2013年05月03日

 “私利私欲のために働いていたらこうはならない” 米マイクロソフトの最高経営責任者

マイクロソフトがなぜグーグルやアップルやIBMといった名だたる世界の名だたる強豪のひしめく業界で力を落とさずに成長しているかというと、経営陣の危機感の強さにあると樋口泰行氏(日本マイクロソフト社長)が述べています。

 世界長者番付のトップクラスに出てくる経営者の素描を紹介します。

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 これほどまでに成長を遂げてきたにもかかわらず、マイクロソフトでは今なお経営陣が危機感を持ち、変革に挑もうとしていることに驚いた。経営に加わって、その危機感がどのような形で経営に反映されているかを次々と目にして、私はさらに驚くことになる。

 創業者のビル・ゲイツは2009年まで、13年連続で世界の長者番付で1位を獲得していた。2010年にトップの座をメキシコのカルロス・スリム氏に譲るまで、世界一の富豪だったのである。

 ビル・ゲイツは、2008年6月にマイクロソフトの経営からは身を引いたが、それまでは第一線で仕事をしていた。私は日本HPの社長時代から面識があったが、世界一の財を得ながらも、エネルギッシュに仕事に没頭する姿には、やはり凄みを感じざるを得なかった。

 もし、私利私欲のために働いていたのならば、絶対にこうはできないだろう、ということである。何しろ、すでに世界一の大富豪なのだ。にもかかわらず、懸命に仕事をするのである。

 服装や食事にも無頓着だ。高価なものを身にまとっているわけでもないし、高級な料理を好むわけでもない。来日したときにも、仕事最優先でファーストフードのハンバーガーで食事を済ませていた。むしろ、それを好んでいる感じすらある。

 ビル・ゲイツにとって重要なのは、創業時の1975年に自ら作った、 “ すべての家庭とすべての机にパソコンを ” というビジョンの実現であり、ビジネスであり、ソフトウェアであり、テクノロジーであり、製品であった。

 彼の関心事は、今は世界レベルでのさまざまな問題の解決や社会貢献活動に移っている。お金を手にいれようが、社会的な地位を手に入れようが、軸はまったくブレていないのだ。

 そして現CEOのスティーブ・バルマーも、一時は世界の長者番付で4位にランクされたこともある富豪だが、まったくそんな素振りは見せない。ソフトウェアの可能性を信じ、製品を愛し、マイクロソフトが好きで、とにかく猛烈に働くのである。

 もし、地位や名誉や富を求めることが目的ならば、あれほどの奮闘ができるはずがない。そしてトップがそうだと、会社全体がそうなるのである。私利私欲のためでなく、世の中をよくするために働くという気持ちになるのだ。

 私はマイクロソフトに来て、本当にそう感じた。

 スティーブ・バルマーに関しては、彼が来日したときに、その仕事ぶりを間近で見た。朝からビッシリとスケジュールが入っていた。さすがに休憩を入れた方がいいのでは、と私も思えるほどの予定だったが、不満を漏らす気配すらない。

 どこに行っても、何をしていても、誰といても、不機嫌な様子を見せたり、イライラしたりすることは決してない。むしろ、すべて全力投球なのである。

 しかも、さまざまな業界について熟知している。たとえば、日本の証券会社のグローバル金融部門の方と一歩もひけを取らないディスカッションをして、その場にいる誰もが驚いたというエピソードもある。

 にもかかわらず、どこに行っても、誰に対しても、常に気配りをする。そして、ほんのわずかな時間を利用して、世界中から来るメールをチェックしている。経営者としての意識の高さ、見識の深さには、感服せざるを得ない。

 さらに、他の役員と同様、出張期間中に土日が挟まっていれば、少しは観光でもするところだが、マイクロソフトではそれはまずない。せっかくだから、美味しいディナーでも、ということもない。時間がもったいないと、会議室で弁当を食べながら、ミーティング等々をするのだ。

 高い社会的地位にいながら、「俺が誰かわかっているんだろうな。」 という雰囲気などまるでない。社員には、自ら積極的に話しかける。しかもバルマーに関しては、驚くべきは、過去に一緒に仕事をしたことがある社員は、顔と名前を覚えていることである。

 「 やあ、○○さん、元気? 」 と社員の名前を呼んで、声をかける。これはビル・ゲイツもそうだったようである。米国本社のトップから直接、名前を呼んでもらって、社員が感激しないはずがない。

 おそらく世界中で最もたくさんのマイクロソフト従業員の名前を知っているのは、かつてはビル・ゲイツであり、今はバルマーかもしれない。どんな従業員がいて、その名前も、仕事も、活躍も、トップは理解をしておかなければならないということなのである。

 ( 引用: 『マイクロソフトで学んだこと、マイクロソフトだからできること』 、樋口泰行 ) 

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2013年04月07日

伝説の経営者たち レイ・クロック 

 皆さんはご存じでしたか? マクドナルドの実質的な創業者は、マクドナルドさんではなく、52歳でペーパーカップのセールスマンから脱サラし、マクドナルドを世界的なチェーンに築き上げたレイ・クロックだという事実を。

 テッド・ターナーがCNN放送を設立したのは60歳過ぎですし、それを考えたら、私たち誰にとってもまだ人生の序章ですね。

 
" チャンスは逃すな "

「  人は誰でも、幸福になる資格があり、幸福をつかむかどうかは自分次第、これが私の信条だ。シンプルな哲学である。 」

そう考えているのは、私が誇り高きボヘミアの血をひいていることに加え、何よりもこの考え方が現実的だからだ。

  1920年代初め、妻と幼い娘を養うためにペーパーカップを売っては週に35ドルを稼ぎ、夜はアルバイトでピアノを弾いていた頃からいまに至るまで、この考え方は寸分も変わっていない。

巨万の富を築いたのも、 「チャンスを逃すな」 を信条にして、これまで生きてきた結果といえる。

 リリー・チューリップ・カンパニーで17年間、ペーパーカップの営業を続け、販売成績でトップに立ち、新たなる目標を模索していたとき、チャンスは 「マルチミキサー」 という、6つの回転軸を持つ機械となって現われた。

私はそのチャンスをつかみ取り、独立してマルチミキサーのセールスで生計を立てると決めたのである。

 安定した、収入の良い仕事を辞めて独立するのは、リスクの高い決断だった。妻はショックを受け、その事実をなかなか認めようとせず、しばらくはいさかいが絶えなかった。

 しかし、うまく軌道に乗りそうなことがわかるとようやく妻も落ち着き、私はマルチミキサーの営業に専念できるようなった。ドラッグストア、ソーダ・ファウンテン、デイリーバー ( 乳製品の小売店 ) など、営業活動は全国各地に及んだ。

 骨は折れるが、結果の出るところであり、悪くない仕事といえた。私はその仕事を続けながら、次なるビジネスチャンスを逃さないよう注意を払っていた。

 「 未熟であるうちは成長できる。成熟したとたん、腐敗が始まる。 」

 これは私の座右の名だ。カリフォルニアで、マルチミキサーが信じられないような事態を引き起こしていたとき、私はまだ青く未熟で、成長の可能性を秘めていた。

 信じられないような事態とは、カリフォルニアのある店で使用しているマルチミキサーと同じものが欲しいというオーダーが全米から殺到したのである。

 問い合わせのセリフは決まって同じだった。
「カリフォルニアのサンバーディーノでマクドナルド兄弟が使っているのと同じマルチミキサーを1台売ってくれよ。」

 マクドナルド兄弟とはいったい何者だろう? 調べてみて仰天した。マクドナルド兄弟は、マルチミキサーを1台、2台所有しているのではなく、なんと8台も持っていたのだ。

 その8台が、5個の回転軸から1度に40ものシェイクを作り、一台の売り上げが一日に150ドル ( 約1万5千円 ) にも上るとは。

 この目で確かめようと、私はロサンゼルスに飛んだ。空が澄み渡った早朝、東に60マイル ( 約96キロ ) のサンバーナーディノに向かった。マクドナルド兄弟の経営する店は、これといって目立つ印象はない。

ただ8角形のこじんまりとしたビルが、駐車場の片隅にひっそりとたたずんでいるという様子だ。11時の開店時間が続くと、スタッフ全員がパリッと糊のきいた白いシャツとズボンに、紙製の白い帽子をかぶっていて好印象だった。

彼らは建物の裏にある、細長く、屋根の低い倉庫から材料やら備品を運び出して、仕込みをはじめた。ポテトの袋、牛肉の箱、牛乳とソフトドリンク類、パンのケースを次々と台車に載せて、店舗に運び始めた。

 やがて車が続々と現れ、客の行列ができた。駐車場は埋まり、客がひっきりなしにカウンターにやってきては、ハンバーガーでいっぱいの袋を抱えて車へと戻っていく。途絶えることのない行列に、8台のマルチミキサー、それは確かに現実のものだった。

 「何でこんなに人気なのかね?」 と列の最後尾にいる人に聞くと、

「そりゃじきに分かるよ。15セント (約15円) にしては最高のハンバーガーが食えるのさ。待たされてイライラすることもなければ、チップをねだるウェートレスもいない。かあちゃんの冷めたミートローフのサンドイッチより、こっちのほうが断然うまいからな。」 

ハンバーガーのメニューはたった2種類で、ハンバーガーとチーズバーガーだけ。ハンバーガーの肉はフライドポテト同様10分の1ポンドで、価格も共に15セント。チーズバーガ−は4セント増し。ソフトドリンクは10セントで、ミルクシェイクは20セント、コーヒーは5セント。

これがメニューのすべてだった。突然、私の脳裏に、マクドナルドの店舗を、国中の主要道路に展開させるという考えがひらめいた。各店に置かれた8台のマルチミキサーが、ぶんぶん音を立てながら休みなく働き、お金をかき出してくれる。何とも魅力的な商売ではないか。

( 引用: 『成功はゴミ箱の中に』 レイ・クロック自伝 世界一、億万長者を生んだ男 マクドナルド創業者 )


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2013年03月30日

シリコンバレーのIT企業家 (13) 

 オラクルの創業者、ラリー・エリソンの伝記をお届けします。
連載は 『伝説の経営者たち』 のカテゴリーからご覧下さい。

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 ベンチャー企業、SDLのつくった完成品は、アンペックスで手がけたCIA(国家中央情報局) プロジェクトにちなんで、オラクルと命名された。ユーザーの難解な質問に答えてくれるソフトウェアには英知の源泉であるオラクル (神託) がふさわしいと彼らは考えたのである。

 マイナーとスコットは優秀だったろうが、そうかといって、彼らのつくったデータベースソフトも優秀だったわけではない。

 <オラクル>の最初のバージョンは、簡単な質問には答えられたが、それ以上のことはできなかった。大量の情報の保存管理は手に余ったから、製品として出荷するわけにはいかなかった。

 バージョン1は “単なるおもちゃ” だった。SDLはそれを誰にも売らなかった。<オラクル>が理想的な商品となるのは、まだまだ先の話である。

 プレシジョン・インスツルメントは段階ごとに審査を行い、コンサルタントを雇ってエリソンたちの仕事の進捗状況を報告させたが、SDLの仕事ぶりは審査をかろうじてパスするものだった。

 SDLは、自分たちのつくったソフトウェアを動かす稼働部分であるハードウェアに問題があることをつきとめ、プレシジョン・インスツルメントに毎日8時間、7日間にわたって巨大なデータ保存装置、PI180を動かし続けることを約束させた。

 そして審査はその時間に受けることとした。

 SDLが創立1周年を迎えた日、エリソン、マイナー、オーツにスコットを加えた4人は、サンタクララのオフィスでささやかな祝宴を催した。数字の “1” をかたどったろうそくが載ったケーキが持ち込まれ、それをまえに、4人はカメラに収まった。

 オーツ、スコット、マイナーの3人は口を開けて笑っている。長身のエリソンはどこかしらはにかんだ様子で頭一つ抜け出し、シャツの胸ポケットからはサングラスをぶら下げて、わけ知り顔で笑みを浮かべている。

 
 SDLにとってはプレシジョン・インスツルメンツとの契約は 「申し分のないものだった」 とマイナーは語っている。

 経費を差しひいても、エリソンの手元には宝探しに乗り出せるだけの資金が残っていた。

 ここで一つの疑問が頭をもたげてくる。IT業界の巨人であるIBMは、どうして数十億ドル規模のビジネスの可能性を秘めたアイデアをむざむざと手放してしまったのだろうか。リレーショナル・データベースの論文を発表したのは、IBM特別研究員であるテッド・コッドだったのである。

 20年後、リレーショナル・データベースの研究グループは 「 手の内をさらけだしてしまったのは大きな間違いだった。」 と語った。

  「論文を発表しなければ、リレーショナル技術は成功しなかっただろう。しかも、失敗の原因はIBMが見向きもしなかったことにある、と批判を浴びたに違いない。」

 IBMにはそれだけの力があった。どんなにエリソンがセールスがうまく、話がうまくても、IBMの後押しのない技術をほしがる人はいなかっただろう。

 では、IBMはどうして動きが鈍かったのだろうか。多くの批評家が指摘するように、IBMはそれ自体が国家のようなものであり、しかも、きわめて慎重だった。

 巨大な組織は階層的な官僚機構で、委員会の上に委員会があり、そのまた上にも委員会がある。何事も吟味に吟味を重ねてはじめて動き出す。

 ある元プログラマーによれば、業務がどのように遂行されているのか、かつて社内で調査が行われたという。 「 その結果、空っぽの箱一個出荷するのに、少なくとも9か月はかかることが判明した。 」 

 それに加えて、エリソンの駆け出しの会社と違い、IBMにはリレーショナル・データベースを売り出せば失うものがあった。

 カネである。IBMは何年もまえから、そのものずばりを表すインフォメーション・マネージメント・システムの頭文字をとったIMSという階層型データベースを売っていた。

 IMSは銀行や保険会社などの、数字を主として扱う規模の大きな汎用コンピュータ上で使われる。約1500社の顧客が月に約1,500ドル ( 約14万円 ) のフィーを払っており、新しい技術が既存の商品の売り上げを損なうという声があったのだ。

 IBMにはもうひとつ大きな問題があった。重役、プログラマー、販売、テクニカルサポートといった部門で働く多くの人が、IMSでキャリアを築いていたのだ。サンノゼ研究所の同僚が最初の論文を発表したとき、サンタテレサの研究所ではIMSの改良に取りくんでいた。

 リレーショナル・データベースの出荷を阻止するために、IMS派の人間は  「気が狂ったように働いた」  という。彼らは、自分たちが手がけた製品にとって代わるような代物が出荷されることを喜ばなかったのだ。

 エリソンはある取材に、自社のコンピュータにマイクロソフトのMS-DOSを組み込む決定を下したIBMの決断をどう思うかを答えたところ、 「 あれはIT業界はじまって以来最悪の判断ミスだ 」 と答えた。

 もちろん、新技術を開発した当人が、大儲けのチャンスを逃すのは珍しいことではないIBMがそれと知らずにエリソンに莫大な恩恵をほどこしていたちょうどその頃、ゼロックスも、エリソンとおなじく、大胆で野心的な起業家相手に鷹揚に構えていた。

 1979年、ゼロックス・パロアルト研究所は、アップルコンピュータのスティーブ・ジョブズに、自社が開発した技術を披露した。この技術がコンピュータ画面に革命をもたらし、謎めいたマシンを、プログラムや書類を表すデスクトップ・コンピュータに変身させたのだ。

 デスクトップは、書類を読みたければ、マウスに手を伸ばすだけでよかった。ジョブズが 「 コピー屋のオヤジ 」 と呼んだゼロックス社の幹部たちは、グラフィックス・ユーザー・インターフェースの価値がわからず、それを市場に出すことを考えもしなかった。

 ラリー・エリソンがIBMのアイデアに便乗して大儲けをしたように、スティーブ・ジョブズもゼロックスが開発したアイデアを借用して、IT業界を一変させた。ジョブズとエリソンが後に友人になったのも偶然ではなかった。

 創業期のオラクルの社員は、 「 エリソンたちが優れたアイデアの持ち主だったわけではない。それを見つけただけだ。」  と指摘する。

 IT業界には、システムRの論文を読んだ人間は掃いて捨てるほどいた。だが、機会をつかんでデータベースを製品に仕立てたのはエリソンだけだった。

 エリソンだけが、アイデアを実行して、それを巨大企業の礎としたのだ。彼が語ったように 
「 偉大なビジネスチャンスはいつでも、どこにでも転がっている。 」。

 たしかに、彼はIBMからアイデアを授かった。しかし、60億ドル (約5,640億円) を授かったわけではない。彼は猛烈な仕事ぶりと、すばらしい戦略と、確固たる楽観主義と、そして不屈の意志で、成功を収めたのだ。

 ラリー・エリソンはたぐいまれな方法ではじめて成功を手にした。わが道をいったのである。

  ( つづく ) 

 ( 引用: 『 カリスマ、ラリー・エリソン 』 )

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2013年02月09日

シリコンバレーのIT企業家 (12) 

 オラクルの創業者、ラリー・エリソンの伝記をお届けします。

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 1977年の夏、エリソンとマイナー、そしてオーツの3人はプレシジョン・インスツルメントの契約に入札した。入札価格は40万ドル (当時、約9,600万円) だったが、これはソフトウェアを書き、プログラマーを雇い、そしてプロジェクトが終わった後にもしばらくやっていくのに十分な額だった。

 3人の共同経営者は自信満々だった。 「 3人はうぬぼれのかたまりだった。自分たちは優秀なプログラマーだと考えていた。 」 とエド・オーツは回想する。

 こうして、人によっては傲慢だとも感じられる自信が、新会社の大きな特徴になった。プレシジョン・インスツルメントも最初は入札価格が低すぎて疑心暗鬼だったが、やがてプレシジョンは懸念を捨ててエリソンたちと契約を結んだ。

 3人は社名を楽しみながら検討した。候補に挙がった中には 「ネロ・システムズ」 (皇帝のネロが、ローマが燃えるあいだバイオリンを弾いていたことから、顧客の経費を使って浪費を楽しむの意)や、

 「ウラノス・システムズ」、「インターギャラクティック・タイタニック・オクトパス」などがあった。やがて、社名はソフトウェア・デベロップメント・ラボラトリーズ (SDL) という真っ当なものに落ち着き、創立者たちは株式を10万株発行する手続きをとった。新株のほとんどはエリソンが買った。

 「 ラリー・エリソンが先導役だったからだよ。ラリーは自分やボブよりはるかに熱心に取り組んだ。それに、ラリーのほうが私たち二人を合わせたよりも度胸があったんだよ。たぶん、ゆうに1.5倍はあったろう。

だから、株の分配はその度胸のボーナスだったんだ。ソフトウェアを書くのはボブと私の仕事だったが、この会社が成功するかどうかはラリーの度胸次第であることが二人には分かっていた。 」
 

 新しく雇われたプログラマーのブルース・スコットにとって、ラリー・エリソンとの出会いは忘れがたい体験だった。

 オフィスでの初日、スコットはSDLのコンピュータの端末をプレシジョン・インスツルメントのコンピュータにつなげようとしていた。しかし、2つのコンピュータの間には石膏ボードの壁が横たわっていた。

 「 ラリー、コンピュータをつなげる必要があるんだ。どうしたらいいだろう。 」 と尋ねると、「 こうするんだ 」 とラリーは答え、金づちをつかんで、いきなり壁を叩き、穴をあけた。

 以来、ブルース・スコットは、エリソンのビジネス哲学をこの行動に集約できると信じている。

 「 やり方を見つけろ。ないときは自分でつくれ。文句を言わずにさっさとやれ。これがラリーの哲学だ。 」 とスコットは語る。

 エリソンは思い切りが良いばかりか、一緒に仕事をしていても楽しい人物だった。ある日、エリソンはSDLの存在を世に告げる看板が無いことに気がついた。もっとも、顧客は1社だけだったし、たった1社の顧客のオフィスに間借りをしていたのだから、看板など重要ではないはずだ。

 にもかかわらず、エリソンは中古のベンツに同僚を乗せると、サンノゼに向かった。スコットは言う。 「 会社をあげて、プラスチックの看板を買いに行ったんだ。 」 
帰ってくると、エリソンはSDLの文字を看板に張りつけ、それをプレシジョン・インスツルメントの建物の芝生に突き刺した。

 シリコンバレーのベンチャー企業の始まりである。

 エリソンと妻のナンシーが、ボブ・マイナーとブルース・スコットを連れて、サンフランシスコへバレエを見に行ったとき、文化の香りが高いイベントの好きなナンシーはバレエの公演を楽しんだが、連れの3人は場面を見てゲラゲラ笑い続けていた。

 普通は、バレエを見て笑い転げる観客などいない。

 ちょうどその頃、サンタクララのSDLのオフィスからわずか数キロ離れたところで、技術者のグループが、リレーショナルデータベースの研究を行っていた。やがてエリソンたちは、その研究の実用化を真剣に模索するようになる。1970年代中ごろ、IBMの技術者たちはIBMのサンノゼ研究所に移ってリレーショナルデータベースづくりに没頭した。

 システムRグループと名付けられた彼らは、SQUAREとう言語の実験を開始した。キーボードでタイプできないこの新種の言語は無用の長物でしかなく、つぎに英語にもとづいた、より簡単で機能的な言語を開発する。SQLとよばれる言語だ。

 SQLはリレーショナルデータベース研究の突破口となった。SQLがあればユーザーはデータベース相手に簡単に対話ができる。

 しかしシステムRグループのすぐ近くには競争相手がいた。カリフォルニア大学バークレー校の教授グループも、そのころテッド・コッドの理論の実用化に取り組んでいた。

 システムRグループとUCバークレー校が黙々とデータベースづくりに専念するあいだ、ラリー・エリソンとボブ・マイナー、そしてエド・オーツの3人は、自分たちの将来に思いをはせていた。

 「 ソフトウェアを一つ書いて、それをくりかえし売るのが一番だ 」 やがて3人はそんな結論にたどりつく。

 ハードウェアの技術が進化して、新しいソフトウェアに対する需要が激増するなか、出来あいのソフトウェアを書くというビジネスに参入する会社も増加の一途をたどっていた。パッケージソフトの時代が目前だったのである。

 エリソンたちもそんな時流に乗りたいと考えたのだ。
「 商品志向のビジネスのほうが、利潤も多いだろうし、満足度も高いだろうと判断したんだ。 」 とマイナーは語る。3人ともプロジェクトがとん挫するのはもう御免だった。

 今度こそ、まっとうな仕事がしたかったのだ。しかし、どんなソフトウェアを開発すれば良いのだろうか? その答えは、IBMのサンノゼ研究所の技術者たちが握っていた。

 IBMはプロジェクトの内容を説明する論文を発表した。まずは、 「 システムR − データベース管理に対するリレーショナルなアプローチ 」 というタイトルの論文が発表された。業界人の多くがリレーショナル技術に興味を抱いた。

 エリソンたちが開発すべき商品像はついに現れた。リレーショナル・データベースシステムである。だが、3人は研究者ではないし、数学の理論家でもなかった。おそらくは、彼らの力だけではSQL言語の開発はできなかっただろう。

 データベースの専門家とはほど遠い3人だったが、最初のバージョンは数か月で書き終えた。
 「 たいしたものさ。本当によくやった。プログラマー人口は釣り鐘状の曲線を描いていて、すごいのはほんの一握りなんだ。その一握りの連中が本領を発揮すると、本当にすごい仕事をする。 」 

 エリソンは傑出した仕事をしたスコットに持ち株の4%を渡したが、それを手に、スコットはすぐ会社を辞めてしまった。それを機に、エリソンは株の譲渡にかんしてはずっと慎重になった。

  ( つづく ) 
 
( 引用: 『 カリスマ ( 上 ) 』 ラリー・エリソンの伝記 ) 


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2013年01月21日

シリコンバレーのIT企業家 (11)

 オラクルの創業者、ラリー・エリソンの伝記をお届けします。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 エリソンには将来のビジョンは何もなかったし、IT業界を征服する野心もなかった。自分がボスになることしか頭になかった。

 「 自分は恐らく普通の会社では絶対にやっていけないことが分かったからだろう。 」 と彼は言う。
 「 私は企業のなかで昇進を重ねていくのに不向きだった。」 学生時代に直面した問題が、仕事でも立ちはだかっていた。

 「 納得のいかないことは、人に頼まれてもヤル気になれなかった。学校なら自分一人のために建てるわけにはいかないが、会社ならつくることはできるだろう。 」 

 テラビッド・メモリー・プロジェクトが前途多難であることがわかると、エリソンはアンペックス社を退社して、プレシジョン・インスツルメントという小さなハイテク会社に移った。

 プレシジョンは給料もよかったし、さらに嬉しいことに、システム開発担当バイス・プレジデント (部長) という肩書きもついた。彼ははじめて一兵卒ではなくなったのだ。

 「 ラリーは得意だった。これで、責任者になったのだから。 」 とエド・オーツは言う。

 プレシジョン・インスツルメントは、1957年に、オーディオテープレコーダーのメーカーとしてスタートしたが、エリソンが入社する数年前から、大量のデータを保存・検索できる装置を開発して、コンピュータ業界への参入をもくろんでいた。

 売り込み先は国税調査局、社会保障庁、CIAなど政府の大組織である。PI180として知られた同社のマシンは、長さが2.1メートル、幅が60センチ、高さが1.5メートル。

 大きな箱のなかには、90センチほどの長さの容器が12個並び、それぞれの容器の中には、ロジウムメッキされたマイラーという薄くて細長い強化ポリエステルフィルムが10枚入っていた。

 オペレーターがコマンドを打ちこむと、ロボットのような腕がフィルムを一枚選び出して、高速回転するドラムの上にそれを掲げ、レーザー光線がロジウムコーティングされたフィルム上にデータを書き込むか、書き込まれたデータを読み込んで画面上に表示する、という仕組みだった。

 ところが、ホコリや微細な塵のせいで情報を読み違えることがあり、情報が消えてしまう可能性をはらんでいた。

 それを解決する案として、PI180をマイクロフィルムの保存および読み取り装置として売り出し、情報ではなく絵柄になっている情報を保存する、という名案が浮上した。

 ほこりは、国勢調査の情報を消してしまうが、写真にはあまり大きな影響を与えない。たとえば、昔の新聞を読むにしても、PI180がエラーを起こしても、当該ページのどこかに汚れができる程度で、文章が変わってしまうようなことにはならない。

 加えて、従来のマイクロフィルム読み取り機より操作が簡単という利点があった。欲しい情報が出てくるまで延々とスクロールするマイクロフィルムと違い、PI180は検索項目をタイプで打ちこみさえすれば、情報が即座にあらわれる。

 まずは出荷に先立って、ソフトウェアを開発しなくてはいけない。プレシジョン・インスツルメンツには、プログラマーがおらず、いたのはラリー・エリソンというヴァイス・プレジデントだけだった。

 いくら優秀なプログラマーを自称するエリソンにも、このソフトウェアを一人で書くことは手に余った。

 そこでエリソンは、アンペックスのボブ・マイナーとエド・オーツに電話をかけて、3人で会社をつくって入札しようと持ちかけた。契約が成立したら、マイナーとオーツがソフトウェアを書いて、エリソンはプレシジョンの内部からこれを監督する。

 バイス・プレジデントの地位をなげうって、自分もその新会社に加わる腹づもりだった。会社はプレシジョン・インスツルメントの仕事が完了しても、そのまま存続するというのが彼らの合意だった。

 しかし、なにをするかという点で、エリソンの腹は固まっていなかった。契約でソフトウェアを書くかもしれないし、新製品を開発するかもしれない。エリソンにもはっきりしなかった。いずれにしても、3人が金持ちになるのは間違いがなかった。

 アンペックスに在籍していたボブ・マイナーは、すぐさまエリソンの誘いに乗った。給料が 「 どこにも引けを取らない 」 新会社設立は千載一隅のチャンスだと思った。

 「 しかも、失敗しても働き口に不足はなかった 」 とエリソンは言う。 
「 マイナーには能力があったからリスクはなかったんだ」

 しかし、妻のメアリーは、それほど確信が持てなかった。マイナーにはまだ幼い子供が二人いて ( 3人目がまもなく出産予定だった。 )、サンフランシスコ市内にビクトリア調を思わせる一軒家を手に入れたばかりだった。

 「 母は、お金のことを大変心配していました。 」 と娘のニコラ・マイナーは打ち明ける。

 それはメモレックス社で働いていたエド・オーツにとっても同じことだった。妻子があり、住宅ローンを抱えていたが、マイナーと同じように、会社がうまくいかなくても、べつの働き口が見つかるだろうと楽観的だった。

 メモレックスで働いていた一年弱のあいだに、引き抜きの話が3つもあったのだ。

 ( つづく ) 
 ( 引用: 『 カリスマ ( 上 ) 』 ラリー・エリソンの伝記 ) 



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2012年12月24日

シリコンバレーのIT企業家 (10)

 オラクルの創業者、ラリー・エリソンの伝記をお届けします。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 人類は何世紀にもわたって、効率よく情報を保存・管理する方法を模索してきた。情報管理は、コンピュータが登場する以前は、とほうもない作業だった。国勢調査など実施する際には、ぼう大な係員を配置して作業を分担さ、気の遠くなるようなプロセスを経たのち、政府は最後に人口構成を知る。

 コンピュータの登場でこれが一変した。ハイテク時代が到来し、組織 (そしてやがて個人は) 
は情報をデジタルな形でデータベースに保存することができるようになった。1960年代には階層型データベースとネットワークデータベースの2種類のデータベースが実用化されていた。どちらにも利点がある一方で、課題もあった。

 階層型データベースの働きは、洋服の縫製業者にボタンを卸売りする会社がデータベースに顧客のさまざまな情報や注文記録を保存する、いわば企業の組織図のような働きをする。

 顧客の名前が上に、注文情報がその下に並び、上から下に向かって情報を探す分には便利だった。7月の注文をボタン5万個から7万個に変えても、コンピュータは容易に検索できる。階層の一番上からはじめて順番に下へ向かっていけば良いだけだから。

 ところが、ほしい情報がどこにあるのか分からない場合には問題だった。ある月から数えて2か月後にアラバスター製のボタンを何個出荷しなくてはいけないか知りたいような場合には、柔軟性に欠けるため、すべての注文を見て、時間をかけて必要な情報を取捨選択するしかなかった。

 もっと簡単にたとえれば、食事に呼ばれて知り合いの家にはじめて訪問した際、 
「 ビールが冷えていますから、遠慮なくどうぞ 」 とホストに言われて、家中を歩きまわって台所の収納庫やソックスの入っているたんすの引き出しを開けて片っ端から探し出すような徒労である。

 階層型データベースは、家捜しに匹敵するような作業を必要としていた。

 ネットワーク・データベースと呼ばれる2番目のデータベースは、こうした問題をいくらか解消できた。

 データを上から下へと順番に見ていくだけでなく、さまざまな視点から見ることができる。ある縫製会社がどんなタイプのボタンを注文してきたかを調べることもできれば、そのボタンを注文した会社をもれなくリストアップすることもできる。 

 データベースに新しい情報を加えるのも、ちょうど蜘蛛の巣にもう一本糸を張り足すのと同様、簡単だった。

 欠点は、構造があやとりひものように複雑で、自由自在に使いこなすためにはネットワークの構造を熟知しておかなければならなかったことだ。例えば、ビールは冷蔵庫に入っているのに、中身が哺乳瓶に移し替えられており、しかもガレージを通らないと台所に行けない、といったような状況だ。

 というわけで、世間知らずの横柄なプログラミングおたくに、多くの権力が与えられることとなり、プログラマーはハッピーだったかもしれないが、使いこなす経営陣にとっては苦労だった。

 そんなときにソフトウェア業界を新たに飛躍させ、やがてラリー・エリソンを億万長者にするコンセプトが登場した。リレーショナルデータベースである。

 IBMの技術者、エドガー・H・コッド−が 「大型共有データバンクのための、データのリレーショナルモデル」 と題したきわめて難解な論文を発表した。IBMのデータベース専門家さえ、

 「 システム部にいる何人かが読んでみたが、ちんぷんかんぷんだった。ひどく分かりにくい論文だな、くらいにしか思わなかった。最初に応用方法が少しかいてあるくらいで、あとはすべて数字だった。 」 

 しかし揺るぎない代数学を思わせる基礎をもっていた点が、この理論の強みだった。コッドのコンセプトは、美しいといってもいいほどシンプルだった。

 コッドは1世紀ほど前の国勢調査員がマス目のある記録用紙でやったように、データを表に整理するよう提案した。表に記載されたデータを拾い集めていくと、意味のある情報が入手できるというのがコッドの考え方だった。

 ボタン会社は縫製会社ごとに表をつくり、名前と住所と顧客ごとに割り当てられた顧客番号を書き込んでいく。次に個々の注文に関する表を作る。ボタンのタイプと数、日付、顧客番号、色、大きさ、原価、売値、すべてである。

 コッドの理論によれば、注文の表とボタンの表を組み合わせていけば、ある製品をいつ出荷すればよいか分かるし、顧客表と注文表を組み合わせれば、ある縫製会社の一番新しい注文データも取り出せる。表の数を増やせば、組み合せ次第で多種多様な検索方法を可能にする。

 なにより好都合だったのは、データベースの構造を気にかける必要がなかったことだ。階層型データベースとネットワーク型データベースには多くの違いもあったが、一つ大きな共通点があった。

 どちらも、情報をより速く簡単に得られるかどうかは、データベースの構造次第だったのだ。その点、リレーショナルデータベースは違っていた。リレーショナルデータベースは、表は物理的なものではなく、論理的なものだったからだ。

 「 データは意味のある方法で整理されなければ価値がない 」、とはITにたずさわる者がよく口にする言葉である。テッド・コッドのリレーショナルデータベース理論は、どんな理論よりも確実に、生のデータを意味のある 「情報」 に変身させる可能性を持っていた。

 リレーショナルデータベースの問題点は、スピードが遅いことだった。表を組み合わせるのに時間がかかり、大きな表であればあるほど時間を要した。おかげでリレーショナルデータベースが実用化するのは当分先だと思った人も多かった。

 だれかが先鞭をつける必要があったが、そこに最初に先鞭をつけたのがIBMであり、ラリー・エリソンは永遠にIBMに感謝し続けるだろう。

 1976年、ラリー・エリソンは中古のベンツを買いにある中年夫婦を訪れ、再婚することになった。

 「 雑談中に相手の婦人がこう言うんだ。 『 ねえ、あなたにぴったりの女性がいるわ 』 私はこんなバカな話はないと思った。普通だったら、中古車に女がついてくるなど、あり得るだろうか。それでも私は失礼に当たらないように、 『 それはいいですね。 』 と答えたんだ。

 『 チャーリー、ナンシーは彼にお似合いだと思わない? 』 夫人が聞くと、夫は 『 さあ、どうかな 』 と答えた。 『 ナンシーって、いままで会った女性の中ではいちばん綺麗よね 』  と夫人が言うから、私はがぜん興味を持ったんだ。 」 

 エリソンは電話番号を聞いた。ナンシー・エリザベス・ウィラー、ケンタッキー州ルイビルの上流階級の出だった。当時はスタンフォード大学の学生だった。

 「 ランチを一緒に食べて、それからすぐにつきあいだしたよ。彼女はユーモアがあって、頭が良く、スポーツが得意で人付き合いもよく、両親の庇護を受けて育ったんだ。私たちはあっという間に結婚した。 」 

 ラリー・エリソンはついでにベンツも購入した。

 ( つづく ) 
 ( 引用: 『 カリスマ ( 上 ) 』 ラリー・エリソンの伝記 ) 



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2012年12月23日

伝説の経営者たち − 浅野総一郎、日本のセメント王、京浜工業地帯を作った男

「一日4時間以上寝るとバカになる。人間は20時間働くべきだ。」
「竹の皮はタダだ。」


 日本のセメント王、京浜工業地帯を立ち上げた男、浅野総一郎の言葉である。

 彼の生涯を決定づけた着想はこの一瞬に生まれた。思いついたら必ず実行に移すのが成功者の必須条件である。砂糖で味付けした水を売ったり、竹の皮を食品の包装用に売ったり、一発当てようとの野心だけから出発した。

 次なる着目点は廃棄物。彼はコークスにも目をつけた。

「 なにぶんにもタダだ。しかも大量にある。」 
一日中、工員とともにセメントにまみれ、夜は簿記を勉強し、深夜まで帳簿に眼を通して明日に備えるという励みようだった。

 明治のセメント王といわれ、一代で巨大コンツェルンを築いた浅野総一郎の青年時代は、挫折の連続だった。勉学が嫌いで山っ気が強い総一郎は十代の頃から次々と事業に手を出している。

 機織り女工を集めての紡績業がまず失敗、次に醤油醸造にも手を出したが、これも失敗、さらに酒、米、にしんの販売にも乗り出すが、これまた行きづまる。経験も知識もないに、一発当てようとの野心だけは燃えていた。

 庄屋の家に養子に出されていたが、 「 総一郎ではなく損一郎だ 」 とからかわれて、養子先から追い出されている。300両にも達したという借金をかかえて、逃げるように東京に出たのは24歳のとき。時代はまだ明治維新の余韻で世の中も騒然としていた。

 東京へ出てきてまず考えたのが、タダで手に入るもの。まず1杯1銭の水売りから始めた。「御茶ノ水の名水」 とうたい、砂糖で味付けをして売った。次に竹林に行くといくらでも手に入る竹の皮を売り歩いた。

 竹の皮は、味噌や和菓子を包むものであったが、中身よりむしろ高価な値がついたという。

 「タダで手に入るものを売る」 というコンセプトから発した総一郎の商法は、だんだんと大物に向かった。 「冷やっこい屋」  で多少の資金を貯めた総一郎は、石炭を扱う店を開店させた。石炭は明治時代の新しいエネルギー源として産業政策ともマッチして、売り上げを伸ばしていった。

 石炭商を続けていくうちに、総一郎は納入先の横浜ガス局が石炭の廃物であるコークスの処理に困っているのを知った。これらをセメント製造の燃料に使ってはどうかと思いたち、さっそくコークスの商品化に乗り出した。

 そうこうするうちに、今度は商品化に成功したコークスを納入していた深川の官営セメント工場が操業停止に追い込まれたのを目にし、経済界の大物、渋沢栄一に保証人を依頼して再建に乗り込んだ。

 この深川のセメント工場が工場が、のちの朝の財閥の中核となる浅野セメント ( 現:太平洋セメント ) で、浅野総一郎の輝かしい経済界へのスタートとなった。以後、総一郎は海運、造船、炭鉱、製鉄など各種事業に手を出し、ことごとく成功している。

 セメント業での成功が資本家としての総一郎の地位を固めたとすれば、東京湾の鶴見・川崎の海岸を埋め立てた 「 東京築港計画 」 は、世間の名望を得たものであった。この壮大な計画は、もちろん、総一郎個人の力だけでは神奈川県としても許可が出せないものだった。

  そこで、総一郎は同郷の富山出身の銀行家でもあった安田善次郎に金融面での支援を依頼、財界も一挙に動き出した。最初に神奈川県に許可申請を出したのが1914年、すべての工事が完成したのが1927年という長期にわたる大計画であった。

 川崎・鶴見地区の埋め立て地帯は、その後は日本最大の規模をもつ京浜工業地帯として、日本の経済発展に寄与していった。

 浅野総一郎の邸宅があった鶴見の丘の上は、現在は神奈川の御三家と呼ばれる名門進学校の私立・浅野高校があり、京浜工業地帯の海を見下ろしている。

 丘の下にある下町には、当時の総一郎の愛人の家が7軒も8軒もあったという。ハードワークだけでなく、私生活のほうも盛大な人生だった。まことにあっぱれな明治男であった。

 【 その男、はかりしれず ― 日本の近代をつくった男 浅野総一郎伝 】

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2012年11月25日

伝説の経営者たち − ドナルド・トランプ、アメリカの不動産王 (7)

 【 連載記事はカテゴリー欄より通してご覧になれます 】

快適帯を離れる!

 『 Business Weekly 』 誌の読者投票で、わたしは “世界一競争心が旺盛なビジネスリーダー” に選ばれた。猛烈なライバルたちの顔を思い浮かべると、わたしが世界一かどうかはわからないが、選出されたことは光栄に思う。

 わたしも自分の競争力と実行力を誇りにしているのだ。

 大きな実績をあげるには、常に自分に挑戦を課す必要がある。そのためには、快適帯から出ていかなければならない。わたしはニューヨークでも屈指の不動産開発業者になった。しかし、ニューヨークでの競争は熾烈をきわめる。

 わたしは気をゆるめている暇などなく、四六時中向上を図っていなければならない。これは自分自身との競争でもある。

 わたしは前身するために、勢いを保つために、挑戦しつづけている。成果があろうとなかろうと、わたしは向上のための戦いを続けている。たとえば、わたしのトランプ・ブランドは、もっとも認知度が高く、もっとも価値の高いトレードマークだ。

 つまり、トランプ・ブランドは “最高” と同義語なのである。

もしも、トランプのトレードマークをウォッカにつけるとしたら、わたしは最高級品のウォッカにしかつけさせたくないし、トランプのトレードマークにふさわしい様式で、商品を消費者のもとに届けたいと思う。

 わたしはそういうウォッカを見つけた。トランプ・ブランドのシャツ、ネクタイ、スーツも、メイシーズでの売り上げは絶好調である。自分の名前を冠する以上、最高のものを提供するようわたしは努力している。

 「 なぜ今の立場で満足できないのか 」 と誰かに質問されたことがある。答えは簡単。挑戦をやめたらわたしでなくなってしまうからだ。 “ 満足したわたしは、もはやドナルド・トランプではない。”

 現状維持がうまく機能しないことを、わたしは経験から知っている。実績の上にあぐらをかくようでは、もうおしまいだ。

 1980年代末、わたしは大仕事をやり遂げ、身を粉にして働く必要がなくなった。しかし、世界は常に変化している。同じ場所にとどまるということは、時代に取り残されるということ。

 立ち止まってしまった人間は、人生から置いてきぼりにされるのである。

 わたしは常に進歩の最先端で生きていきたい。カネのためではなく、参加することの純粋な喜びのために生きていきたい。この姿勢で臨んでいるかぎり、あきらめるという選択肢が選ばれることはないはずだ。

 不動産業者の経営者たちは決して引退しない。80歳になっても90歳になっても、せっせと取引をまとめ、土地の開発をし続ける。引退しない理由はもちろん、仕事に対する愛である。 

 行動に移る 

 でっかく夢見るのは良いことだ。でっかい夢という道しるべをつくり出さなければ、あなたはどこへも行きようがない。そして目標を設定し終えたら、今度はチャンスを見て行動を起こさなければならない。

 好機が訪れたときにひるんでしまうのは、おそらく失敗への恐怖からだろう。あなたはこの恐怖にうち克つ必要がある。いったんひるむ癖がついてしまったら、すべての目標は決して満たされない空約束となるのだ。

 あなたは目標に向かって行動する癖をつけなければならない。そして、自分自身に対する約束を、必ず果たさなければならない。

 愛する仕事を見つけたあとは、行動を起こす必要がある。わたしは大学在学中に土地の売買を始めた。あなたも、どのようなレベルでもいいから “一刻も早く愛する対象と関係を持つ必要がある。” 

 愛する対象とのかかわりは、あなたにとって楽しい経験となるはずだ。楽しい経験でありつつけるはずだ。くれぐれも、ニュースキャスターのケイティ・クーリック − 彼女は目が死んでいる − のように、気の進まない仕事にはまり込んではいけない。

 大切なのは、本を読んで学ぶこと。現場の人間から学ぶこと。そして、できるだけ早く始めることだ。 “適切な時期” を待ったり、自分が完成するのを待ったりせず、あなたは今すぐはじめなければならない。

 自分自身の行動からは、何物にも代えがたい教訓を学ぶことができる。知識を吸収し、心から愛する分野に足を踏み入れたら、あとはがむしゃらにやるだけでいい。

 現場に飛び出し、全力を尽くすのだ!

 ( つづく ) 
 ( 引用: 『 でっかく考えて、でっかく儲けろ 』
 Think Big and Kick Ass in Business and Life )

 





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2012年11月04日

シリコンバレーのIT企業家 (9)

伝説の男、ラリー・エリソン

 オラクルの創業者、ラリー・エリソンのお話です。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 エリソンのパートナーとしてオラクルを盛り立てた共同創業者のボブ・マイナーは、アンペックスにとどまったが、再び仕事をともにするのはそれほど先ではなかった。

 ボブ・マイナーは、第二次世界大戦後の1941年にイリノイ州シセロで生まれた。両親は、アッシリア帝国の中心だったイラン北部から、その何年も前にアメリカに移住してきた。

 ボブはエリソンと同じくイリノイ大学シャンペーン校に入学し、エリソンと違って、数学と哲学の学位を取って卒業したマイナーは、徴兵義務を果たすため公衆衛生総局に入り、NIH (国立衛生研究所) の研究者が使うコンピュータプログラムを独自に設計した。

 プログラミング言語は使ったことがなかったが、のみこみは早く、仕事は楽しかった。NIHでの努めが終わると、しばらくIBMでデータベース技術関係の職につき、それからアプライド・データリサーチという、当時としては珍しいソフトウェアのコンサルタント会社に移った。

 そして顧客企業からヨーロッパのクライアントのためにOS (オペレーティング・システム) をつくってほしいと声がかかると、喜びいさんでヨーロッパに行き、アムステルダム、パリ、ロンドンで3年を過ごした。

 彼は行く先々でコンピュータ関係の仕事をしている連中から一目置かれた。アメリカ人であるという理由で、ハイテクに関することなら何でも知っている、と見られたのだ。

 「 今は日本人がそうであるように、当時のアメリカ人は間違うことが許されなかった。アメリカ人であるというだけで、国外へ一歩出たとたんに、数倍頭の切れる人間になった。 」 

 とボブ・マイナーは語っている。


 パートナーの一組として有名になる。2人がオラクルを立ち上げたちょうどその頃、やはりIT業界の伝説となる2つの会社が形を現しつつあった。マイクロソフトとアップルである。

 この3社は、社風、製品、目標などがまったく違っているが、成功に至った筋書きは、いずれも技術に強く預言者的な起業家と物静かなプログラミングの天才というパートナーシップによって設立された点でよく似ている。

 そのパートナーシップとは、マイクロソフトの場合はビル・ゲイツとポール・アレン、アップルはスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック、そしてオラクルがラリー・エリソンとボブ・マイナーだった。

 エリソンとマイナーの組み合わせほど性格を異にする二人も珍しいだろう。マイナーは、ラリーとは正反対だった。

 つねにパフォーマンスを意識して、人々から注目されるようにふるまうエリソンに対して、マイナーはあまり意見を口にせず、貧乏な頃から金遣いが荒く、ビールを買う金すらないのにシャンパンを飲んでいたエリソンに対して、金持ちになってからも質素な生活を続けたマイナー。

 エリソンが豪邸を次々と買いまくっていたときに、マイナーと家族は、裕福でなかったときに買った、サンフランシスコのビクトリア調の家に住み続けた。

 おかげで長女は、雑誌の “フォーブズ” にある米国富豪400人番付の中に自分の父親の名前を見つけてから、はじめて父が金持ちであることに気づいたほどである。

 「 父のたった一つの贅沢はポルシェでした。でも、それも一度に一台しか持ちませんでした。それから、ずっと後になって、ナッパ・バレーにワインの醸造所を買いました。 」 

 エリソンが仕事のためには、愛も、家庭も、友情も犠牲にしたのに、マイナーは毎晩かならず6時半には家に帰り、家族そろって夕食のテーブルを囲む日課を貫いた。同僚が指摘するように、

 「 億万長者でいながら、まったくそんなそぶりを見せない稀有な人物 」 だった。そして気取らないマイナーは、気取った人間に我慢がならなかった。そして自信過剰な人間の鼻をへし折るのが大好きだった。

 「 うわべだけの言葉や偽善、あるいはたんなる偽物の匂いがすると、ボブはいつも “いい加減にしろ!” と怒鳴りつけた。 」 とある友人は打ち明ける。この言葉はオラクルの社員にはおなじみとなっている。

 もちろん、マイナーの最大のビジネスパートナーであるエリソンは、非常にうぬぼれの強い人間である。マイナーは、ラリー・エリソンがいつも大向こう受けをねらっている人物であることを知っているし、それを端から見て楽しんでもいる。

 あるとき、マイナーはエリソンにこんなことを言った。

 「 ラリー、きみがビル・ゲイツを嫌いなのは、やつがきみよりあれがうまいからだろう。 」 マイナーが指摘する “あれ” とは、他人を説得して自分の思いを遂げさせるゲイツの手口である。

 とはいうものの、マイナーがエリソンにストップをかけたことは何度かあった。会社設立まもない頃、エリソンが約束の時間にいつも遅れてくるのに業を煮やし、 「今度遅れてきたら僕はここにいないからな。 」 と言った。

( エリソンと約束を交わした人間は、彼が30分くらい遅刻してくるか、さもなくば現れないことを覚悟していた。 ) 

 そして次にラリーが遅れてくると、マイナーの姿はそこになかった。それ以来、エリソンはマイナーとの約束だけはきちんと時間を守るようになった。

 マイナーはエリソンのことを面白がっていただけではない。尊敬もしていた。エリソンを、たんなる自意識のかたまり、あるいはハッタリだけの人間とみなす向きもあるが、マイナーは決してそのような間違った見方はしなかった。

 マイナーは、エリソンが非常に頭がよく、周到で、意志の強い男だとわかっていた。エリソンのいうことは、すべてを真に受けないにしても、絶対に聞き捨てにはしなかった。

 エリソンも、マイナーはいいやつだったと考えている。自分はマイナーの寛容さと、技術的な知識に一目おいていた、という。これはめったに使われない褒め言葉である。

 エリソンいわく、

「 技術的な問題に関しては、私は常にボブの意見に耳を傾けることにしていた。会社が小さかったときは特に、もって生まれた性格のよさで、彼が自然にリーダーになった。みんな、彼を尊敬したし、好意を持っていた。 」  

 エリソンを、ステーキが焼けるときに立てる音にたとえれば、マイナーはステーキの肉だった。オラクル創設後、エリソンは製品を売り歩き、マイナーは製品づくりに専念した。

 しかも、製品はつくるよりも売るほうが常に先だった。パフォーマーのエリソンが出かけていって優秀な人材を引き抜いてくると、穏和なマイナーが彼らを社に定着させた。

 二人はお互いに補完関係にあっただけでなく、互いを必要としたのだった。ボブ・マイナーは一人でオラクルを創ることはできなかった。

 彼は、エリソンのようにソフトウェアを売ることはできなかっただろう。マイナーは、内向的で控えめで、正直すぎた。そして、エリソンのように全てを投げうって仕事に打ち込むこともできなかった。

 エリソンにとっては、オラクルは神聖な目標だったが、マイナーにとっては仕事でしかなかった。エリソンもまたマイナーが必要だったのだ。

 ラリー・エリソンに好意を持ち、尊敬し、彼と一緒に仕事をするのを楽しんだ人間はそれほど多くない。しかも、ラリー・エリソンの性格や言動に、ボブ・マイナーほど長期にわたって寛容だった人間はいなかったのである。
 
 ( つづく ) 
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 ( 引用: 『 カリスマ ( 上 ) 』 ラリー・エリソンの伝記 ) 


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2012年10月20日

シリコンバレーのIT企業家 (8) 

伝説の男、ラリー・エリソン

 オラクルの創業者、ラリー・エリソンのお話です。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 エリソンにとって、成功への道のりは遠かった。アムダールを解雇されたエリソンはシリコンバレーの別のハイテク会社で、プログラマーとしての仕事についた。カリフォルニア州サニーベールにあったオーディオやビデオ機材メーカー、アンペックス社である。

 短いあいだだったが、アンペックスでの日々はエリソンにとって大きな意味を持った。エリソンはアンペックスで、億万長者への旅路をともにする二人の男と出会ったのである。

 入社したエリソンはボブ・マイナーという名の、皮肉たっぷりで冷静な男と一緒に仕事をすることになった。 
 「 上司に任命されたマネージャーは、技術面が弱かった。だから、一緒に仕事をするのはいやだとつっぱねた。 」 とエリソンは語る。

 「 ボブとなら組んでもいい。あいつは最高だ。ボブなら歓迎するよ。 」 と頼みこみ、二人はコンビを組むことになった。二人はシリコンバレーの歴史上、もっとも長く続き、しかも最高の利益をあげるコンビとなった。

 ラリー・エリソンがオラクルの頭脳なら、ボブ・マイナーは心臓といえるだろう。

 もう一人のエドワード・オーツとは、ふとしたきっかけで知り合う。ある日、エリソンがボブ・マイナーと話しているさなか、ふと別れた妻の名を口にした。すると、若い男がボブ・マイナーの部屋に首を突っ込んできて、 「 今、アダって言ったかい? 」 と尋ねた。

 「 ああ 」 とエリソンは答えた。
 「 アダの名字は? 」 
 「 アダ・クイン、私の別れた妻だ。 」 

 「 アダ・クインとは高校がいっしょで、生物の実験じゃパートナーだったんだ。アダはカエルにメスを入れることができなかったので、解剖は自分がやって、彼女が解剖図を描いたんだ。 」 

 とエドワード・オーツが言った。熟練したプログラマーのエドは、陸軍でIBMのメインフレームを動かし、その後、IBMのライバル会社で数年間働き、その後、アンペックスに移ってきたのだ。

 ラリー・エリソンに会うのは、移ってきてから二日目のことだった。エド・オーツは、エリソン、マイナーと一緒にオラクルの前身を立ち上げる。だが、わけあって軌道に乗るまえにいったん離れて、後年、戻ってくると多大な貢献をなしとげた。

 アンペックス社はぼう大な磁気データを保存する効率的な解決策を導くシステムを模索していた。当時はまだ大量のデジタルデータを保存して効率的に検索できる手ごろな価格のものがまだ無かったのである。

 3人の仕事は、 アンペックスのシステムが支障なく稼働するようなソフトウェアを書くことだった。システムは、十中八、九はうまく動いた。だが、完璧に動くことをエリソンは求めた。テラビッド・メモリ・システムを常時稼働させるのが彼らの使命だった。

 上司のボブ・マイナーは、部下の仕事を厳しく管理はしなかった。ボブ・マイナーとエリソンは、毎日チェスやランチで大半の時間をつぶした。毎日午後の3時になると二人の姿がオフィスから消えた。

 「 テニスをやりに行ったんだ。 」 とエド・オーツは打ちあける。
 
「 ボブとラリーの違いは、ボブはラケットを握っていないときはコードを書いたり、それを走らせたりしているが、ラリーはどうやったら富と名声を手にできるか吹聴していたという点にあった。ラリーはほとんど毎日そんな調子だった。 」 

 エリソンは自分でもコードを書いていたし、しかも優秀なプログラマーだった、という。
 「 私はきわめて有能なプログラマーだった。本当にそう思う。優れたプログラムを書くことで私の右に出る者はいなかった。 」 

当時の同僚は、たしかにエリソンには才能があったと語っている。にもかかわらず、エリソンはおそらくプログラマーとして頭角を現すことはなかっただろう。

 エリソンには、プログラマーに特有の、人付き合いを切りすててしまうような生き方ができたとは思えないからだ。プログラミングは

 「 病気、熱病、そして強迫観念 」 だとソフトウェアエンジニアのエレン・ウルマンが書いている。

 「 プログラムを書いているときは、ほかのことを考えてはならない。人間世界の雑念が頭のなかであわただしく出たり入ったりしないように、キーボードを叩き続けなければならない。中断してはならない。

  集中力が少しでも弛むと、ここで一行、あそこで一行とロスが出る。戻ってくるビットもあれば、ああ行かないでといっても、取りかえしのつかないビットもある。そうするとバグが出て、どうすることもできない。だから、真のプログラマーは、いつもコンピュータから離れてはならない。 」 

 ラリー・エリソンはコンピュータは好きでも、それに縛りつけられるのは承服できなかったに違いない。真のプログラミング中毒は、顧客のニーズや支払いなどはそっちのけで、プログラミングに熱中する。

 ラリーには顧客の支払いのほうがプログラミングよりずっと大事だった。

 エリソンとマイナー、そして同じように独立心旺盛なエド・オーツの3人は、アンペックス社に在籍していた短い期間、ランチに長い時間をさいて、大企業の欠陥をあげつらってばかりいた。

 「 ほとんどの企業は、経験と従順であることに高給を払っている、ということについて3人の意見は一致した。 」 とオーツは言う。

 「 製品を生み出すのに実際に多大な貢献をした人間が、金銭的に報われるケースはまれだ。 」 という点でも意見の一致をみた。もちろん3人は、自分たちは骨身を削って働いているのに、相応の待遇を受けていないと考えていた。

 「 ずいぶん勝手を言っていたように思うかもしれないが、あのころは自分たちが140%の仕事をして、ほかの連中はマイナス40%の仕事しかしていない、と冗談をいっていたものだ。 」 

 しばらくすると、テラビット・メモリ・システムははかない望みであることが明らかになってきた。エリソン、マイナー、そしてオーツの3人は、原因は経営陣にあるに違いないと考えて、自分ならどんな手を打つか、話し合った。

 それが、自分たちで会社をおこすという話に発展していくのは、当然の成り行きだった。とくにエリソンが熱心だった。

 「 自分はビジネスマンとしてはいい線をいっていると思っていた。ところが経営者たちは私が理解できないようなバカバカしい決定を下している。筋が通らないと思ったので、見切りをつけたんだ。 」 とエリソンは語る。

 「 自分は彼らより技術的な点をよく理解していたんだ。それに、ビジネスマンとしても優れているんじゃないかとね。厚かましいと思われるかもしれないが、でも、自分のほうが、技術という点でも、市場という点でも、上司よりずっと優れた判断力を持っていると思った。

 そこでひらめいたんだ。ああいう連中に会社が経営できるなら、自分にもできるはずだ。試してみよう、とね。 」 

 エリソンとオーツは即刻アンペックス社を辞めた。

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 ( 引用: 『 カリスマ ( 上 ) 』 ラリー・エリソンの伝記 ) 



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2012年10月11日

シリコンバレーのIT企業家 (7) 

伝説の男、ラリー・エリソン

 オラクルの創業者、ラリー・エリソンのお話です。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 部屋にいる男は、しゃべりっぱなしだった。その時の様子は、いまもスチュワート・フェイガンの記憶に焼き付いている。言葉が、奔流となってほとばしる。ラリー・エリソンは、話し出すと止まらなかった。

 それは、1973年のことで、フェイガンはカリフォルニア州サニーベールにある新興のハイテク企業、アムダール・コーポレーションに就職してまだ日が浅かった。IBMの汎用コンピュータにそっくりで、そのうえもっと速いコンピュータをつくって、業界の巨人IBMから顧客を奪うというのがアムダールのもくろみだった。

若きプログラマー、フェイガンはアムダールが手がけた最初のコンピュータ、470V /  6のソフトを書くために雇われた。仕事は面白かったが、この新入りがしゃべりまくっているので、仕事が手につかなかった。

 IBMのメインフレームはお手のもののエリソンに与えられた任務は、アムダールのエンジニアたちに新しいコンピュータの特性を教え込むことだった。そして、彼は一日中しゃべり続けていた。まるで、背中のひもをひっぱるとおしゃべりをする人形のようだった。

 しかも、ヒモは巻き上がって、おしゃべりは果てしなく続いた。エリソンは上司、秘書、電話の相手、訪問客、配達人、コピー機の担当者、そしてたんなる通行人と、ところ相手を選ばず話をした。

 しかし、一番の被害者は、身近にいたフェイガンだった。フェイガンは、 「 エリソンの周囲にはオーラがたちこめており、なにかとてつもないことをしでかす雰囲気が漂っていた 」 と語る。

 しかも落ち着きのないエリソンは、なにがおきてもおかしくないという気配を感じさせた。
 「 とことんつきあってやろう、というような気を起こさせる男だった 」 
エリソンの立ち振る舞いが、フェイガンにそんな気持ちを起こさせたひとつの要因だったかもしれない。

 エリソンはいつもアムダールの本社に、全員が自分の到着を待ちわびているとでもいった様子で入ってきた。社内では何をしても目を惹いた。

 それに、手がとても大きかった。巨大な手と、あの上背をもってすれば、なんでもできないことはないように感じられた。すべては、エリソンのカリスマが形をとって現われたものだった。

 そして、エリソンの巧みな話術ときたら、話の中身もとても面白かった。本、音楽、バスケットボール、不動産、大統領の政策、イスラエルの国防政策、車、株式市場、神、テクノロジー、そしてガソリンの値段など、話題も豊富だった。仕事に関する話題は、ほんのときたま出るだけだった。

 エリソンはやがて、そのカリスマを駆使して、周囲の人間を自分の思いのままに操っていくのである。

 一番好きな話題は、自分自身に関するものだった。 
「 自分はいかにすばらしい人間か、いかに頭がいいか、将来どのくらい金持ちになるか 」 について、エリソンは四六時中まくしたてていた、とフェイガンは言う。
 
  新婚そうそう、クインと離婚し、離婚問題でカウンセラーのところに通ったことが、クインがいうように 「 人生の転換点 」 であったかどうかはわからない。が、それをきっかけに彼の中で何かが変わったのは確かなようだ。

 その後、エリソンは職を失った。スケジュール通りに仕事が進まず資金不足に陥ったアムダールは、不必要な人材をリストラすることに決めたのだ。そして、エリソンは名誉にも不必要な人材に選ばれたのだ。

 「 彼は、ものすごく気分を害していましたね 」 とフェイガンは語る。自分の首を切るなんてとんでもない間違いだと経営者は気づかないのだろうか。

 その後もフェイガンはエリソンとランチをともにした。エリソンは決まって遅れてやってきた。45分、1時間、ときには1時間15分も遅れてきたが、謝るそぶりはみじんも見せなかった。

 世間はラリー・エリソン時間で動いているのである。

 それに頭を下げるということをエリーは知らなかった。巣をつくった兵隊アリに、女王アリはお礼を言ったりするだろうか。

 そして、ランチの勘定はいつもフェイガンが払った。

 それから数年後、フェイガンのもとにエリソンから電話がかかってきた。自分はソフトウェアの会社を設立するというのである。しかし、その事業内容はちんぷんかんぷんのしろものだった。

 「 ついてこいよ、金持ちにしてやるから 」 とエリソンは言った。

 フェイガンは迷った。この頃、アムダールに務めるフェイガンは年収35、000ドル
 ( 現在で約850万円 ) の年収を得ていたが、それは大卒にとっては高給といっても良かった。

  仕事はやりがいがあったし、安定もしていた。それを手放す気にはならなかった。おまけにエリソンは口先だけだ。ランチの約束すら遅れてくるような奴に、会社の経営などできるわけがない。

 フェイガンは 「 ノー。 」 と答えた。 
「 こいつは完全に頭がおかしいんだ。成功などするはずがない。 」 

 結局フェイガンはかなり遅れてオラクルコンピューターに参加する。おかげでフェイガンは、設立当初に加わっていれば手に入れられたであろう株券、実に数百億円の損失につながることをのちに思い知るのだった。

 ( つづく ) 

 ( 引用: 『 カリスマ ( 上 ) 』 ラリー・エリソンの伝記 ) 




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2012年09月17日

シリコンバレーのIT企業家 (6) 

伝説の男、ラリー・エリソン

 オラクルの創業者、ラリー・エリソンのお話です。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 ある日、エリソンはデニス・コールマンを訪ねた。コールマンによれば、エリソンは南カリフォルニア大学医学大学院への入学許可証を見せたらしい。たしかに大学の便せんにタイプされていたが、 「 なんとなくインチキくさかった 」 とコールマンは打ち明ける。

 うまく話をつけて取りはからってもらったか、そうでなければ、書類をでっちあげたかのどちらかだろう、とコールマンは推察した。 「 やろうと思えばラリーにはなんでもできたんだ。 」 

 カリフォルニアに行くのは、彼の念願だった。ところが、一緒にカリフォルニアに連れて行くはずのガールフレンドに求婚すると、なんと彼女には二股をかけていた別の男性がいたのが発覚する。

 エリソンはとたんに医者になる気がなくなった。医者になるのをあきらめたエリソンはコンピュータのプログラミングを覚えた。真空管ではなく、トランジスタを使った最初のIBMコンピュータ、IBM1401のプログラミングが物理学の必修だったのだ。

 エリソンは、覚えたての知識を駆使して、大学でパートのプログラマーとして働いた。しかし、ハイテク業界へ身を投じるつもりはなく、それは単なる小遣い稼ぎにすぎなかった。

 当時のエリソンは、小さな後部座席が付いたコンバーティブルの小型スポーツカー、サンビームアルパインを駆って、よくシカゴの郊外をドライブした。ある晩、エリソンとコールマンは互いの恋人と一緒にダブルデートを楽しんだ。

 サウスサイドの湖岸沿いのドライブウェイを走っていた時、警察にスピード違反のかどで止められた。エリソンはさっそく口を開いた。

 「 自分はシカゴ大学の医学大学院の研修医です。電話をもらって、頭蓋骨切開手術に立ち会うため、マイケル・リーズ病院へ向かっているところです。 」 と迫真の演技を見せると、警察は病院までエスコートを申し出た。

 丁重にエスコートを断って、エリソンはスピード違反切符を逃れた。
コールマンは、 「 彼が猛烈に頭の回転が速い 」 ことを納得した。

 エリソンはやがて、サンビームと交換に、アクアブルーのフォード・サンダーバードのコンバーティブルを手に入れる。この車は、車体にハードトップがしまいこまれるようになっていた。

 エリソンはしょっちゅう人から注目されていないと気がすまない性格なのだろう、というのがコールマンの見方だった。歓心を買わなければ、愛されることもないとしじゅう不安なのだ。

 「 自分にはなにか足りないんじゃないかといつもおびえているようなところがあった 」 とコールマンは語る。 「 どうしてだか分からない。ラリーは、なに一つ不足ないちゃんとした男だったのに。 」 

 1966年の夏、エリソンは生まれ故郷をあとにした。カリフォルニアを夢見ていた彼は、バークレーに行った。バークレーは 「 60年代のムーブメントの文化的核心だ。 」 と思っていたのである。

 彼は急進的ではなかったが、興味の尽きない人間や、新しい考え方に触れたいと考えていた。彼はアクアブルーのフォード・サンダーバードで、サンフランシスコのベイエリアに向かった。

 家賃を払うには仕事が必要だったので、エリソンは職業紹介所に出かけ、プログラマーの仕事を探すことにした。 「 そのとき私は一銭も持っていなかった 」 とエリソンは振り返る。

 この職業紹介所ではじめて恋愛を体験する。エリソンに一目ぼれしたアダ・クインは中国史を専攻してサンノゼ州立大学を卒業し、カリフォルニア大学バークレー校で教育学を勉強中だった。彼女も生活費を得るために紹介所で働いていたのだ。

 クインには、エリソンがとても魅力的に思えた。背が高くひょろっとしていたが、ぎこちないところはなく、人を惹きつけて離さない魅力があった。身のこなしも堂に入っていた。

 集中するのは長くて3秒。しかし、新しいことを思いつくにはそれで十分だった。エリソンは非常に活動的で、つねになにをやりたいかがはっきりしていた。

 二人は、エリソンの行きたいところに行き、エリソンの見たいものを見て、エリソンの学びたいことを学んだ。クインはそれで満足だったし、楽しかった。

 エリソンには、ガソリンを買うお金も、クインをどこかへ連れだす軍資金もなく、デートを取りやめなければならないこともあった。 ( 貧乏暮しのエリソンは、10セントで変えたクラフトのマカロニとチーズのインスタント食品ばかり食べていた、という )

 金が入ると、またもやクインを冒険に誘い出す。エリソンは、人間遊園地 “ラリー・ランド ” だった。数か月後、二人は結婚を決意した。

 エリソンは、自分はイリノイ州で大学を卒業し、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に通っているとクインに話していた。ところが、エリソンがバークレーに在籍していたのは、1966年の夏だけだった。

 クラスにはその後も顔を出していたが、無許可で座っていたにすぎなかった。
「 教科書を買うんだといわれてお金を渡したから、いろんな授業を取っているのだと思っていました。 」 とクインは語る。

 その後数年間、エリソンはウェルスコ・データ・システムズ社、ファイアマンズ・ファンド保険会社など、いくつもの大企業でコンピュータ関連の仕事にたずさわった。ほとんどの場合は、IBMの汎用機のシステムプログラマーの仕事で、テープを入れたり、データのバックアップを取るというものだった。

 たいがいは保守の仕事だったから、代わり映えがせず、やり甲斐もなかった。エリソンは、本を読んで暇をつぶした。仕事は夜間や週末の仕事を選び、昼間は大学へ行ったり、ヨセミテ渓谷に遊びに行ったりした。

 二人は、オークランド市にある月並みなワンルームアパートに住んでいた。夜勤から帰ったエリソンが昼間でも眠れるように、窓にはアルミホイルを張り付けた。サンダーバードは見た目はいいが、よく故障するのでバスに乗った。

 買った家具はベッドだけだった。そのベッドもフレームが数か月後に壊れると、クインは気恥ずかしさを押しかくして買った店に持って行った。

 「 恥ずかしくて死にそうでした。新婚で、ベッドを壊してしまうなんて。 」 

 街には、ヒッピー文化を象徴するドゥ―ビー・ブラザーズのヒットソングが流れていた。
  
            ( つづく )

 ( 引用: 『 カリスマ ( 上 ) 』 ラリー・エリソンの伝記 ) 




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2012年09月03日

シリコンバレーのIT企業家 (5) 

伝説の男、ラリー・エリソン

 オラクルの創業者、ラリー・エリソンのお話です。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 19歳の母親は、しばらく一人で育児に励んだが、ラリーが9か月のときに肺炎にかかって九死に一生を得た。そのとき、赤ん坊は手放した方がいい、と思ったらしく、息子をシカゴの高級住宅地であるノースサイドに住む叔母のところへ養子に出し、名前も変えた。

 実の母親に捨てられたというのは、ラリーにとって、なかなか微妙な問題だ。

 「 誰だってそうだろう。よくあることとはいえないし、 『 陽気なネルソン 』 のような家庭ではなかったからね。これはなかなか難しい問題だった。自分は家族と血のつながりがないのじゃないかとあれこれ考えるのは、厄介きわまりないものだったよ。 」 

 ラリーは幼い頃から宗教に懐疑的だった。ユダヤ人であるエリソン夫妻は、定期的にシナゴーグへ通い、 「 私も有無をいわさず連れて行かれたんだ。 」 とエリソンは当時を振り返る。
 
 「 自分では宗教的な一面もあると思っているが、ユダヤ教の教義にはなじめなかった。話としては面白いんだが、うさん臭いからね。創造の物語としてはすばらしいし、信じる人は尊重するが、私にはどうもなじめない。なにを根拠に信じたらいいんだろう。 」 

 両親の願いを叶えるために、エリソンは律法をかじってみたが無駄だった。

 サウスショア高校へ進んだエリソンは、決して目立つ存在ではなかった。在籍していたことを覚えている人は数えるほどだ。クラブ活動とは無縁で、学校を代表するスポーツ選手でもなく、ごく普通の生徒だった。成績も人並だった。

 バスケットボールにやみつきなる一方で、ユダヤ系の生徒たちの親睦組織、 「 タウ・オミクロン・ミュー 」 に加わり、ダンスパーティや親睦会、ほかの親睦グループとのスポーツ競技会を催した。

 当時エリソンに影響を与えた一人は、自分と同じく、世の中に不信を抱き、それをはっきり口にした、友人デニスの父親だった。

ユダヤ人であることがわかると昇進の妨げになると考えて、名字をゴールドマンからコールマンに変えたデニスの父親は、息子に対しても、おまえがシナゴーグにいるのを見かけるくらいなら、監獄にいるのを見るほうがましだ、といったりした。

 エリソンはコールマンの知性を何より崇拝した。ハロルド・コールマンは工業化学者で、大学で教壇に立ち、幅広い知性を持ち合わせていた。エリソンは、相対性理論からパイロットの給料まで、なんでも質問を浴びせた。

 ハロルド・コールマンはシカゴ大学から博士号を授与されている。その事実に、エリソンは畏怖の念を抱いていた。
 
 「 理路整然というのは彼のような人のことをいうんだろう。ドクター・コールマンの話には経験の裏付けがあり、彼はそこから論理を組み立てていく。とても論理的だった。 」
とエリソンは語る。

 当時のエリソンは人生にとてつもない不満を感じていた。実の親はどこにいるか分からないし、養父は尊敬に値する人物ではなかった。高校は体制に順応する人間を優遇し、自由な考え方をする者は罰せられた。そして、物質的な意味でも満たされているとはいいがたかった。

 エリソンは1962年に高校を卒業すると、イリノイ大学のシャンペーン・アーバナ校に入学した。大学へ進んでも、好きな科目は成績が良かったし、興味のある本はたくさん読んだ。

 しかし、必須科目の勉強や宿題には背をむけた。それを思うと、エリソンが医者をめざしていたのは、じつに皮肉なことだった。彼は、偶像破壊主義者にはなれても、医者のような現実主義者にはなれなかったろう。

 イリノイ大学は卒業には至っていない。彼は二学期続けて期末試験をボイコットし、成績がC平均を保てず、1964年の6月に退学となった。夏にプールの監視員として働いて、秋になると、エリソンはシカゴ大学に入学した。

 エリソンにとって、シカゴ大学はイリノイ大学よりはるかに刺激にあふれていた。
「 キャンパスはずっとアカデミックな雰囲気だった。学問に打ちこむ気風が強く、個性を尊重する空気があった。 」 

 成績はふるわなかったが、エリソンは医者への道をあきらめなかった。いや、ある友人に言わせると、エリソンは、自分は絶対に医者になるのだとみんなにふれまわっていた。
 
            ( つづく )

 ( 引用: 『 カリスマ ( 上 ) 』 ラリー・エリソンの伝記 ) 


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2012年08月26日

シリコンバレーのIT企業家 ( 4 )

 伝説の男、ラリー・エリソン

 夏も本番、体力は消耗気味の今日この頃。新シリーズを立ち上げて、知的好奇心だけは全開にします!
オラクルの創業者、ラリー・エリソンのお話です。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 エリソンは、3度結婚し、3度離婚している。最後の破局は1986年のことだった。以後、かなり年下の女性社員をとっかえひっかえして、デートを重ね、名を馳せた。

社内にはそれが原因でさまざまな軋轢が生じたし、オラクルは、CEO ( 最高経営責任者 ) がしょっちゅう女性を夕食に誘うくせに、取締役会には一人も女性がいない時代錯誤の会社だ、と批判を浴びてきた。

 ある恋人兼社員は、セックスを拒んだためにその腹いせで首にされたとしてエリソンを訴え、新聞にセンセーショナルに書きたてられたが、その後、エリソンを陥れるためのでっちあげだったと本人が告白したため、彼女自身が有罪となった。

 別れた3人の妻たちにいわせれば、付き合っている女性たちのためにも、エリソンは独身を通すべきだという。だが、エリソンは再度の結婚生活を夢見ている。

 ある晩、エリソンは最後の妻であり、彼の2人の子どもの母親でもあるバーバラ・ブース・エリソンに電話をかけて、さびしい胸のうちを打ち明けた。

 「 きみは寂しくなんかないだろう。とにかく誰かがそばにいるじゃないか。ぼくはこの家にたった一人でいるんだ。 」 

 エリソンは気のおけない人間関係を求めているのだろう。だが、本音がわからないという声は多い。オラクルは家族、というのがエリソンの持論だが、そうだとしても、あまり気心の知れた家族ではない。

 ふだんは自宅で仕事をしているエリソンは、めったに会社に顔を出さないから、社内でエリソンを見かけることを 「 エルビス目撃 」 と呼ぶ社員もいる。

 社内でプログラマーのカーク・ブラッドリーの勤続15周年を祝うパーティに顔を出して、祝辞を述べた。その場には50人ほどの社員がいたが、エリソン本人であることに気づいたのはわずか5〜6人に過ぎなかった。

 エリソンには親しい友人が一人もおらず、長いこと仕事を一緒にしてきた仲間も、個人的なことはほとんど知らないという。

 年に一度、エリソンは桜の季節になるとアサートンの家に選び抜かれた12人ほどの友人を招いて、食事会を催している。

エリソンとは気心の知れた仲であるスティーブ・ジョブズをはじめ、ノーベル賞受賞者のジョシュア・レダーバーグ、高リスク高利回りのジャンクボンド市場をアメリカに創設し、ウォール街始まって以来の年収660億円を稼いだジャンクボンドの帝王、マイケル・ミルケンなどもいた。

 ビル・クリントンとも一度だが食事をともにしたこともある。

 オラクルのあるエンジニアもいうように、 「 ラリーはまさしく頂点をきわめた 」 のだ。

 1990年代の半ばには、エリソンは、直接のライバルたちを撃破して、リレーショナルデータベースの70%を手中に収めていた。イングレスを打ちやぶり、サイベースをたたきのめし、インフォミックスに大きく水をあけたエリソンは、新たな競争相手を必要としていた。

 征服すべきはただ一つ、マイクロソフトだった。マイクロソフトは、闘いを挑むのにふさわしい相手だった。しかし、マイクロソフトを追い抜くのは並大抵なことではない。

 業界では、エリソンは 「 もう一人の億万長者 」 として知られている。PC時代の寵児であり、同時に世界でもっとも裕福なビル・ゲイツではない億万長者。

 「 自分がゲイツではないこと、つまりはゲイツほど金持ちでも、有名でも、引っ張りだこでもない 」 という事実が、最近のエリソンの最大の欲求不満なのである。

 エリソンにしてみれば、ゲイツの成功の秘訣は知性やビジネスにおける慧眼 ( けいがん ) にあるのではなく、IBMが最初のパーソナルコンピュータにマイクロソフトのOS ( オペレーティング・システム ) を使ったからだった。

 かつて、あるジャーナリストがゲイツをほめたたえると、エリソンはけんか腰になった。

 「 ビル・ゲイツがすばらしいって? 本気かい? たしかにゲイツは頭は切れる。だが、彼の強みは知性にあるんじゃない。決してあきらめないことなんだ。 」 

 決してあきらめることなくゲイツを追いかけるエリソンの口から出たコメントとしては、これはなんとも皮肉だった。ある同業者の証言によれば、 
 「 彼はゲイツを打ち負かしたいんだ。私にもはっきりそう言った。 」 

 エリソンがゲイツにライバル心を燃やすのは、金を巡ってのことではない。金なら二人とも、十分すぎるほど持っていた。
 
 「 今年、資産が10億増えたとしても、去年買えなかったものが、今年買えるというような意味での違いはないんだ。そんなことで私の人生が変わるものではない。 」 とエリソンも言っている。

 問題はステータスなのである。

 どちらがテクノロジーの殿堂でより高い地位を獲得するか、という問題なのだ。いまは、ゲイツの方に軍配が上がっているが、エリソンはゲイツのような影響力が欲しいのだ。時代の寵児になりたいのだ。

 ラリー・エリソンはどんなことでもやってのけた。ビジネスにおいても私生活においても、それは変わらない。成功もそうして手に入れたものがほとんどだ。

 マイクロソフトは 「 スターリン主義 」 だとエリソンは主張した。なぜなら、オラクルの製品はほとんどOSを選ばないのに、マイクロソフトの製品は、たった一つのOSにしか対応しないから。

 これこれの期日までに新製品を発表するといっていながら、期日に間に合わないこともしばしばだった。

 それは他社を出し抜くための戦略ではないか、と他社から批判を浴びれば、エリソンは相手とその製品をあしざまにやりこめた。

 3度目の結婚では、式の直前になって財産分与などに関する婚前同意書を相手の女性に突きつけた。別れた恋人が事件をでっちあげて法廷に持ち込むと、自分の痛手が回復するまで追求の手を休めなかった。

 しかし、金や権力や名声に対するあくなき追求をうんぬんする前に、エリソンの自尊心 ( エゴ ) に目を向ける必要がある。エリソンのエゴは当人も手におえない代物だった。

 少年時代のエリソンを知る人たちには、彼のたどる人生が見えていた。ラリー・エリソンは不可能という言葉を知らなかった、と彼らは口をそろえる。

 ラリー・エリソンは、1944年にマンハッタンのロワー・イーストサイドで生まれた。だが祝福されて生まれてきたわけではない。母のフローレンスは19歳で未婚。父親の行方は知れなかった。

 ( つづく ) 

 ( 引用: 『 カリスマ ( 上 ) 』 ラリー・エリソンの伝記 ) 


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2012年08月19日

シリコンバレーのIT企業家 (3) 

 1970年、同じころ、より早くパワフルになったコンピュータは、もっと複雑な仕事がこなせるようになった。商品としてのソフトウェアとしての需要も大幅に増大した。

 プログラムを書き、それをジーンズやツナの缶詰のように消費者向けに大量に売るソフトウェア専門の会社を、起業家たちがつくるようになったのはこの時代である。

 とはいっても、1970年代のアメリカでは、製品としてのコンピュータプログラムの売上など、わずか7000万ドル台 ( 約56億円 ) でしかなかった。

 70年代にソフトウェア企業を立ち上げた人々は、この誕生まもない業界でどうやってビジネスをしたらいいか、手探りの状態に置かれていた。業界には歴史もないし、指導者として傑出した人物もおらず、広く認められた倫理的な基準もなかった。

 ラリー・エリソンは、この業界の創成時代に、自分の過去を欺き、ビジネスの経験はないが成功するためならばなんでもする、といった態度でズカズカと入り込んでいった。

 ちょうど同じ時期に、同じような態度で業界にズカズカと乗り込んできた偏執狂のビル・ゲイツとよく似ている。ビル・ゲイツはジョン・D・ロックフェラーが今世紀のはじめにアメリカの石油精製業界を独占したのと同じように、PC市場を牛耳らなければ気が済まなかった。

 こうしたソフトウェアの起業家たちと、一時代前の長老たちの考え方を比べてみると、そこには驚くべき違いがある。1939年、大恐慌をくぐり抜けたビル・ヒューレットとデヴィッド・パッカードは、エリソンと同じようにカリフォルニア州シリコンバレーでヒューレット・パッカード社を創業した。

 そこには基本的価値観を前提とした文化があった。

 自分たちの会社は、社員に機会と安心感を与え、社会を進歩させることに貢献し、第一級の製品をつくりだし、顧客を満足させて、そのうえで儲けるべきである、と二人は考えた。

 彼らの経営方針はのちに 「 ヒューレット・パッカード方式 」 ( HPウェイ ) として広がっていく。

 「 われわれと目的を同じくし、その目的をどうして達成しようとしているかを理解してもらえれば、社員のたずなを緩めておいても、同じ方向に向かって進んでいくだろうと私たちは考えた。 」
 ( デイビッド・パッカード )

 ラリー・エリソンが掲げたビジョンは、それよりもずっと単純だった。仮に “オラクル方式” というものがあれば、それは、勝つことに尽きるだろう。いかに勝つかなどは二の次である。

 オラクルのある取締役が言うように、エリソンは社員に羅針盤を示したりはしない。つまり、方向性も、どうやって物事を達成するかという基準も示さないのだ。

 オラクルは、優れたソフトウェアを書き、納期を守り、それが約束通り機能したこともあった。

 しかし、すばらしい製品を請け負っておきながら、できあがったのは予定の数か月、あるいは数年後ということもあったし、製品が完成しないことも、完成品が宣伝どおり機能しないこともあった。

 エリソンの言葉を信じて輝かしいキャリアを作りあげた技術担当者がいた一方で、信じたがために職を失った社員もまた、いたのだ。

 「 誰も裁判に持ち込まなかったようだが、私のエリソン感を言わせてもらえれば、ほら吹き野郎という一言につきる 」 とITコラムニストは書いている。

 創業期のオラクルを大きく成長させた販売部門の元幹部、ゲリー・ケネディは、オラクルにライバルが存在するのは 「 ラリーと取引するのに我慢できない人たちがいたからだ。 」 と語る。

  大げさな物言いに走りがちなのは、なにもオラクルだけではなかった。そういう空気は米ソフトウェア業界全体にみなぎっていた。ビル・ゲイツのマイクロソフトも、大げさな発表をメディアにしておいて、予定より数か月も遅れて凡庸な製品を出すことで知られている。

 なかでも一番有名なイベントは、アップルのマッキントッシュOSに10年遅れて発売された、マックのパクリ版、ウィンドウズ95である。

 1996年、ITコラムニストはシリコンバレーのモットーをこう表現した。
「 それでなんとか通ってしまうのだから、いいじゃないか 」 というものだ。

 「 最近では、新製品を発表する会社がどんどん少なくなっている。発表するのは新製品ではなく、これこれの期日までに新製品を出荷するという声明だ。

 この発表は控えめにいっても希望的観測でしかなく、しかもそれが希望的観測にすぎないことを知っていながらプレスリリースしているのである。

 それでも会社の株は上がり、社員にはストックオプションが与えられ、みんな幸せというわけだ。結局、それでなんとか通ってしまうのだ。 」

 その責任がラリー・エリソンにあるわけではないのだが、エリソンも一役買ってきたのは事実である。

 ひどく競争が激しく、実直という言葉からはほど遠く、はったりと大言壮語だらけで、しかも非常に儲かる。こういうソフトウェア業界の文化をつくりあげるのに、エリソンは大きな貢献を果たしてきた。

 エリソンは、ビジネスでももめごとが絶えない男だったが、私生活はそれに輪をかけて波乱万丈だった。

            ( つづく ) 

 ( 引用: 『 カリスマ ( 上 ) 』 ラリー・エリソンの伝記 ) 


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2012年08月15日

シリコンバレーのIT企業家 (2) 

 伝説の男、ラリー・エリソン

 真夏も本番、体力は消耗気味の今日この頃。新シリーズを立ち上げて、知的好奇心だけは全開にします!
オラクルの創業者、ラリー・エリソンのお話です。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎  ラリー・エリソン

 社員を採用するとき、経験や人柄よりも、知性を優先させた。仕事熱心な人間ではなく、型破りの天才タイプを雇うこともしばしばだった。ソフトウェア工学に関する質問を想定して面接に臨んだが、まったく違ったことを話すはめになった候補者も多い。

 長年エリソンのアシスタントを務めているジェニー・オーバーストリートは、エリソンを相手に、トーマス・ジェファーソンが1803年にフランスからルイジアナを1500万ドルで購入した件をめぐって話に花を咲かせたという。

 ファイナンスのポジションに応募した男性は、エリソンと13世紀のイタリアの話をした。アラスカのパイプラインで働いた経験を持つ女性を面接したエリソンは、氷の橋はどうしてつくるのが一番いいのかを議論した。

 新卒採用も、一番頭のいい、うぬぼれた学生を採用するよう担当者に命じていた。人事担当者が大学に出かけていって学生を雇うときには、

 『 きみが一番頭がいいのかい 』 と聞いて、イエスと答えた学生を雇ったものだ。ノーの場合は、 『 じゃあ、誰が一番なのかね 』 と尋ねて、一番の学生を雇ったのだとオラクルのエンジニア、ロジャー・バムフォードは語る。

 「 それで、本当に一番頭のいい学生を雇うことができたかどうかは疑問だが、とてつもなく尊大な人間を雇うことになったおは事実だね。 」 こうしてエリソンの、これ見よがしの戦闘的なスタイルは、オラクルのアイデンティティの一部となった。

 傲慢な体質は、オラクルの成功に大きく貢献した。だがそれは、オラクルとエリソンが競争相手と多くの顧客から軽蔑を買う原因にもなった。 スチュワート・フェイガンは、こう言っている。

 「 エリソンのおかげで金持ちになったのでなければ、彼を憎んでいただろうね。エリソンは鼻持ちならない男だ。感じがいいとはいえないからね。 」 

 エリソンは、相手に絶対的な忠誠を期待しながら、自分は必ずしも相手の誠意に応えなかった。寵愛を受けるのは、自分にとって役に立つ人間だ。社員は、辞めるまでは、全員 「 天才 」 だったが、辞めると 「 バカ者 」 呼ばわりか、もっとひどい扱いを受けた。

 退社を申し出て、ストックオプションで約束された株の残りをもらえないまま会社を追い出され、ショックを受けた人もいる。

 エリソンには 「 人をさんざん利用してからポイと放り出すきらいがある 」 と指摘する同業者も、だからといってエリソンが軽蔑すべき人間とは考えない。エリソンには、ありあまるほどの長所があるのだ。

 ソフトウェア業界は、まだ歴史が浅い。1950年代、IBMをはじめとするコンピュータメーカーは、ガムにおまけのベースボールカードがついているように、コンピュータにプログラムを無料で付けていた。

 IT業界ではこれを 「バンドル ( 抱き合わせ ) 」 と呼んでいる。コンピュータの歴史について書かれたある本でも指摘されているように、

 「 ソフトウェアが売るに値する商品だという考え方は存在していなかった。殆どのメーカーは、アプリケーションプログラムは、ハードウェアを売るための一つの方法とみなしていた 」。

 60年代に入ると、カスタムプログラムを社内で書けない会社のために、契約によってプログラムをつくるソフトウェアハウスが一世を風靡した。だが、ほどなく事態は一変した。

 1969年、IBMが公正取引法違反を恐れてバンドル中止を決定してから、コンピュータプログラムは、ハードウェアから切り離されて、単独で売られるようになったのだ。

 ( 引用: 『 カリスマ ( 上 ) 』 ラリー・エリソンの伝記 ) 


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2012年08月12日

シリコンバレーのIT企業家 (1) 

 伝説の男、ラリー・エリソン

 真夏も本番、体力は消耗気味の今日この頃。新シリーズを立ち上げて、知的好奇心だけは全開にします!
まずは、オラクルの創業者、ラリー・エリソンのお話です。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 リレーショナルデータベースソフトの業界リーダーであるオラクルの興隆は、シリコンバレーでも一、二を争うサクセスストーリーとして知られている。いやオラクルは、シリコンバレーに限らず、全米にとどろくサクセス企業といってもいいだろう。

 業界の外に出れば知る人は少ないが、オラクルはマイクロソフトに続く、世界第二位のソフトウェア専門メーカーである。

 オラクルのめざましい業績でもっとも潤った株主はラリー・エリソン本人である。エリソンはまさに目論見を達成したのだった。

 エリソンは、自分がボスになりたくてオラクルを設立し、その地位が決して侵されないよう、つねに十分な数の株を保有して、経営のかじ取りに当たってきた。想像を絶するような財産を、エリソンは1200ドルの初期投資からはじめて、20年に満たない間で気づき上げたのだった。

 エリソンは財産を裏庭に埋めておくような男ではない。資産は、惜しげもなく趣味に投じてきた。フェラーリを何台も乗りつぶしたエリソンは、ベントレーのコンバーティブルやアキュラNSXといったスポーツカーに乗り換えた。

 ヨットに興味がわくと、全長23メートルの巨大なヨット 「 SAYONARA 号 」 を発注し、それにクルーとともに乗り込んで、1995年にはオーストラリアのシドニー・ホバード・レースで優勝してみせた。

 絵画のコレクションにも手を染めたが、それは壁のスペースを埋めるだけでなく、知的好奇心と歴史に対する愛好心を満足させるのが目的だった。

そして1996年、13歳の息子が映画 『 インディペンデンス・デイ 』 に夢中になると、映画会社に頼んでフィルムを購入し、息子と友達のために特別試写会を催して、会場までリムジンを雇うと彼らを送り届けた。
 
 飛行機にも惜しみなく金をつぎこんできた。セスナのサイテーションジェットやランケア社のドリームキャッチャーのほかにも何機か持っているのに、エリソンはソビエト製のミグジェット戦闘機の購入を検討中だ。

 エリソンと同じように、社員も金持ちになった。少なくとも、はじめのうちはエリソンも気前よく社員に株を分け与えた。そして金持ちになる社員の数が多ければ多いほど、エリソンも上機嫌で、権力を堪能した。

 創業期に在籍した社員で、いまはカリフォルニア州とハワイの自宅を往復して悠々自適の日々を送っているある女性は、

 「 ラリーは自己中心的で、なにもかもが自分中心に回っていると考えているけれど、利己的な人ではない。 」 とエリソンを評している。

 総勢5、6人の創業期の社員の中に、スチュワート・フェイガンというプログラマーがいた。フェイガンは1978年に入社したそのとき、大量の株を受け取り、そのほとんどを売却しないで持っていた。

 1990年代の半ば、彼は 「 クイッケン 」 という個人財務管理ソフトウェアを買って、財務管理に乗り出した。ところが 「 クイッケン 」 は7桁の数字しか扱うことができず ( 約8千万円 )、保有株の額面はそれを超えていた。

 エリソンは膨大な富をどうやって築き上げたのだろう。彼が幅広い興味と関心の持ち主であるのは間違いない。ホロコースト、詩、教育、建築、そしてハイテクノロジーの将来、と話題にできないことはほとんどない。

 ユダヤ教から仏教まで、宗教にも精通している。だが、一番興味があるのは人間の頭脳だ。とくに分子生物学には大きな関心を抱いていて、二週間の休暇をとって、大学の研究室で、細菌の遺伝子情報をほかの最近に移す手伝いをしたこともある。

 「 知らないことでも、彼はあっというまに追いついてしまう。だから彼との会話はとても内容の濃いものになる。 」 というのは、エリソンを研究所に招待した友人のジョシュア・レダーバーグである。

 「 あんなに頭が切れて、洞察力に満ちた人間は珍しい。 」 ノーベル賞を受賞したレダーバーグに、エリソンはこんな台詞を吐かせてしまう。

 ( 引用: 『 カリスマ ( 上 ) 』 ラリー・エリソンの伝記 ) 


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2012年07月17日

伝説の経営者たち − ドナルド・トランプ、アメリカの不動産王 (6)

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 “自分の失敗から学ぶ”

 人間、良いときもあれば悪いときもある。良い取引をすることもあれば、悪い取引をすることもある。あなたはこのような現実を受け入れなければならない。数百単位の取引をこなす偉大な交渉者は、何度も悪い取引を経験している。

 いくら失敗回避の努力をしても、うまくいかない取引というのは厳然として存在するのだ。取引に失敗したとき、わたしは落ち込んだり自分を責めたりする代わりに、 “ 知識の公式 ” にのっとって行動する。

 この公式を用いれば、良い時だけでなく、悪いときからも教訓を学ぶことができる。

 “ 知識の公式 ”

 「 教訓を得る最高の方法とは、業界の成功と失敗の歴史を学ぶことである。 」

 “ 知識の公式 ” は最高の学習方法だ。他人の失敗から学ぶという方法は、自分の失敗から学ぶよりも早くて簡単である。たとえば、不動産価格暴落への対処方法を学ぶとき、わたしの失敗を参考にすれば、1990年代初頭を実体験する必要はない。

 人生というものの本質からすると、多くの場合、自分の失敗から学ぶことを迫られるはずだ。しかし、他人の失敗から学べるなら、それに越したことはない。

 “ 決してあきらめない ”

 成功を望むなら、絶対に、絶対にあきらめてはならない。もしも、あなたが自分の仕事を愛しているなら、あきらめるという選択肢はとらないはずだ。もちろん状況によっては、あきらめたくなるときもあるだろう。

 再挑戦が不可能に思えるときもあるだろう。しかし、こういう時期は大切にしなければならない。なぜなら、成功のために必要な情報は、この時期に学びとることができるからだ。

 目標まで達成するためには、熱意と同じくらいに “ 忍耐力 ” が必要となる。

 “ でっかく考えろ、しかし、現実から目を離すな ” とも言い換えられる。わたしはひとつの事柄を成し遂げるために、30年間待った経験がある。

 メディア王国、ニューズコーポレーションのルパート・マードックを見てみるが良い。彼は “ ウォールストリート・ジャーナル ” を買収するのに何年も待った。

 彼は常に望みを持ち続け、買収がいつか実現することを知っていた。ルパート・マードックこそ真の天才である。あなたの行く手にはいつも障害が待ち構えている。

 しかし、これを逆に利用することもできる。障害と考えずに挑戦と考えれば、乗り越えるための能力が発揮されるかもしれない。最も重要なのは “ 粘着力 ”。失望や挫折に屈せずに、目標を明確化し、とにかく前進を続けるのだ。

 並はずれた頭脳と能力を持っていながら、物事を途中で投げ出したために、成功を逃してしまった友人の話を、わたしはいくつも語ることができる。また、それほど頭の切れない友人の話も語ることができる。

 後者に成功度テストを受けさせたら、おそらく前者の3/ 4 くらいの点数しか取れないだろう。だが、彼らは他人とちがうものを持っていた。決してあきらめない覚悟を持っていた。そして、世界有数の金持ちになったのだった。

 あなたが仕事を愛していれば、心から愛していれば、途中で投げ出す可能性は低くなるはずだ。

 途中で投げ出してしまう原因のひとつは、つらい状況を避けたいという気持ちだ。不動産ローンを断られる、長いあいだ求めてきた取引や顧客を失う、事業や妻を失う、仕事を失う。。。

 前にも述べたとおり、このようなことで歩みを止めてはならない。痛みについては考えず、とにかく前に進みつづけるのだ。偉大なアスリートのように。

 わたしは、空前の人気を誇る視聴者参加型テレビ番組、 『 ジ・アプレンティス (
丁稚小僧)  』 の主演兼プロデューサーだった。この番組で参加者がみごと困難な丁稚奉公をつとめ上げれば、わたしの関連企業の重役になることができるという仕掛けだ。

 あるとき参加者の女性が、役員室でわたしと対面する前にタオルを投げたいと申し出てきた。わたしは耳を疑った。あきらめることなど夢にも思わないタフガイたちとのやりとりに慣れていたため、彼女の行動が信じられなかった。

 「 この番組は自分が望んだような番組ではなかった。自分が契約した内容とは違っていた。雨の中でテント生活を強いられるとは想像もしていなかった。 」 と。

 『 ジ・アプレンティス 』 のおオーディションには、五万人以上が順番待ちしている。彼女はその中から選ばれたにもかかわらず、戦うこともなくチャンスを棒に振ったのだ。

 人生ではこのような幸運は数多くめぐってこない。わたしが口を酸っぱくして言い続けているように、仕事と人生で成功したいなら、決して決してあきらめてはいけない。

 決して歩みを止めてはならない。あきらめたらそこで終わりなのだ。

 私は彼女に言ってやった。

 「 それが人生だ。現実の世界では、人々はもっとひどい目にあっている。いつも人生が期待どおりに運ぶとは限らない。 」 

 人生は毎日が新たなる冒険だ。保証などどこにもない。何が降りかかってくるかわからないし、ときとして、わからないということが恐怖を生む。生き残るには強くなくてはならず、戦わずして屈服することは許されない。

 いずれにせよ、やめてしまったものにチャンスはないのだ。

 この一件で、わたしはふと気づいた。今時の若者には、 “ 継続は力なり ” という人生の土台ともなる考え方が欠けているのではないか、と。

( つづく )

 ( 引用: 大富豪トランプのでっかく考えて、でっかく儲けろ )



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2012年07月02日

伝説の経営者たち − ドナルド・トランプ、アメリカの不動産王 (5)

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 銀行員に対するこんな屁理屈が通ると思っていたわけではない。しかし、実際はある程度通ってしまった。銀行側は裁判沙汰になるのを恐れ、強硬手段には出てこなかったのだ。

 どんな場合でも必ず打開策は存在する、とわたしが自信を持って言えるのは、この経験があったからなのだ。とにかく、あなたは自分の仕事を愛していなければならない。そして、プレッシャーの対処能力を身につけなければならない。

 銀行は不動産不況で多くの人々を破滅させる一方で、わたしを破滅させようとはしなかった。次のような格言がある。

  上へ登るときには、足元の人々に気をつけろ。下へ降りるとき、足もとにいるのは同じ人々なのだから。 

 これは真実だ。名前は明かせないが、不動産業界に傲慢で有名な男がいた。彼はいつも取引先の銀行員たちを見下し、ひどい仕打ちを加えていた。あるとき彼はディナーの席で、銀行員の奥方に

 「 銀行家と結婚するなんて信じられない。あんな稼ぎじゃわたしの足もとにも及ばないぞ。 」 と言い放った。彼はわざと相手にイヤな思いをさせたのだ。

 わたしはまったく逆の態度で銀行員に接した。常に 「 君たちは最高だ! 」 と褒めたたえた。わたしが巨万の富を築き、彼らが築いていなくても、 「 君たちは最高だ! 」 と称賛し続けた。

 “ 他人を不愉快にさせて何の得がある? ”

 くだんの傲慢な不動産業者は、不動産価格が暴落すると、銀行からきびしい取り立てを食らった。わたしの場合と比べると、取り立ての過酷さは際立っていた。

 そこでその傲慢な不動産業者は、交渉の場で床にひざまずき、個人保証分の担保分を行使しないでほしい、と赤ん坊のように泣いて懇願したらしい。さて、結果はどうなったか?

 彼は不動産業界を追われた。以来、彼とは音信普通になっている。

  気持ち良いことをする 

 1990年代初頭、わたしは700億円の借金にまみれ、街一番の切れ者は、どん底に転落していた。

 ある晩、わたしが会議室へ行くと、経理部員たちはまだ仕事をしていた。不快な作業に集中していたため、室内にはストレスが充満していた。わたしは集中の対象を変えなければならないと感じた。

 彼らを楽しいことに集中させなければならない。わたしは彼らに将来のプロジェクトの青写真を説明し、どれほどすばらしいビルができるかを描いてみせた。計画の詳細を話して聞かせ、成功の絵図を示してみせた。

 あとで聞いたところ、経理部員たちはわたしの頭が変になったと思ったらしい。しかし、あの瞬間を境に、我々の集中の対象は、直面している難題ではなく、明るい未来へと向けられたのである。

 流れは上向きはじめた。好きなことに集中すると決めたあの瞬間が、転機となっていた。

 あのあと、わたしは自分の現状もかえりみず、新たなプロジェクトのための交渉にとりかかった。 “ 気持ち良くなることがしたい ” という単純な理由からだった。

 わたしは700億円の負債を負っていたが、わたしの思考回路はポジティブだった。
現在、わたしの会社は以前よりも繁栄し、以前よりも高い生産性を誇っている。

 ビジネス上のプレッシャーに対処するもうひとつの方法は、人生のはかなさを知ることだ。かつてわたしはヘリコプター事故で、会社の重役3人を一瞬にして失った。こういう事件を経験すると、人生のはかなさが身にしみる。

 わたしはフロリダに “マール・ア・ラーゴ・クラブ ” と呼ばれる邸宅を所有しており、イラク帰還の負傷兵にプライベートビーチを使ってもらっている。邸宅のスタッフによれば、腕や脚を失ったイラク帰還兵の姿は、今までに見たことがないほど美しかったという。

 彼らを “マール・ア・ラーゴ・クラブ ” で歓待できることをわたしは誇りに思っている。

 わたしは実業家だ。実業家の大半は世間ずれしており、世間ずれした人間はビジネスに執着を持たない。ビジネスはゲームに過ぎず、楽しむためにはビジネスを行ない、可能なあいだだけビジネスを続けるわけだ。もちろん、わたしはそうではない。

 「 どうやってプレッシャーに対処しているのか? どのように数十億ドルの取引をまとめられるのか? どうすれば巨額の資金をローンで調達できるのか? どうして夜眠れるのか?数百万人のテレビ視聴者の前で、なぜ平気でいられるのか? 」 

 とジャーナリストからよく聞かれる。本音を言うと、わたしはこれらの事柄をどうでもいいと思っている。言葉を言い換えれば、わたしにとっては些細なことなのだ。

 それよりも、イラクの状況を見るがいい、無数の人を飲み込んだ津波の被害を見るがいい、9・11で世界貿易センタービルで亡くなった3000人のことを思えばいい。

 きょうの午前9時にシティバンクを訪れ、社長の前で重要なプレゼンをしなければならないからといって、いったいそれがどれほどのものだというのだ? 
 ユーモアたっぷりとまじえ、抜け目なく立ち回ればいいだけではないか。

 壮大な世界から俯瞰 (ふかん)したときに、あなたにとっての大問題はちっぽけなことなのである。  

 ( つづく ) 
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 ( 引用: 大富豪トランプのでっかく考えて、でっかく儲けろ )
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2012年06月24日

伝説の経営者たち − ドナルド・トランプ、アメリカの不動産王 (4)

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 成功のもうひとつのカギは、プレッシャーに対処する能力だ。

  人生で何かを成し遂げたいなら、プレッシャーを上手にあしらう必要がある。不動産売買、不動産開発、起業、会社内での昇進。。。

 どれを選択したとしても、あなたは大きなプレッシャーに対処しなければならない。ウォール街のやり手たちも、医者たちも、弁護士たちも、スポーツ選手たちも、政治家たちも、芸能人たちも、プレッシャーだらけの人生を歩んでいる。

 いったい彼らはどう対処しているのだろうか?巨大なプレッシャーの下で、どのように幸せと成功をつかんでいるのだろうか?

 わたしは経験からひとつの教訓を学び取った。
 “ 問題が発生したときには、問題の対応に注力せず、問題の解決に注力せよ ” という教訓だった。

 もしも、問題の対応にありったけのエネルギーを費やしてしまったら、問題の解決策を見つけようとする際、あなたにはどれだけの情熱が残っているだろうか?

 わたしが知っているいくつかの開発会社では、都市計画上の新規制、条例違反、地下水の湧出、建材の紛失など、予期せぬ問題に突き当たると、担当者全員がだらだらと会議をくりかえす。

 彼らは問題の原因と、責任の所在を、長い時間かけて議論し、それから、最悪の事態の想定にとりかかる。

 工期の遅れ、予算オーバー、銀行による資金引き揚げ、市当局による許可取り消し。。。
こんなことにエネルギーを費やさず、解決策の案出に振り向ければ、もっと良い結果が得られるだろう。

 不動産業を始めるとき、わたしはひとつの問題にぶち当たった。欲しい物件に投資する元手がなかったのだ。しかし、わたしはこの問題にとらわれなかった。この問題で歩みを止めなかった。

 わたしは解決策の案出に集中し、元手なしで物件を買うことに成功したのだ!

 わたしからアドバイスをしよう。いったん問題を認識した後は、もっとポジティブな段階へ移行するのだ。自分に愚痴をこぼすにしても、

 「 今の僕にはストレスが溜まっている 」 と言わずに、
 「 今の僕には集中力が足りない 」 と言う方が早く事態を解決に導けるはずである。

 好きなことに集中しているときほど、わたしはストレスを感じずにすむ。

  とはいえ、現実はきびしい。成功体質を備えている人間はごく少数だ。ここでは、ビジネスのプラス面だけでなく、マイナス面についても話をしたい。

 大きな成功を収めるには、高水準のストレスに対処する必要がある。しかし、人間の大多数は高いストレス耐性を持っていない。詳しい理由はわからないが、一部の人々はプレッシャーに手も足も出ないのである。

 わたしはこれまで数多くの天才と出会ってきた。彼らは高いIQを持ち、成績はオールAをとり、ハーバードやペンシルバニア州立大ウォートン (MBA) などの難関大学に入学した。

 しかし彼らはおしなべてプレッシャーには弱かった。

  頭の良い知り合いはたくさんいるが、プレッシャーにうまく対処できる知り合いはあまりいない。 
 

 わたしがスポーツを好きな理由のひとつは、プレッシャーを上手に利用できる選手と、プレッシャーに押しつぶされる選手を、短い時間の中で見きわめられるところだ。

 ほとんどの選手が押しつぶされる一方、偉大な選手はプレッシャーをものともしない。タイガー・ウッズや大リーグのデレク・ジーダー、アメフトのトム・ブレイディ、彼らはプレッシャーの下でもすばらしいプレーを見せてくれる。

 プレッシャー処理の上手下手は、スポーツ界ではすぐに判明するが、ビジネス界では10年、15年かかることも珍しくない。

 自分のプレッシャー耐性を知るのは重要だ。耐性がなければないでかまわない。

 好きな仕事に就き、結婚し、子供を育て、幸せな人生を送ればいい。わたしにはとても無理だが、これはこれですばらしい生き方であり、これも成功のひとつの形であるのだから。

 ウォートン・スクールの同窓生は優秀な人ばかりだったが、実を言うと、わたし自身も良い生徒だった。得意科目は数学と科学。

 この話をすると、たいていの人には眉唾物の話だと思われてしまう。たぶん、わたしのイメージの中に、良い子の要素が見あたらないのだろう。たぶん、わたしの頭の良さは認めてくれても、わたしが机にじっとしている姿を想像できないのだろう。

 しかし、これは本当の話なのである!

 ウォートン・スクールの秀才たちとは、今でも連絡を取り合っている。ある同窓生は、とびきりの頭脳を持っており、会計コンサルティングファームではなかなかの給料をもらっているが、お世辞にも大成功しているとはいいがたい。

 そんな彼がある日、自宅の購入を思い立ち、わたしに相談をよせてきた。

 「 僕の行動は間違っていないかな?右も左もわからない状態なんだ。神経も休まる暇がない。家を買うつもりなんだけど、ほんと、どうしたら良いと思う?賃借の方がいいのかな? 」 

 家を買うという現実に、彼は押しつぶされかけ、ほぼノイローゼ状態になっていた。実際に家を購入したあと、彼はまた悩みを打ち明ける電話をかけてきた。

 IQ180を誇るこの男は、ストレスのために夜も眠れず、妻とセックスもできなくなっていた。

 彼の仕事は、顧客に金儲けのアドバイスをすることだった。いかにも会計士という雰囲気を持ち、やり手で、本当に頭が切れた。しかし、他人のカネでなく自分のカネを使うと決めたとき、彼はプレッシャーによってノイローゼ寸前まで追い込まれてしまったのだ。

 わたしは彼に言った。
 「 君は良い会社に入れて幸運だった。君には、自分で事業を切り盛りすることは絶対に無理だ。 」 彼は傷ついた。真実を告げられてショックを受けていた。

 「 君はプレッシャーに対処できない。だから無理なんだ。 」 
と私は教えてやった。

 わたしはいくつもの難局を乗り越えてきた。そして、数々の成功を手にしてきた。

 また、1990年代初頭の地下暴落のようなひどい時期も経験してきた。あのときのわたしは700億円の負債を抱え、銀行に追い回されたものだった。あれは断じて楽しい思い出ではない!

 当時、すべての大手銀行がわたしに返済を迫っていた。不動産業界ではだれもがトラブルに陥っていた。わたしの目から見ると、敵味方を含め、不動産業界の連中は全員がタフガイだったが、彼らの大多数は乗り切れず、業界を去った。

  業界内の友人はみんな破産の憂き目にあった。わたしも瀬戸際まで追い込まれたが、なんとか破産だけは免れた。楽しい時期ではなかったし、もう一度経験したいなどと思わないが、夜はぐっすり眠ることが出来たし、支払能力を保つこともできた。

 私は苦境を乗り越える訓練は受けていなかった。そんな準備はしていなかった。
しかし、このひどい経験によって自分がプレッシャーに対処できることを知った。

 同じ時期にほとんどの連中は、部屋の隅までハイハイしていき、指をしゃぶりながら、
「 ママ、ママ、おうちへ帰りたいよ 」 と叫んでいたのである。

 わたしは自分がプレッシャーに強いことを知った。わたしはプレッシャーに屈服せず、銀行に逆ねじをくらわせ、銀行に責任の一端を認めさせた。

 わたしに言わせれば、これは銀行の問題であり、自分の問題ではなかった。だとしたら、
 なぜわたしが心配しなければならない? 

 わたしは銀行側にこう言ってやった。

 「 今回の件に関しては融資は行うべきでないと忠告したはずだ。取引の条件がきついという点も説明したはずだ。どう考えても、あんな高い利息が払えるわけがない。 」 

 いずれにせよ、わたしはこう言うしかなかった。気の利いたセリフではないが、ほかの連中のように、がっくりと膝をつくよりはましだった。
 ( つづく ) 

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2012年06月17日

伝説の経営者たち − ドナルド・トランプ 、アメリカの不動産王(3)

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 わたしの中にはもうひとつ、美しい不動産開発に対する情熱が存在する。この情熱は、わたしの成功の主要因と言っていい。建設と不動産開発の世界は、要件が過酷であることと、困難がつきまとうことで知られている。

 事故の危険を内包する建設業では、最新の注意が必要とされ、行き当たりばったりは通用しない。思いがけない出来事という言い訳は許されない。しかし、細心の注意を払いつつ綿密な仕事をやり遂げる、というむずかしい仕事をわたしは愛している。

 愛しているからこそ、上手にやり遂げられる。わたしはこのアプローチ手法を、あらゆる分野で採用している。

 わたしの会社 ( トランプ・オーガナイゼーション ) に入社したばかりの新人が、会社の方針に異を唱えたことがあった。我が社が行っている入念な物件チェックに対し、なぜそんなに時間をかけるのかと疑問を呈したのだ。

 当時の我が社は、すでに確固たる地位を築いていた。所有するビル群も広く知られ、高い称賛を受けていた。しかし、我が社は決してチェック体制をゆるめない。

 わたし自身もときどき現場へ出向き、内部をざっと視察している。くだんの新人が理解できなかったのは、我が社独自の水準を維持するには努力が必要であり、この努力が我が社をトップに君臨させているという点だ。

 結局は無駄になるかもしれないが、我々はこの努力を必須のものとみなしている。

 わたしは未開発の一角を買収して、絢爛豪華な街並みを作り出すのが好きだ。女性にかんしても、仕事に関しても、仕事の手際に関しても、美しさと優雅さはわたしの情熱をかきたてる。

 美とは単なるうわべだけのものではなく、単なる見た目のかわいさでもない。美とは様式から生み出されるものであり、深遠から湧き出してくるものである。

 わたしの中では、様式に対する情熱と、成功とは、渾然 ( こんぜん ) 一体となっている。片方だけならわたしは要らない。

 ニューヨーク市のトランプタワーに入ると、わたしは自分でつくった壮麗な吹き抜け空間の眺めを楽しむ。大理石張りの内装と、落差25メートルの滝に目を奪われ、感嘆の声をあげる人々。

 並はずれた美にスリルをおぼえ、並外れた美を称賛しているのだ。わたしは彼らを見るのが好きだ。彼らとのあいだには共鳴作用がおきる。初めて会う人たちなのに親近感を抱くのは、トランプタワーを建てたときのわたしと、同じ感覚を共有しているからだろう。

 実を言えば、わたしもトランプタワーや、アトランティックシティの “ トランプ・タージマハール ” や、 “ 40ウォールストリート ” などの建造物を見ると、観光客たちと同じようにクラクラとめまいを感じる。

 わたしが築き上げたこれらの建物は、美と様式に対するわたしの情熱の結晶であり、この情熱に人々は反応を示してくれているのだ。様式は人々の心を突き動かす。

 偉大な成功者たちは、極端ともいえる様式を備えている。目をみはるような美しいビルを建てるという行為は、わたしたちに心の底からの興奮と、巨大な障害を乗り越えるための力を与えてくれる。

 わたしは成功について講演をするとき、最初にひとつのテーマを取り上げ、あとは自然の成り行きに任せるようにしている。この最初のテーマとは、
 “ 自分の仕事を愛せよ ” だ。

 わたしの周りにいる成功者たちは、 “ 自分の仕事を愛するがゆえに成功した ”。
自分の仕事を愛していれば、一生懸命働く気になるし、あらゆる面でハードルが下がる。

 もしも成功を望むなら、食べるために働かざるをえない状況でも、あなたは仕事を愛していかなければならない。

 わたしの友人スタンは、非情な家庭で生まれ育った。彼の父親は卑劣さと、凶暴さと、残酷さをあわせもち、困ったことに、他人に対してはとても人当たりが良かった。

父親はタフガイとして知られ、巨万の富を築き上げたウォール街の伝説的人物。私は父親とも息子とも友好関係にある。息子との友達づきあいには問題はないが、父親とつきあうのはできれば遠慮したい。

 スタンは父親とウォール街で働いていたが、彼の仕事ぶりは悲惨の一言に尽きた。あるとき、彼の妻がわたしに電話をよこしてこう言った。

 「 ああドナルド、あの人はみじめで不幸な人生を送っている。すべてがうまくいかないのよ。結婚したのは間違いだった。何もかもが失敗だったわ。 」

 わたしは 「 なんでこんな話をするんだ。わたしにできることは何もないぞ。 」 と答えた。スタンはウォール街で挫折し、ウォール街の仕事に嫌気がさしていたが、父親を失望させたくないため、仕事を辞めることはできなかった。

 スタンはニューヨーク郊外の超有名ゴルフクラブのメンバーだった。当時このクラブでは、美しいゴルフコースの改修が行われることとなり、工事の責任者にスタンが選出された。

 彼が選ばれたのは手腕が認められたためではなく、クラブのメンバーたちに好かれていたからだ。

 あとでわかることだが、スタンには思わぬ才能があった。彼は毎日、朝5時にはコースに出て指揮をふるい、請負業者の尻を叩き、進捗状況を監視した。そして、改修工事を予定より早く完了させてしまった。

 工期は1年から半年に短縮され、コース状態はメンバーの期待の10倍改善され、費用は予想よりも少なくすんだ。私は彼に感嘆して言った。

 「 スタン、君には驚かされるよ。 」 
   スタンはヒーローになった。

 ところが、この出来事のあと、スタンはウォール街へ戻り、また落ちぶれた生活を始めた。絶望した彼から電話を受けたとき、わたしは職業選択が間違っていることを伝えた。

 スタンはどん底まで落ちた。ようやく一念発起してウォール街の仕事を辞め、建設業界に転身したのは3年前。現在の彼は、新天地で驚くべき実績をあげている。スタンを成功へ導いたのは仕事愛だ。

 ウォール街並みの稼ぎとはいかないが、彼は幸せな生活を送り、自分の仕事を愛し、朝起きることを楽しみにしている。

 スタンは新たな気持ちで再出発し、別人に生まれ変わることができた。それもこれも、
 因習やしがらみに反逆し、自分の人生の支配権を取り戻し、変革する根性があったからである。

 もし人生が望みどおりに進んでいないなら、恐れずに自分に尋ねてみるといい。自分は本当に好きな仕事をしているのか、自分に適した仕事とはなんなのか、と。

  あなたが何歳だろうと関係ない。 他人の物差しではなく、みずからの感覚、野望、目標を尺度にして、自分自身の現状を判断するのだ。

 もしかしたらあなたのためを思って忠告してくれる友人や家族や同僚に、逆らう結果となるかもしれない。しかし、自分のプラグは自分のコンセントにつなぐ必要がある。
そのほうが電気の流れもずっとなめらかになるはずだ。

 ( つづく ) 

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2012年06月11日

伝説の経営者たち − ドナルド・トランプ、アメリカの不動産王 (2)

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 1970年代の初め、ニューヨーク市が深刻な財政難におちいっていたころ、42丁目のグランドセントラル駅周辺は急速にさびれはじめていた。ほとんどのビルが抵当流れの状態だった。

 特に < コモドール・ホテル > は老朽化がひどく、赤字を垂れ流すだけでなく、浮浪者のたまり場になってしまっていた。誰かが早急に手を打たなければ、一帯がスラム化するのは必至だった。

 このホテルで一儲けできることはわかっていた。しかし、わたし独自の色 − 醜いぼろホテルを快適で美しい場所に変える − が出せなければ、わたしがかかわる意味などない。

 わたしは < コモドール・ホテル > を瀟洒 ( しょうしゃ ) な < グランドハイアット > に改装し、それをきっかけに一帯の再開発にとりかかった。再開発はわたしに富をもたらしてくれている。

 何をするときでも、あなたは情熱を注ぎ込む対象として、金を超越した使命や大目標を見つける必要がある。高みに至るには、拝金主義者の強欲さと排他性を捨て去らなければならない。

 視野を広げ、全体像を眺め、自分には何が提供できるかを見定めるのだ。可能な限り多くのニーズを満たしてほしい。可能な限り多くの人々のために、美や、健康や、効率性や、安全性や、生活の糧を創造してほしい。

 “ 人生ででっかいことを成し遂げたいなら、とてつもなく大きな熱意と情熱を持っていなければならない。 ” どんな仕事であろうと、職務の正しい遂行には情熱が必要だ。

 ドアマンもウェイターも受付係も、熱意をもって来訪者の対応に当たらなければならない。あなたが今どんな職業に就いていようと、情熱的に取り組んでいれば奇跡はおきる。

 正しい人物とめぐりあい、その人の目に留まるのだ。わたしは何度もそういう実例を見てきた。崇高な目標を見つけ、衷心からそれを追い求めれば、おのずと道は開けてくる。

 情熱がなければ人生は輝きを失う。情熱が与えてくれる肝っ玉は、 
“ 決してあきらめない ” ことを可能にする。
 

 < グランドハイアット > の成功には、献身、粘り強さ、激務という高い代価が必要だった。さまざまな難題に立ち向かうとき、 

 「 醜いものを素敵なものに変えたい 」 と願う情熱は、わたしに前身を続ける力を授けてくれた。そして、多くの人々と理想を分かち合うことを可能にしてくれた。

 では、情熱を注ぐ対象はどうやって見つけ出せばいいのか? 次の方法を試してほしい。

 @ しばらくのあいだ、論理的評価と判断はわきに置いておく。心の奥深くに問いかけ、自分はどんな仕事がしたいのかについて夢想を繰り広げる。人生で何かひとつ成し遂げるとしたら、いったい何を成し遂げたいか?
 

 時の経つのも忘れるほど、楽しくて没頭してしまうことは何か?
 給料をもらわなくてもいいと思えるぐらい、楽しくてたまらないことは何か?
 何をやり遂げたときに、大きな満足感を感じるか?

 何をしているときに、ぼーっとのぼせ上がり、恍惚状態に入ることができるか?

 A ここで現実に戻る。

 自分が愛することができる仕事とは、自分にとって可能な仕事であり、自分にとって得意な仕事である。だから、あなたは自分の長所を探り出し、自分の得意分野を見つけ出し、自分独自の才能について考えればいい。

 B そしてこの検討を行う際には、そう、でっかく考えるのだ!
 びっくりするほどの偉業を思い浮かべ、仕事から得られる喜びと満足感を思い浮かべるのだ。
 
 好きな仕事をしているとき、仕事は仕事の域を超える。活動自体がエネルギー源となるのだ。アップルとピクサーの共同創業者スティーブ・ジョブズは、コンピューターに情熱を注いでいた。

 彼は最高の技術者ではなかったにしろ、情熱の大きさでは誰にも負けない。この情熱こそがジョブズを現代最高の革新者に仕立て上げていたのである。

 “ 夢想家よりも実行者に ”

 情熱は頭脳や才能よりも重要だ。頭脳と才能に恵まれた人々が、情熱の欠如ゆえに失敗した場面を、わたしは何度も目にしてきた。言うなれば、 “アイデア倒れの人々” である。

 きっとあなたの周りにも、そういう人がいるはずだ。いつもすばらしい新アイデアにあふれ、いつか実現しようと考えているが、結局、アイデアが実現されることはないという人々。

 彼らのアイデアは頭の中にとどまり、決して心では感じない。そして、“ 心がないアイデアは、はかなく消える。 ” アイデアとは、それ自体では弱々しく、あいまいなものである。

 アイデアをコンクリートと石とガラスに変換するには、とてつもない大きな情熱が
必要となってくる。

 あなたはアイデアの足を地につけさせなければならない。アイデアが消えてしまう前に、情熱という重しで引き止めなければならない。情熱は魔法の調味料だ。

 あなたの使命がなんであろうと、情熱は競争のための激しい駆動力をあたえてくれる。才能に恵まれていない人々が、ハイオクの情熱で大成功するのを、わたしは何度もまのあたりにしてきた。

 私は情熱を父から学んだ。世間の人々はよく、
 「 建設のノウハウはお父上から学んだのですか? 」 と質問してくる。

 建築にかんするすべてを父から学んだのは確かだが、わたしが父から具体的に学んだのは、ノウハウなどではない別のものだ。父は土曜も日曜もなく、一週間に7日間働いた。

 父は仕事を愛しており、その意味で幸せな男だった。父は仕事に出ると、所有物件をくまなく見て回り、きれいに掃除されているかを確かめた。 “ 作り立て ” という表現を好んで用い、物件が “ 作り立て ” の状態でないと気がすまなかった。

 現場めぐりは週末も祝日も行われた。しかし、父はそういう生活を愛していた。ニューヨークの下町地区では建設業を営むには、1セントの無駄も許されなかったのだ。

 父は、通りの向かいで同規模のアパートが建設されていても、相手より早く、相手より安く、相手より良いものを作った。

 相手方が撤退を余儀なくされると、父はそのアパートを買い取り、改装したのちに自分で売った。仕事が幸せにつながる可能性を、わたしは父から学んだ。

 仕事に対する情熱も、わたしは父から教わった。仕事に対する情熱が大きすぎるために、わたしは1日に3〜4時間しか眠れない。あまりに仕事を愛しているため、わたしは朝起きて仕事に行くのが待ち遠しい。

 あなたも仕事を愛しているなら、おそらく3〜4時間以上眠るのは無理だろう。朝起きたときに愛する仕事が待っているなら、長々と眠りこけることなどできるはずがない。

 わたしは取引を成立させることに、最大級の情熱を注いでいる。わたしはめざましい業績を打ち立てるのが好きだ。でっかい取引を成功させるのが好きだ。交渉相手を打ち負かし、利益をつかみとるのが好きだ。

 狙いがずばりと的中し、取引が思いどおりに運んでいるときの感覚ほど、すばらしいものはないのだ。

 両社が得をするウィンウィンの取引こそが良い取引であると多くの人は言う。戯言(たわごと) もいい加減にしてほしい。すばらしい取引とは、あなたが勝つ取引であり、相手が勝つ取引ではない。

 わたしは完全勝利をめざす。だからこそ、数多くの良い取引を成立させられたのだ。

  ( つづく ) 
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 ( 引用: 大富豪トランプのでっかく考えて、でっかく儲けろ )
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2012年06月10日

伝説の経営者たち − ドナルド・トランプ、アメリカの不動産王 (1)

 日本で不動産王と言えば、企業としての三菱地所や、東京・港区を中心に信じられないくらいの成功を収めた森ビル、森トラスト率いる森兄弟が挙げられるが、アメリカの不動産王といえば、ドナルド・トランプが筆頭だろう。

 ペンシルバニア州立大MBA ウォートン校を出た後、父親の経営するブルックリンの小さな不動産会社で修行をしたのち、だれの助けも借りずに一人でマンハッタンに打って出て、はったり倒しのダブルのスーツやほら話で取引相手を巧みに信用させ、大きなディールを次々とものにして業界の王者に君臨した。

 マンハッタンにはトランプタワーをはじめ、彼の手掛けた高層ビルや商業施設が多くある。

 一度は90年代の米国不動産不況で壊滅的な打撃を受け、700億ドルの負債を負ったほとんど瀕死の状態であっても、 「 次はもっと大きなディールを決めなきゃいかん。 」 と言ってのけ、ポジティブ・シンキングを片時も忘れなかった米不動産業界の大物。

 自己顕示欲が強く、テレビ番組 “ジ・アプレンティス” の出演者としても有名で、
「 一文なしになっても億万長者になれますか? 」 と聞かれたところ、
「 もちろん。僕は次はきっとネットワークビジネスでもやるよ。」と答えたという。

 文字通り裸一貫からアメリカの不動産王にのし上がった彼の軌跡と成功哲学を追う。

 “ 情熱、情熱、情熱! ”

 自分の仕事を愛していなければ、どんな分野であろうと成功はおぼつかない。自分の仕事を愛していれば、あなたはもっと一生懸命働き、もっとむずかしい問題に挑み、もっと上手に苦境を切り抜け、もっと楽しく人生を過ごせるはずだ。

 大切なのは、自分のビジネスをよく知ることと、自分の仕事を愛すること。このふたつは、多くの問題を解決してくれる。私の処女作 『 トランプ自伝 』 から、最初の一節を引用しよう。

 「 わたしは金のためには行動しない。金なら使いきれないほど持っている。わたしの目的は行動そのものだ。ビジネス取引はわたしの芸術表現であり、ほかの人がカンバスに美しい絵を描いたり、美しい詩を書いたりするのと同じである。

 わたしは取引を成立させることが好きだ。成立した取引がでっかければなお良い。私はこのやり方で快楽を得ている。 」 

 20年後の現在も、わたしはでっかい取引を続けている。そして、今もなお同じやり方で快楽を得ている。

 この手法は効果的だ。じっさい、好きなことに情熱を傾けているうちに、私のもとには大金が転がり込んできたのである。現在のわたしの財産は、処女作を書いた当時よりもふくらんでいる。

 わたしは自分の仕事をこよなく愛しており、この感覚は何物にも代えがたい。ときどき、わたしは夜眠れなくなる。

 “ 早く起きたい、早く仕事に行きたい、と思うと眠気が吹っ飛んでしまうのだ。 ”

 処女作を出版して以来、わたしは何度かつらい時期を経験し、90年代初頭にはほとんどすべての財産を失った。しかし、どうにか難局を切り抜け、生き残りを果たし、再び繁栄を手にした。今日、わたしの不動産ビジネスは空前の活況を呈している。

 運命はわたしを予期せぬ方向へも導いた。わたしはテレビ界で 『 ジ・アプレンティス  (丁稚奉公) 』 というリアリティ番組を大ヒットさせ、NBCで放映される二大美人コンテスト、 “ミス・ユニバース” と “ミス・アメリカ” の開催権を獲得したのだ。

 わたしがこれらのプロジェクトに参加した動機は金ではない。じっさい、どのプロジェクトにも、私から参加を申し出たことはない。

 しかし、仕事に対するわたしの情熱の深さは広く世界に知れ渡っており、毎日情熱を注ぎつづける姿勢は、新しいプロジェクトにふさわしいと判断された。

 だからこそ、みんながわたしに声をかけてくれたわけだ。ただじっと座ったまま、取引や、チャンスや、幸運を待っていても、何も始まらない。

 あなたは好きな仕事に情熱を傾ける必要がある。いったん弾みがついてしまえば、流れはあなたに有利に働き、あなたの進む道には、吉事が次々と訪れるだろう。

 もしも金が唯一の目的なら、わたしは大切な仕事をいくつか逃していたはずだ。たとえば、金銭的利益のみで意思決定を行っていたら、セントラルパークのウォルマン・スケートリンクの改修には手を出さなかった。

 50年ほど前に作られたこのスケートリンクは、1980年、改修のために閉鎖された。市当局は数年の時間と2000万ドルの費用を注ぎ込んだものの、1986年になっても工事終了のめどはまったくついていなかった。

 わたしはニューヨーク市を愛していた。そして、マンハッタンのど真ん中にあるすばらしいレクリエーション施設を、市民のために復活させたいと思った。わたしは大規模なビルを2年以内に完成させてきた。

 スケートリンクの改修なら数か月で仕上げる自信があった。ニューヨーク市の時間と金を節約するため、わたしはこのプロジェクトを請け負った。このときの動機は儲けることではなく、サービスを提供することだったのである。

 “ 情熱をみつける ”

 どうすれば金が稼げるか、などと考えてはいけない。自分には何が創造できるか、自分にはどんなサービスが提供できるか、という点をあなたは考えるべきだ。

 地元のコミュニティや地元の人々のために、どんな有益なサービスが提供できるか? どんなニーズに応えられるか? もっと良いやり方はないか? もっと効率的なやり方はないか? どのような問題を解決できるか?

 “ 中でもいちばん重要なのは、何をすれば自分は楽しめるかという点だ。 ”

 もちろん、ただで仕事をするわけにはいかないし、価値あるものを提供できたなら、堂々と報酬を受け取ればいい。人生という名のゲームでは、金は得点の役割を果たす。しかし、真の楽しみは得点ではない。

 ボールをいかにしてゴールへ叩き込むか、という命題に創造的な解放を見つけたときの興奮だ。 “人の役に立つ仕事を、情熱を注ぎ込む対象にできれば、金はあとからついてくる。”

 じっさい、この単純な哲学を忠実に守ることで、わたしは億万長者になった。世間の人々は、わたしが不動産業を始めたときに、父親から多額の資金援助をしてもらったと勘違いしている。

 しかし、当時の私は文無しに近かった。父親はたいした額を出してくれなかったのだ。わたしが父親から提供されたのは、良い教育と、富を得るための単純な公式。すなわち、
 “ 儲けたいなら、好きな仕事を一生懸命やれ ” という単純な公式だった。

 ( つづく ) 

 ( 引用: 大富豪トランプのでっかく考えて、でっかく儲けろ )




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2012年05月31日

伝説の商社マン − 新浪剛司

  新浪剛司 (53)、三菱商事からローソン社長へ

 世界を飛び回る商社マンにあこがれていました。ところが、念願かなって入社した三菱商事で配属されたのは砂糖部門。花形は穀物や水産で、砂糖はやっかい者扱いでした。

 入社前に起きた相場の大暴落で、砂糖部門は大きな損失を抱えていたのです。
「 砂糖のせいでボーナスが減った。 」 などと風当りも強く、同期からも
「 将来、大変だな。 」 と同情されました。

 それでも職場は 「 負けてはいかん 」 と意気軒高でした。リストラで人員も少なく、新人にも大事な仕事を任せる。

血気盛んで、人より早く出世しようと意気込んでいました。
新人社員の頃、酒の席で先輩に 「どうしたら人より早く出世できるのでしょうか?」
とたずねました。

 「誰よりも早く出社して、誰よりも遅くまで残業しろ。人の2倍働けば、会社の中身は手に取るように分かる。それが出世の鍵だ。俺の言葉を疑うな。明日からやれ。」と言われました。

言われるがまま、その翌朝から実践しました。

 朝一番でオフィスに来ると、海外から山のようなテレックス(当時はEメールなどありませんでした)が届いていて、テレックスの山を整理しているうちに世界と進行している商談の中身がたちどころに分かり、同僚の一歩も二歩も先を行くことができました。

 米国留学の経験がある課長が早朝に読書会を開き、最先端のマーケティング理論を教えてくれるなど、刺激に満ちていました。井の中のかわずにはなるまい、との思いから社外の勉強会にも通い、同世代の官僚や異業種のビジネスマンと接触しました。

  念願の留学を果たす 

 米国留学したのは29歳の時です。ハーバード大のビジネススクールに行きたくて社内試験を受けましたが、2回連続不合格。通常は合格後に会社の推薦状をもらうのですが、自分で受けて留学しようと決意しました。

 留学試験を受け願書を出すと、合格。人事部も渋々認めてくれました。

 ハーバードでは必至でした。授業ではとにかく発言しなければならない。1割程度の学生は落第します。寝るのは3、4時間で、血尿も出ました。

 企業経営はどうあるべきか。財務やマーケティングなどの知識を詰め込みながら考えたことは今も役に立っています。

 居場所を探す 

 MBA ( 経営学修士号 ) を得て帰国したのですが、実は受け入れてくれる部署がなかった。当時はMBAの評価も高くなかったのです。最後に決まったのは、冷凍食品部門。興味がわかず、転職を考えました。

 「 この会社はやりたいことがやれる。冷凍食品が嫌ならほかの事業を提案しろ。 」 ある先輩にそう諭されて目が覚めました。フランスの会社と提携し、病院向け給食事業に参入しました。

 その後、経営難に陥っていた日本ケンタッキーフライドチキンの再建も手掛けました。6年間、外食産業に携わりました。

 課長だったころ、若手時代の勉強会で知遇を得たダイエーの創業者、中内功さんから 「 ローソンの株を持たないか 」 と打診がありました。

 親会社のダイエーを再建するための資産売却です。2000年に三菱商事は1700億円でローソン株の2割を取得し2001年には筆頭株主になりました。

 社長で行ってほしいと命じられたのは2002年、43歳のとき。佐々木幹夫 ( 現相談役 ) が 「 実るほど頭を垂れる稲穂かな、だ 」 と送り出してくれました。偉くなってもふんぞり返るな、との念押しです。

 三菱商事が1部上場企業社長に役員経験もない若手を出すのは初めてでした。

 骨を埋める 

 ローソンは予想以上に弱っており、激動の日々が始まりました。売れなくても粗利益が大きい商品を仕入れ、店舗に押し付けるような商売をしていたのです。

 退路を断たなければ抜本的改革はできないと三菱商事を退社しました。

 何より看板商品が欲しい。最初に手掛けたのはコメと具材にこだわったおにぎりです。加盟店への商品説明は自分でやりました。30分から1時間の説明会を1日に
4,5回開く。

 声はかれ、へとへとになる。その後、社員と飲む。骨をうずめる覚悟を見せたかったのです。若さゆえ乗り切れたのでしょう。経営が軌道に乗ったのは2年目です。

 インターネットと店舗の融合、アジアや中国での事業展開など、やるべきことはまだまだあります。セブン−イレブンと切磋琢磨しながら世界に冠たるコンビニにしたいと考えています。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 
 
   新浪剛史 − 1959年、神奈川県生まれ。1981年慶応大学経済学部卒、三菱商事入社。生活産業流通企画部でローソン事業兼外食事業ユニットマネージャーなどを経て、2002年5月からローソン社長。

 2010年4月から経済同友会代表幹事。趣味は読書、映画鑑賞、ゴルフ。好きな言葉は
「 垂線垂範 」。 

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 



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2011年12月24日

スティーブ・ジョブズの生涯

 昨夜、NHKの特別番組でスティーブ・ジョブズの生涯を見た。

 「 コンピュータで世界を変える! 」と、自分の理念をそのまま先鋭的なイメージ映像にしたCMを2度にわたって打ち、新製品が不発に終わっても自分の信念を変えず攻め続けた彼の生涯。

 実の両親に捨てられ、養子として育てられ、若い頃に屈折した思いを胸に抱きながら学生時代を送り、インドを6カ月も放浪して、ヨガや多様な生き方、広い世界に啓発されて、自分のビジョンをひろく世界に広げて挑戦を続けたジョブズ。

 1970年代にアメリカで流行った本 『 Whole Earth Dictionery  』 ( 全地球辞典 ) の巻末に載っていた一言、

 ” Stay hangry ! Stay foolish ! "  ( ハングリーであれ! バカであれ! )  を自分のモットーとして貫いたジョブズ。

 世の中のだれもが気がつかないうちから、コンピュータが生活を変えるシーンを10年先、20年先まで予想して、先手を打って行った革新家。そして、世の中のだれもその先進性に気付かなかったがために開発した製品は不発に見舞われた。

 彼が大成功した要因は、結局のところ、自らを突き動かす原動力となった ” 創業の理念 ” を、どんな逆境のときにも忘れず、ひたすらそれを希求して行ったことにあったのだ。

 
 これが起業家の生きざまだ! カネではなく、夢を追った一生だったのだ。。。そして、それが世界中の人の心を動かしてビジネスは成功したのだ。それが彼が遺した最大の教えだ。

 彼のエッセンスを、自分にも生かしていこう。
 
Stay hangry ! Stay foolish !
ハングリーであれ! バカであれ !


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2011年10月12日

伝説の経営者たち (22) ウォルト・ディズニー

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 晩年

 ウォルト・ディズニーは、ジュリー・アンドリュースが 『 メリー・ポピンズ 』 で観客を魅了するのを見届けてから世を去った。

 彼は扱いにくい原作者のP.L.トラバーズと20年近くにわたり自ら交渉して映画化の権利を獲得したのだが、トラバーズは映画の出来が気に入らなかったようで、それはこの映画の興行収入の記録を塗り替えたあとも変わらなかった。

 ディズニーのグッズ部門は、賢明にもナショナル・シュガー社と提携して、映画の中で歌われる 「 スプーン一杯の砂糖 」 という歌を売り込んだ。

 『 メリー・ポピンズ 』 の大ヒットとほぼ同じころ、ウォルトが1964年の世界博覧会のために生み出したアイデアが、たいていのことには驚かないニューヨーカーたちの心を奪っていた。

 それは、 『 イッツ・ア・スモール・ワールド 』 という耳に残る曲とともにボートで世界を一周するアトラクションだった。

 1965年、ウォルトディズニーはフロリダ州オーランドの湿地帯2万7000エーカー ( 約1万1千ヘクタール ) をひそかに買い集めた。不動産投機家が大型取引をかぎつけて地価が高騰することを、彼は懸念していた。

 彼とロイ・ディズニーは迅速に事を進めて取引が明るみに出る前に土地買収を完了し、ウォルト・ディズニー・ワールドの準備を整えた。ディズニーワールドは1971年に開業したが、残念ながらウォルトは1966年に肺がんのために死去していた。

 ウォルト・ディズニーのイメージを星条旗で包んで、彼はひたすら子どもたちに喜びを与えたアメリカの聖人だったと言うのはたやすいだろう。

だが、決して聖人ではなく、彼は休む間もなく働き、他のアニメーターの質の悪い仕事をボロクソにけなした。彼は確かにときに公正でないこともあったし、癇癪を起こすこともあった。

だが、自分の主なクライアントは決してだまさなかったし、決して株主の金は奪わなかった。彼はマザーテレサやメリー・ポピンズではなかったが、トーマス・エジソンやベン・フランクリンなど、アメリカの偉大な創造の天才たちの屈折した光は、間違いなく彼の頭上にも降り注いでいた。

 厳しくつつましい少年時代と職を転々とする父の厳格なしつけにもかかわらず、ウォルトディズニーはエジソンやフランクリンと同じく、自分が象徴的存在になる運命にあることを知っていた。

 1920年代に広告会社で働いていたとき、彼はアブ・アイワークスからポーカーに誘われたことがあった。彼はその誘いを断った。

 スケッチをやっているのでその暇は無いというのだが、彼が描いていたのは自分のサインだった。あの独創的で楽しい時間がすぐそこまできていることを、CMのすぐ後にやってくることを、大人にも子どもにも即座にわからせる、あのシンプルでスタイリッシュなサインを練習していたのだった。

  ( 終わり )

  次回からはアメリカの不動産王、ドナルド・トランプをお届けします
 


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2011年10月03日

伝説の経営者たち (21) ウォルト・ディズニー

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 AOL ( American On Line ) は何をする会社なのか

 ラスベガスのマジシャン、デイビッド・コパーフィールドは、自分は何かを消し去るマジックでハリー・フーディーニ以来のすばらしい技を持っていると思っていた。

 ところが2000年に、アメリカ・オンラインとタイム・ワーナーが合併を決めて、2200億ドルの株主価値を消し去る道を歩みはじめた。コパーフィールドが消し去るものは、せいぜいが象だった。

 もちろん2000年の時点では、インターネットがどこに向かっているかも、インターネット関連企業の株式に投資することで利益をあげられる人間がいるのかどうかも、誰も正確にはわかっていなかった。

 AOLのCEO、スティーブ・ケイスとタイム・ワーナーのCEO, ジェラルド・レビン、それにテッド・ターナーのような大物たちが突然登場してきて、合併という衝撃的なニュースを発表した。

 ひそかに進めたこの合併を成功させるために、彼らがどれほどの事前準備をしたのかというと、約3週間だった。コパーフィールドは新しい象の調教にはるかに時間をかけるに違いない。

 AOLとタイム・ワーナーの合併が発表されたとき、だれもこの合併の成功を確信することはできなかった。二つの巨大企業、インターネットの王者とケーブルテレビと雑誌の王者のタイム・ワーナー、が合併して、どこにシナジー効果が生まれるのだろう?

 トム・クルーズがワーナー・ブラザーズの映画に出たら、たしかにAOLは同社の3,000万人のユーザーのコンピューター画面にひそかにプレビューを流すことができる。

 AOLのユーザーは、 『 ミッション・インポッシブル 』 の派手なクラッシュ・シーンについて内輪の情報をもらえたと感じるかもしれない。だが、その場合不思議なのは、タイム・ワーナーがそのひそかなプレビューをなぜAOLの顧客に限定したいと思うかだ。

 通常は地球上のすべての人間を引きつけたいと思うはずだ。また、AOLはそうしたひそかなプレビューを、なぜワーナー・ブラザーズの映画だけに限定したいと思うのか。

 ソニー・ピクチャーズからもそうしたプレビューを提供してもらいたいとは思わないのだろうか。要するに、この超大型合併がどのように独自の価値を生み出すのか、理解するのは難しい。

 ウォルト・ディズニーなら、いくつもの理由でこの合併に反対していただろう。

 実際、ウォルトディズニーから学べる教訓に照らしてみると、AOLとタイム・ワーナーの失敗は、どうすれば価値を損なうことになるかを如実に示しているのである。

 第一に、ウォルトはそのキャリアを通じて、技術の最先端を行くためには投資を惜しまないという姿勢を貫いた。

 合併の時点では、AOLは過去に縛られて、何百万人ものアメリカ人がケーブル会社やDSL接続のプロバイダーと契約していたというのに、低速のダイヤルアップ技術を使っていた。

 ケーブル局を持つタイムワーナーと合併するまでは、自社が遅れているという現実を否認しているようにさえ見えた。ブラックアウト ( 通信途絶 ) がたびたび起き、請求ミスも相次いでいたにもかかわらずだ。

世界最高のオンライン・コミュニティ・ビルダーと自称しているAOLが、マイスペースとか、フェイスブックとか、ユーチューブといった、オンラインコミュニティをなぜ生み出さなかったのか?

 AOLとタイムワーナーの無気力さを、紙の人形に満足せず、アニメづくりのもっと良い方法を編み出すためにガレージで奮闘していた1920年はじめのウォルト・ディズニーと比べてみていただきたい。

 さらに、ウォルトが 『 蒸気船ウィリー 』 に莫大なカネをつぎ込んだことを思い出していただきたい。彼はアル・ジョンソンにさえトーキーで大きなリードをゆるしたくはなかったのだ。

 テレビ時代になると、ウォルトディズニーはキネスコープではなくフィルムを使うことを要求した。自社のアニメを生き生きしたカラーで見せたいと思ったときは、ABCからNBCに乗り換えた。

もっと優秀なアニメーターが必要だと思ったときには、会社の中にアートスクールを作って、サルバドール・ダリ、グラント・ウッド、ソ連の偉大な映画監督のセルゲイ・エイゼンシュテインなどを講師に招いた。

 リスクの高いクラシック音楽の映画 『 ファンタジア 』 のためには、イーゴリ・ストラビンスキーやジョージ・バランチン、そしてもちろんこの映画でミッキーと共演したレオポルド・ストコスフスキーの協力を仰いだ。
 
 ウォルトは決してインテリではなかったが、20世紀最高の知識人や芸術家たちの力を借りることでディズニー作品の質を高めることを知っていたのである。

 AOLとタイムワーナーのリーダーシップの欠如についても、ウォルトは嘆いていたに違いない。主導権は誰が握っていたのだろう。合併の計画がそもそもいつ生まれたか断定するのは難しいが、どうやらレビンがレバーをコントロールしていたようだ。

 ケイスは次のように認めている。

 「 9万人の従業員を抱える企業の会長になるには、私はおそらく適任者ではなかったのだろう。今になって思うと、われわれの誰一人として適任者ではなかった。 」 

 ケイスが合併のすぐ後に約1億ドルの株式を売却したのは無理もない。これについても、ウォルトがディズニーランドや野心的な映画のために自宅を抵当に入れて借金した事実と比べていただきたい。

 ときに険悪な関係になりながらも、兄のロイ・ディズニーがウォルトにカネについてうるさく言ったことで、ウォルトの一見、突拍子も無い夢が、バランスシートや電卓とうまく帳尻を合わせてきたのだ。

 AOLタイムワーナーの幹部による株式売却には、株価の70%もの下落を招いて株主たちを絶望に導いたことを除けば、リーダーシップのかけらもなかった。

 ウォルト・ディズニーは大金持ちになりはしたが、その過程で株主からカネを奪い取ったりはしなかった。彼が生み出した最も大事なキャラクターはネズミとアヒルであって、豚や狼ではなかったのだ。

( つづく ) 

【 億万長者専門学校 】



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2011年09月24日

伝説の経営者たち (20) ウォルト・ディズニー

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 − ウォルト・ディズニーはカリフォルニア州にディズニーランドを開業しました − 

 ディズニーランドのメインストリートに1955年から出店しているカーネーション・カフェは、家族割引を導入したり、子ども向けにピーナッツバター、マシュマロ、ぶどうなどを盛り合わせた魅力的な “ ペインターズ・パレット ” を用意したりして、よく頑張っている。

 だが通りの向こう側にはヒルズ・ブラザーズ・コーヒーがあるが、この店は淹れてからずい分とたったコーヒーを出していた。  

 ウォルト・ディズニーの好きな食べ物はチリビーンズなどの素朴な煮込み料理に限られていて、高級料理より大衆食堂のダイナーのほうが彼にとってははるかに満足できるのだった。

 彼は、サラダにどのフォークを使うべきかで頭を悩ませるタイプではなかったのだ。
2005年にディズニーランドに行ったとき、カーネーション・カフェからかなり年配のヒスパニック系の男がシェフの服装で出てくるのを目にした。

 彼の名札には1955年と記されていた。オープニングの日からここにいるというその男に、私は尋ねた。 「 ウォルトにお会いになりましたか? 」 

 「 もちろんさ 」 と、男は答えた。

 「 彼は毎朝早く来て、あらゆるものを点検して回っていたよ。私は恐ろしくて、大きなスープ鍋の影に隠れていたもんだ。 」 

 長い一日の終わりには、ゲストたちはギフトショップに殺到し、グッズの詰まった大きな袋を抱えてディズニーランドを後にする。高級衣料品も売れている。

 ゲストたちはとても疲れているが、すこぶる満足している。ウォルト・ディズニーは価値をプラスすること、つまり顧客が自分の払った金額以上の価値を受け取ったと感じるようにすることが大切だと考えていた。

 ディズニーランドはエコノミストが 「 消費者余剰 」 と呼ぶもの、すなわち消費者がそれを受け取るためにはもっとカネを払ってもよいと思うだけの割増し価値を生み出さなければならないと、彼は強く主張した。

 ディズニーランドの入場料は63ドル。高いように思えるかもしれないが、近くのレゴランドは、ディズニーランドより営業時間が短く、しかも10歳以上の子どもが楽しめるアトラクションはほとんどないにもかかわらず、入場料は57ドルだ。

 ディズニーランドのゲートには顧客が喜び勇んで詰めかけているのに、レゴランドの顧客の数が収容能力の限界に達するのはめったにないのは当然だろう。

 1950年代には、ディズニーランド、人気テレビ番組、それに 『 ピーターパン 』 『 わんわん物語 』 のような超大型映画があいまって、ディズニーの売上高は8倍に増えて5800万ドルを超え、利益は5倍近くに増大した。

 ディズニーの事業は人々を魅了し、ソ連がスプートニクの打ち上げに成功したときアメリカを襲ったパニックを和らげる効果すら果たした。 『 ソ連が先に宇宙に行ったからって、それが何なんだ。アメリカにはディズニーがある 』 というわけだ。

 ロシアのプロパガンダ機関は、ディズニーはフロンティアランドで本物のインディアンを捕虜にしていると主張し、ディズニーをおとしめようとすらした。

 だがモスクワのひどいプロパガンダにもかかわらず、1955年に訪米したニキータ・フルシチョフは、ディズニーランド訪問を取りやめて代りにニクソンとの会談を入れたことで、側近を叱りつけたのだった。

          ( つづく )
       ( 引用: 『 伝説の経営者たち 』 )



【 億万長者専門学校 】



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2011年09月17日

伝説の経営者たち (19) ウォルト・ディズニー 

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  − ウォルト・ディズニーはいよいよ、カリフォルニア州にディズニーランドを立ち上げました − 

 彼らはたとえディズニーランドの列車の家畜運搬車に閉じ込められていても、トム・ソーヤーの島に置き去りにされていても、熱烈に手を振って笑顔を振りまくように指示されていたのである。

 ウォルト・ディズニーとスタッフたちは後にこのディズニーランドの開業日を ” ブラック・サンデー ” と呼んでいたのである!

 ディズニーランドのオープニングにケチをつけたのは、虐げられて怒り狂ったネズミたちだったかもしれない。

 このテーマパークは、裕福なカリフォルニア州のオレンジ畑だったところに建設されたのだが、作業が始まってオレンジの木がブルドーザーでなぎ倒されると、そこにネズミが群がってきた。すると作業員たちは、ネズミをやっつけるために猫を放ったのである!!

 ミッキーマウスの家が猫にネズミを追わせるところからスタートしたとは、なんという皮肉だろう。

 オープニングの日こそさんざんだったが、ディズニーランドは開園から半年でナント100万人の入場者を引き寄せ、華々しい成功の道を歩みはじめた。

 1980年代には年間1000万人のゲストを集め、東京ディズニーランドも開業させ、唯一の競争相手はフロリダ州、オーランドのディズニーワールドだけだった。

 メインストリートUSAの郷愁をさそうたたずまいは、訪れた人たちを − たとえインターステート5号線の大渋滞に巻き込まれた後だったとしても − 温かい気分にさせ、おまけにショッピングしたい気分にまでさせた。

 つまるところ、メインストリートUSAは、単なるアメリカの街並みではなく、ディズニーブランドの商品を販売する店が軒をつらねているアーケードなのだ。

 ウォルト・ディズニーは企業パートナーにも出店させているが、それらの店の成功の度合いは店によってまちまちだ。みるところ、お土産物店と比べると、レストランはおおむね苦戦している。

 また、メインストリートの他の店では、ディズニーランドもそのパートナー企業も、両者の関係をどうやってウィン・ウィン状態 ( お互いに勝利する関係 WIN-WIN Situation ) に持っていけばよいのか分かっていないようなありさまだった。

    ( つづく ) 

 ( 引用: 「 伝説の経営者たち 」 ) 


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2011年09月10日

伝説の経営者たち (18) ウォルト・ディズニー

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 ウォルト・ディズニーは、アメリカ人の大多数が白黒テレビで満足していた時代にカラーテレビのすばらしさを教えることによって、家電メーカーに何よりも大きな追い風を与えた。

 例によって、ウォルトディズニーは最先端の技術を探し求めていた。ウォルトはABC放送と決別してNBCと手を組むことにする。NBCは親会社のRCAのおかげで、カラー放送に優位にたっており、1955年にはすでにバレー 『 眠れる森の美女 』 の講演を生放送していた。

 チャイコフスキーを売り込むことができたのなら、NBCはウォルト・ディズニーのためにも奇跡のような成果を実現できるはずだ。

 ディズニーとネットワーク局は、今度もまた新番組のために分かりやすくて効果てきめんな名前を選んだ。 『 ウォルトディズニーのすばらしいカラーの世界 』 は1961年にスタートし、それを見た多くの家族がカラーテレビを求めて地元のRCAビクターの販売店にかけこんだ。

 1960年代の子どもなら誰でも、 『 すばらしいカラーの世界 』 を白黒で見ていたら、わびしい気分になっただろう。加えて、この番組にはスポンサーがもう一社ついた。世界をカラーにする勢いを加勢していたイーストマン・コダックである。

 ウォルトディズニーのところには幸運が自ずと寄り集まってくるかのようだった。

 アナハイムのディズニーランド

 映画とテレビ番組の人気のおかげでディズニーランドはもちろん大成功となり、兄のロイ・ディズニーを含めて成功を疑っていた者たちは、古い先入観を捨てなければならなかった。

 ウォルトというディオニュソスに対して、ロイ・ディズニーは常にアポロのように行動し、ウォルトの凶暴な、だが輝かしいイマジネーションに理論と体系を押し付けようとした。

 1955年7月17日のオープニングの日には、ロイは 「 やはり自分が正しかった 」 と思ったかもしれない。ABCのカメラが回るなかで、しかもそのテレビ中継のホストの一人はロナルド・レーガン元大統領で、ディズニーランドにケチがつき始めたからだ。

 暑さでアスファルトが溶けて靴にベトベト張りついたり、ガス漏れのためにトゥモローランドを閉鎖せざるを得なくなったり、ニセのチケットが出回ったり、トイレと水飲み場が少なすぎて訪問客に不満を抱かせたのである。

 家でテレビを見ている人たちには醜態を見せないために、ディズニーとABC放送はそうした失敗からカメラを遠ざけて、もっぱらディズニーのスタッフとその家族に向けた。

 彼らはたとえディズニーランドの列車の家畜運搬車両に閉じ込められていても、トムソーヤーの島に置き去りにされていても、熱烈に手を振って笑顔を振りまくよう指示されていたのである。

 ウォルトとスタッフたちは、この日を後に ” ブラック・サンデー ” と呼ぶことになる。
 
    ( つづく ) 

 ( 引用: 「 伝説の経営者たち 」 ) 

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posted by ヒデキ at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 伝説の経営者たち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする