彼の会社のシネフォンというサウンドシステムを使うことにした。

 サイレント映画の 『 蒸気船ウィリー 』 は3000ドルで配給会社に売るつもりだったが、音を入れるためにはその何倍ものカネを投じる必要があり、ウォルトは何度も演奏や吹き込みをやり直させ、約1万5000ドルを投じてやっと作品を完成させた。

 1928年11月28日、 『 蒸気船ウィリー 』 がニューヨークのコロニー劇場で封切られると、観客は大きくどよめいた。熱烈なディズニーファンは、いまなおこの日をミッキーの誕生日とみなしている。

 それから数年にわたり、ミッキーマニアはアメリカ全土を席巻することになる。ミッキー映画が次々と封切られ、フランクリン・ルーズベルトからムッソリーニまで、世界中のファンがミッキーの動きを絶賛した。

 イタリアでは彼は 『 トポリーノ 』 と呼ばれ、スウェーデンでは 『 ムッセ・ピグ 』、スペインでは 『 ラトン・ミゲリート 』 と呼ばれた。

                      ( つづく )

 ( 引用: 『 伝説の経営者たち 』 )

 




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2011年05月02日

伝説の経営者たち (4) ウォルト・ディズニー

 新しく連載をはじめました。 「 伝説の経営者たち 」 は、徒手空拳で創造力とバイタリティを武器に企業を創り上げた伝説の人物の生涯を報じます。

 ウォルト・ディズニーの第4話です。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 どうしてそう言えるのか?

 ウォルト・ディズニーはもちろん、大変な野心家だったが、上司を持つことを拒否するわがままなエゴイストだったから 「 ディズニー 」 の看板を上げたのではなく、映画づくりの仕事に雇ってくれる者が誰もいなかったから、やむ無く自分で看板を上げたに過ぎないのだ。

 1923年に叔父のロバートから500ドル借りてディズニー・ブラザーズ・スタジオを始めたのは、仕事を求めて大手のスタジオを回ったけれど、どこも雇ってくれなかったからだった。

 自分とオズワルドに対するミンツの仕打ちから、ウォルトディズニーは終生指針とするモットーを打ち立てる。

 1. 自社の独立を保つこと。
 2. 自分が独自に生み出したものに対する権利を絶対に手放さないこと。

 である。

 以後のキャリアのさまざまな折に、ウォルトディズニーは自分の自由を保持し続けるためには喜んで報酬の引き下げを受け入れた。手っ取り早く金持ちになろうとは、決して思わなかった。

 ミンツのオフィスを出た瞬間から、彼は会社から金を引き出すタイプの人間ではなく、会社を築く人間になったのだ。

 これ以後、彼はこれまで以上に固い決意をもって、自分の事業と自分の名声を築き直そうとする。

 うさぎのオズワルドの略奪から生まれたものはもう一つあった。ミッキーマウスである。オズワルドを略奪された彼には、新しいキャラクターが必要だった。

 自分のスタジオのセル画に登場する動物を片っ端から思い浮かべた。ウサギ、ヒヨコ、アヒル、牡牛。ディズニー伝説によると、彼は列車の中で、机の上を小さなネズミが走り回っていたカンザスシティのオフィスを思い出した。

 普通の人と違ってウォルトディズニーはネズミと一緒に暮らすのがまったく苦にならなかったらしく、むしろ楽しんでいるようにすら見えた。

 ディズニーは列車の中でスケッチを始め、頭、耳、ふっくらとした身体と書き上げていって、色を加えた。最初はモーティマーという名前を考えたが、その名前は固くるし過ぎるという妻、リリアンの意見に従って、ミッキーとした。

                   ( つづく )

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2011年05月01日

伝説の経営者たち (3) ウォルト・ディズニー

 新しく連載をはじめました。 「 伝説の経営者たち 」 は、徒手空拳で創造力とバイタリティを武器に企業を創り上げた伝説の人物の生涯を報じます。

 ウォルト・ディズニーの第3話です。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 ウォルトディズニーは居候先の叔父から500ドル借り、兄の病院にかけつけて、現実的なものの見方ができる兄に、自分がすでにディズニー・ブラザーズ・スタジオと名付けていた会社に参加してくれと頼んだ。

 二人は500ドルで小さなオフィス・スペースを借り、カメラを買って、週休15ドルで2人の女性スタッフを雇った。カネはないが、野心だけはあふれんばかりのディズニー兄弟だった。

 「 作業用のテーブルが必要だって? カンや箱を積んでテーブルにしよう。腹が減ったって? 豆のカンを開けよう。テーブルが傾くけど、しばらくはしょうがないよ。 」 

 ロイとウォルトはもともと痩せ型だったが、彼らの予算がそれに輪をかけた。彼らは夜遅くまで働いて、月に一本のペースでアリスの映画を生み出した。

 乏しい資金を長持ちさせようと、安い一部屋のアパートで共同生活をした。贅沢をしたくなった時は、近くのカフェテリアに行って肉と野菜を一皿ずつ頼み、二人で分け合って食べたものだった。

 「 食事をつくるのも、食べるのも、寝るのもその一部屋だった。風呂に行くには1マイルほど歩かねばならなかった。 」 と、ウォルトディズニーは回想している。

 「 それでも、振り返ってみると、あのころは実に楽しかった。 」 
女性スタッフがその時代をさらにすばらしいものにしてくれた。

 その娘、リリアン・マリー・バウンズは、金銭についても効率的で、ディズニー兄弟が支払いに困っているときは、自分の給与小切手の現金化をしばらく待って、会社の台所事情を助けてくれた。ウォルトディズニーはこの有能で思いやりのある女性と恋に落ち、二年後に結婚した。

 アリスの映画を6本撮った後、人手をさらに5人増やすと、アリスの物語はまるで組立ラインを流れていくかのように、どんどん生み出されていった。

 1926年には、ディズニー・ブラザーズ・スタジオはアリス・シリーズを26本送りだしており、ハイぺリオン・アベニューに新しいスタジオを建てるまでになっていた。

 ウサギの登場と没落 

 すべては一匹のネズミからではなく、一匹のウサギと激怒から始まったのだ。
1927年、客がアリス・シリーズに飽き始めたことに気づいた配給業者のマーガレット・ウィンクラ―とチャールズ・ミンツが、ウォルトディズニーに新しいキャラクターを創り出すよう促した。

 ウォルトは、 「 しあわせウサギのオズワルド 」 という快活で自信満々の主演 「 俳優 」 を生み出した。オズワルド・シリーズの一本では、いたずら好きのオズワルドが乳牛の乳首を蛇口に変えてしまう。

 別の一本では、オズワルドは、ウサギは子供をたくさん産みすぎるという評判に対処しなくてはならなかった。コウノトリがオズワルドの上に何度も何度も舞い降りてきて、そのたびに赤ん坊を落としていくのである。

 これらの作品は観客をおおいに沸かせ、スタジオに豊かなキャッシュフローをもたらした。1920年代末には、オズワルド・シリーズはすっかり有名になった。

 懐が豊かになっており、オズワルドに負けないほど自信をつけたウォルトディズニーは、ミンツに製作費の値上げを要求するために妻をつれてニューヨークにおもむいた。

 ところが、ミンツはこの要求をはねつけただけでなく、逆に20%引き下げると脅しをかけてきた。ウォルトは唖然としながらも、最初はタカをくくっていた。この交渉で相手のミンツにはどんな力があろう? つまるところ彼は配給業者にすぎないのだ。

 だが、すぐに二発目のパンチが飛んできた。ディズニー・スタジオの最も優秀なアニメーターの何人かがすでに自分と契約を済ませていると、ミンツは断言したのである。彼はアニメーターを引き抜いたのである。その中には、カンザスシティ時代からの仲間もいた。

 ウォルトが息を呑んだとき、最後のパンチが襲って来た。ミンツによれば、ウォルトディズニーはユニバーサル・スタジオに権利を譲り渡すという契約書に、それと気づかないままサインしていたのである。つまり、彼もがいつでも解雇される単なる従業員にすぎなかったのだ。

 ウォルトは第1次世界大戦後のヨーロッパの荒廃を目のあたりにしていたし、農場経営の失敗による貧しさやラフォグラム社の倒産を経験していた。だが、ミンツのオフィスで直面した正真正銘のペテンや知的財産の略奪に対しては、心の準備ができていなかった。

 ウォルトはミンツの仕打ちにあまりにもひどく打ちのめされたので、相棒のロイに真実を隠そうとした。列車で西海岸への長い帰途につく前に、彼はロイに電報を打った。

 「 今夜発って、カンザスシティに寄り、日曜朝7時半に着く。心配無用。すべては順調。詳細は到着後。ウォルト 」

 ウォルトディズニーの怒りはもっともであったが、ミンツがナイフをつきつけ、オズワルドを盗んだことがウォルトディズニーの今日をつくったのであろう。

 彼が求めていたつつましい値上げが認められていたら、そしてもっといいカメラを使って技術を高めたいというウォルトの希望をミンツとユニバーサル・スタジオが受け入れていたら、ウォルト・ディズニーは巨額の報酬を得る華やかなスタジオ経営者にはなっていたかもしれないが、ウォルト・ディズニー・スタジオも、ディズニーランドも、今日の時価総額720億ドルの巨大コングロマリットも存在しなかっただろう。

                            ( つづく )

 
               ( 引用: 伝説の経営者たち )


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2011年04月30日

伝説の経営者たち (2) ウォルト・ディズニー 

 新しく連載をはじめました。 「 伝説の経営者たち 」 は、徒手空拳で創造力とバイタリティを武器に企業を創り上げた伝説の人物の生涯を報じます。
ウォルト・ディズニーの第2話をお贈りします。第1話は、記事の下にあります。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 ラフォグラム・フィルムズを設立したウォルト・ディズニーは、二つの原則をつくる。

 第一に、彼は他人に使われる身分にはなりたくはなかった。父と軍の将校に仕えてきて、これ以上ボンクラな上司の命令に従いたくはなかった。

 第二に、ウォルトディズニーは現行の技術を越えたいと思っていた。1920年初めには、紙に描いた粗雑な人形の絵を切り抜き、その手足を切り離してピンで留め、それを少しずつ動かしながらコマ撮りしていくという方法で、一分間のアニメーション広告映画が作られていた。

 ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがガレージで起業する半世紀前に、ウォルト・ディズニーはストップアクション・カメラをガレージに持ち込んで、もっと高度な絵で実験を始めた。

 結果は素晴らしかった。

 観客は彼らに関心を持ち始めた。1922年には、ウォルトディズニーはきわめて現代的な6分間の
『 赤づきん 』 を制作した。この映画の中では、おばあさんは映画を見に行くし、赤づきんを助けるのは飛行機のパイロットだ。おまけに狼は、博物館のはく製のような姿はしていない。日本足で立ち、シルクハットと燕尾服を身に付けているのである!

 カンザスシティのニューマン劇場の支援を得て、地元の投資家から1万5000ドルの資金を集め、若くて才能があり、エネルギーに満ちたイラストレーターをさらに数人雇った。
 金銭的には綱渡りのような日々だったが、この間にもウォルトディズニーは驚くべき画期的なアイデアを思い付いた。

 アニメーションの中に人間の俳優を誕生させるというアイデアである。

 1923年、ラフォグラム社は、 『 アリスの不思議の国 』 を制作する。この映画は、六歳の子役の女の子がディズニーやイヴェルクスに漫画を描いてくれとせがみ、やがて彼女自身がお話の中に飛び込んで、猫の楽隊の演奏に合わせてダンスするという構成になっている。

 ウォルト・ディズニーのイノベーションがまさに発揮されているのである。

 これにより、ディズニーのラフォグラム社は笑いと称賛を勝ち取った。勝ち取れなかったのは、給与や家賃を払えるだけの金だった。

 若いアニメーターたちは解散し、会社も解散を余儀なくされ、一文無しになったウォルトディズニーは、列車の時刻表と地図を眺めはじめた。それまでの数年間で、彼はドイツとフランスとシカゴに行っていた。一文無しの彼が目指したのは、アメリカ西海岸のハリウッドだった。

 ところが切符を買う金が無い。未来のプロデューサーが無賃乗車をするわけにはいかない。ウォルトディズニーはカンザスシティを歩き回って、赤ん坊を動画フィルムに収め、誇らしげな親たちにそのフィルムを売り付けた。

 片道切符を買えるだけの金がたまると、彼はアッチソン・トピカ・サンタフェ鉄道に飛び乗った。
ロサンゼルスのユニオンステーションに降り立ったとき、ウォルト・ディズニーにはカネも仕事もなく、頼れるものは漫画のアイデアでいっぱいの頭だけだった。

 さて、ハリウッドはそこで仕事をしようとする人間には冷酷さをむき出しにすることで知られている。ウッディ・アレンが言ったように、

 ”食うか食われるか ” よりもっとひどく、 「 電話してもなしのつぶて 」 の世界である。幸いなことにウォルトディズニーには、部屋代も取らずに居候させてくれる叔父がいた。

 ウォルトディズ二―が最初に得た仕事は、西部劇のエキストラだった。だが、砂漠で撮影されていたにもかかわらず、彼の出演シーンは雨で流れ、その後別のエキストラを使って撮影された。

 「 それが私の俳優としてのキャリアの終わりだった。 」 と彼は後に語っている。

 ” どうすれば自分の 「 才能 」 を仕事に変えることができるだろう? ” 
 
 真剣に考えたウォルトディズニーは、自分の想像力を生かして、すでに仕事を持っている引く手あまたの優秀な人材として、自分を売り込むことにした。

 大物経営者として振る舞うのにまず必要なものは何だろう?
文房具と名刺である。派手なレターペーパーは、ウォルトディズニーのような漫画家にとっては決して邪魔にならない。

 彼はオリンポスの神か、でなければ大監督のセシル・B・デミルが書いたかのような自信満々の手紙をニューヨークの配給業者に送りつけた。自分は

 「 これまでに無い新しい漫画映画シリーズ 」 を制作するため、ロサンゼルスに新しいスタジオを開こうとしている。 と宣言し、さらに、 「 精選した 」 スタッフも引き連れていると云い添えた。

 この手紙は、 「 精選した 」 スタッフの数が 「 ゼロ 」 であることをわざわざ明かしてはいなかった。だが、それが功を奏して、アリスの映画を6本つくってくれという注文が舞い込んだのだ。

 スタジオを構えていると嘘をついて注文を受けたので、本物のスタジオを早急に作らなければならなかった。

                         ( つづく )

               ( 引用: 伝説の経営者たち )



 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 【 第一話 】

 ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがIT産業で脚光を浴びるより50年も前から、ウォルト・ディズニーはアメリカに夢の産業を立ち上げた。 「 ミッキーマウス 」 や 「 ディズニーランド 」、 「 眠れる森の美女 」 などで知られるこの会社だが、ウォルトディズニー自身はそのような安定した家の出ではなかったし、学歴も無い。

 彼の父、イライアスは、一つの仕事に腰を落ち着けることはできず、説教師、建設労働者、大工、郵便配達人などの職を転々とし、農業にも手を出して失敗していた。

 しかし、子供に対しては、厳しく目を光らせる厳格な父親で、倹約を尊び、ののしり言葉を嫌った。
ウォルトディズニーは幼い頃からスケッチや演技に夢中で、どんな舞台にも上がりたがる目立ちたがり屋だった。

 厳格な育てられ方をしたにも拘らず、ウォルトディズニーは愛情深い男に成長し、人の肩に腕を回して親愛の情を注ぐことがよくあった。上司としては厳しく、ときに気難しいこともあったが、素朴で飾らない人柄は終生変わらなかった。

 ウォルトディズニーは1917年、初めて仕事に就く。サンタフェ鉄道の社内でピーナッツやポップコーン、クラッカージャックを売り歩く仕事に就く。目立ちたがり屋のウォルトは、派手な金ボタンの青い制服を着るのがうれしくてたまらなかった。

 鉄道マニアとなったウォルトは、その後経営者となった1940年代には自宅の裏庭にこもって総延長400メートルのミニチュア鉄道を組み立てる。

 やがて16歳になったウォルトは、郵便局の面接を受けたのだが、16歳の割にはやせていて、14歳くらいにしか見られなかったため、不採用になった。変装の名人の彼は、衣装と帽子を変えて、あらためて面接に出掛けた。

 履歴書には10歳サバを読んで26歳と書き、なんと前回彼を不採用にした同じ面接官から仕事をもらったのだ。

 だが、列車に乗ることも、郵便配達人として町を駆け回ることも、若いウォルトディズニーには物足りなかった。新聞はヨーロッパでの第一次世界大戦を大々的に報じており、兵士たちが背嚢をかついで
 ” Over there  ( はるか彼方 ) ” のヨーロッパに向かう船に続々と乗り込んでいた。

 ウォルトディズニーの3人の兄もすでに入隊していたが、ウォルトの前にはまたもや年齢の壁が立ちふさがった。彼は年齢制限のゆるいカナダ軍に志願することすら考えた。

 結局、いやがる母を無理やり説き伏せてサインをさせ、年齢を偽装して軍隊に入る。そしてフランスに赴き10ヶ月を過ごす。

 第一次世界大戦時の他の多くの兵士と異なり、ウォルトの場合は海外に派遣されたことでキャリアの前進を妨げることにはならなかった。彼は仲間の兵士の制服にもニセの勲章を描いて、彼らを 「 昇進 」 させてやった。

 ウォルトにとっては救護車も画用紙だった。殆どの車はくすんだ緑色だったが、そこにオリジナルの漫画のキャラクターをカラフルに描いた。

 さらに、彼とジョージア出身の友人は、奇抜な金儲けの方法を思いついた。彼らはドイツ軍のヘルメットを集めて、それに迷彩色を施し、石で叩いてボコボコにした。そして、抵抗の証として銃まで打ち込んで、ボロボロの 「 リアル 」 な戦場土産をつくったのである。

 ディズニーランドは金儲け主義に走りすぎていると批判する人たちは、ウォルト・ディズニーはそもそも世界大戦を金儲けの道具にしたのだということを思い出すべきだろう。

 戦争の廃墟の中で漫画家として稼ぐことができたのだから、アメリカに帰ったらすぐにそれで食べていけると、ウォルトディズニーは自信を持った。

 シカゴの家族のもとを離れてカンザスシティに行き、農業関係の商品を専門にする広告会社に就職した。

 しかしそこでの仕事は長く続かず、やがて数人の漫画家を誘って、アニメーション映画制作会社、ラフォグラム・フィルムズを設立する。


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2011年03月26日

伝説の経営者たち (1) ウォルト・ディズニー

 新しく連載記事をはじめます。 「 伝説の経営者たち 」 は、徒手空拳で創造力とバイタリティを武器に企業を創り上げた伝説の人物の生涯を報じます。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがIT産業で脚光を浴びるより50年も前から、ウォルト・ディズニーはアメリカに夢の産業を立ち上げた。 「 ミッキーマウス 」 や 「 ディズニーランド 」、 「 眠れる森の美女 」 などで知られるこの会社だが、ウォルトディズニー自身はそのような安定した家の出ではなかったし、学歴も無い。

 彼の父、イライアスは、一つの仕事に腰を落ち着けることはできず、説教師、建設労働者、大工、郵便配達人などの職を転々とし、農業にも手を出して失敗していた。

 しかし、子供に対しては、厳しく目を光らせる厳格な父親で、倹約を尊び、ののしり言葉を嫌った。
ウォルトディズニーは幼い頃からスケッチや演技に夢中で、どんな舞台にも上がりたがる目立ちたがり屋だった。

 厳格な育てられ方をしたにも拘らず、ウォルトディズニーは愛情深い男に成長し、人の肩に腕を回して親愛の情を注ぐことがよくあった。上司としては厳しく、ときに気難しいこともあったが、素朴で飾らない人柄は終生変わらなかった。

 ウォルトディズニーは1917年、初めて仕事に就く。サンタフェ鉄道の社内でピーナッツやポップコーン、クラッカージャックを売り歩く仕事に就く。目立ちたがり屋のウォルトは、派手な金ボタンの青い制服を着るのがうれしくてたまらなかった。

 鉄道マニアとなったウォルトは、その後経営者となった1940年代には自宅の裏庭にこもって総延長400メートルのミニチュア鉄道を組み立てる。

 やがて16歳になったウォルトは、郵便局の面接を受けたのだが、16歳の割にはやせていて、14歳くらいにしか見られなかったため、不採用になった。変装の名人の彼は、衣装と帽子を変えて、あらためて面接に出掛けた。

 履歴書には10歳サバを読んで26歳と書き、なんと前回彼を不採用にした同じ面接官から仕事をもらったのだ。

 だが、列車に乗ることも、郵便配達人として町を駆け回ることも、若いウォルトディズニーには物足りなかった。新聞はヨーロッパでの第一次世界大戦を大々的に報じており、兵士たちが背嚢をかついで
 ” Over there  ( はるか彼方 ) ” のヨーロッパに向かう船に続々と乗り込んでいた。

 ウォルトディズニーの3人の兄もすでに入隊していたが、ウォルトの前にはまたもや年齢の壁が立ちふさがった。彼は年齢制限のゆるいカナダ軍に志願することすら考えた。

 結局、いやがる母を無理やり説き伏せてサインをさせ、年齢を偽装して軍隊に入る。そしてフランスに赴き10ヶ月を過ごす。

 第一次世界大戦時の他の多くの兵士と異なり、ウォルトの場合は海外に派遣されたことでキャリアの前進を妨げることにはならなかった。彼は仲間の兵士の制服にもニセの勲章を描いて、彼らを 「 昇進 」 させてやった。

 ウォルトにとっては救護車も画用紙だった。殆どの車はくすんだ緑色だったが、そこにオリジナルの漫画のキャラクターをカラフルに描いた。

 さらに、彼とジョージア出身の友人は、奇抜な金儲けの方法を思いついた。彼らはドイツ軍のヘルメットを集めて、それに迷彩色を施し、石で叩いてボコボコにした。そして、抵抗の証として銃まで打ち込んで、ボロボロの 「 リアル 」 な戦場土産をつくったのである。

 ディズニーランドは金儲け主義に走りすぎていると批判する人たちは、ウォルト・ディズニーはそもそも世界大戦を金儲けの道具にしたのだということを思い出すべきだろう。

 戦争の廃墟の中で漫画家として稼ぐことができたのだから、アメリカに帰ったらすぐにそれで食べていけると、ウォルトディズニーは自信を持った。

 シカゴの家族のもとを離れてカンザスシティに行き、農業関係の商品を専門にする広告会社に就職した。

 しかしそこでの仕事は長く続かず、やがて数人の漫画家を誘って、アニメーション映画制作会社、ラフォグラム・フィルムズを設立する。

                 ( つづく )
                引用: 『 伝説の経営者たち 』

posted by ヒデキ at 16:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 伝説の経営者たち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする