2017年02月25日

アメリカの不動産王 Donald Trump (3)

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 わたしの中にはもうひとつ、美しい不動産開発に対する情熱が存在する。この情熱は、わたしの成功の主要因と言っていい。建設と不動産開発の世界は、要件が過酷であることと、困難がつきまとうことで知られている。

 事故の危険を内包する建設業では、最新の注意が必要とされ、行き当たりばったりは通用しない。思いがけない出来事という言い訳は許されない。しかし、細心の注意を払いつつ綿密な仕事をやり遂げる、というむずかしい仕事をわたしは愛している。

 愛しているからこそ、上手にやり遂げられる。わたしはこのアプローチ手法を、あらゆる分野で採用している。

 わたしの会社 ( トランプ・オーガナイゼーション ) に入社したばかりの新人が、会社の方針に異を唱えたことがあった。我が社が行っている入念な物件チェックに対し、なぜそんなに時間をかけるのかと疑問を呈したのだ。

 当時の我が社は、すでに確固たる地位を築いていた。所有するビル群も広く知られ、高い称賛を受けていた。しかし、我が社は決してチェック体制をゆるめない。

 わたし自身もときどき現場へ出向き、内部をざっと視察している。くだんの新人が理解できなかったのは、我が社独自の水準を維持するには努力が必要であり、この努力が我が社をトップに君臨させているという点だ。

 結局は無駄になるかもしれないが、我々はこの努力を必須のものとみなしている。
 わたしは未開発の一角を買収して、絢爛豪華な街並みを作り出すのが好きだ。女性にかんしても、仕事に関しても、仕事の手際に関しても、美しさと優雅さはわたしの情熱をかきたてる。

 美とは単なるうわべだけのものではなく、単なる見た目のかわいさでもない。美とは様式から生み出されるものであり、深遠から湧き出してくるものである。

 わたしの中では、様式に対する情熱と、成功とは、渾然 ( こんぜん ) 一体となっている。片方だけならわたしは要らない。

 ニューヨーク市のトランプタワーに入ると、わたしは自分でつくった壮麗な吹き抜け空間の眺めを楽しむ。大理石張りの内装と、落差25メートルの滝に目を奪われ、感嘆の声をあげる人々。

 並はずれた美にスリルをおぼえ、並外れた美を称賛しているのだ。わたしは彼らを見るのが好きだ。彼らとのあいだには共鳴作用がおきる。初めて会う人たちなのに親近感を抱くのは、トランプタワーを建てたときのわたしと、同じ感覚を共有しているからだろう。

 実を言えば、わたしもトランプタワーや、アトランティックシティの “ トランプ・タージマハール ” や、 “ 40ウォールストリート ” などの建造物を見ると、観光客たちと同じようにクラクラとめまいを感じる。

 わたしが築き上げたこれらの建物は、美と様式に対するわたしの情熱の結晶であり、この情熱に人々は反応を示してくれているのだ。様式は人々の心を突き動かす。

 偉大な成功者たちは、極端ともいえる様式を備えている。目をみはるような美しいビルを建てるという行為は、わたしたちに心の底からの興奮と、巨大な障害を乗り越えるための力を与えてくれる。

 わたしは成功について講演をするとき、最初にひとつのテーマを取り上げ、あとは自然の成り行きに任せるようにしている。この最初のテーマとは、

 “ 自分の仕事を愛せよ ” だ。

 わたしの周りにいる成功者たちは、 “ 自分の仕事を愛するがゆえに成功した ”。
自分の仕事を愛していれば、一生懸命働く気になるし、あらゆる面でハードルが下がる。

 もしも成功を望むなら、食べるために働かざるをえない状況でも、あなたは仕事を愛していかなければならない。

 わたしの友人スタンは、非情な家庭で生まれ育った。彼の父親は卑劣さと、凶暴さと、残酷さをあわせもち、困ったことに、他人に対してはとても人当たりが良かった。

父親はタフガイとして知られ、巨万の富を築き上げたウォール街の伝説的人物。私は父親とも息子とも友好関係にある。息子との友達づきあいには問題はないが、父親とつきあうのはできれば遠慮したい。

 スタンは父親とウォール街で働いていたが、彼の仕事ぶりは悲惨の一言に尽きた。あるとき、彼の妻がわたしに電話をよこしてこう言った。

 「 ああドナルド、あの人はみじめで不幸な人生を送っている。すべてがうまくいかないのよ。結婚したのは間違いだった。何もかもが失敗だったわ。 」

 わたしは 「 なんでこんな話をするんだ。わたしにできることは何もないぞ。 」 と答えた。スタンはウォール街で挫折し、ウォール街の仕事に嫌気がさしていたが、父親を失望させたくないため、仕事を辞めることはできなかった。

 スタンはニューヨーク郊外の超有名ゴルフクラブのメンバーだった。当時このクラブでは、美しいゴルフコースの改修が行われることとなり、工事の責任者にスタンが選出された。

 彼が選ばれたのは手腕が認められたためではなく、クラブのメンバーたちに好かれていたからだ。
 あとでわかることだが、スタンには思わぬ才能があった。彼は毎日、朝5時にはコースに出て指揮をふるい、請負業者の尻を叩き、進捗状況を監視した。そして、改修工事を予定より早く完了させてしまった。

 工期は1年から半年に短縮され、コース状態はメンバーの期待の10倍改善され、費用は予想よりも少なくすんだ。私は彼に感嘆して言った。

 「 スタン、君には驚かされるよ。 」 
   スタンはヒーローになった。
 ところが、この出来事のあと、スタンはウォール街へ戻り、また落ちぶれた生活を始めた。絶望した彼から電話を受けたとき、わたしは職業選択が間違っていることを伝えた。

 スタンはどん底まで落ちた。ようやく一念発起してウォール街の仕事を辞め、建設業界に転身したのは3年前。現在の彼は、新天地で驚くべき実績をあげている。スタンを成功へ導いたのは仕事愛だ。

 ウォール街並みの稼ぎとはいかないが、彼は幸せな生活を送り、自分の仕事を愛し、朝起きることを楽しみにしている。

 スタンは新たな気持ちで再出発し、別人に生まれ変わることができた。それもこれも、
 因習やしがらみに反逆し、自分の人生の支配権を取り戻し、変革する根性があったからである。
 もし人生が望みどおりに進んでいないなら、恐れずに自分に尋ねてみるといい。自分は本当に好きな仕事をしているのか、自分に適した仕事とはなんなのか、と。

 あなたが何歳だろうと関係ない。 他人の物差しではなく、みずからの感覚、野望、目標を尺度にして,,,この先はメルマガ ”熱血日記” を購読してお楽しみ下さい。
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2017年02月11日

アメリカの不動産王(2) Donald Trump

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 1970年代の初め、ニューヨーク市が深刻な財政難におちいっていたころ、42丁目のグランドセントラル駅周辺は急速にさびれはじめていた。ほとんどのビルが抵当流れの状態だった。

 特に < コモドール・ホテル > は老朽化がひどく、赤字を垂れ流すだけでなく、浮浪者のたまり場になってしまっていた。誰かが早急に手を打たなければ、一帯がスラム化するのは必至だった。

 このホテルで一儲けできることはわかっていた。しかし、わたし独自の色 − 醜いぼろホテルを快適で美しい場所に変える − が出せなければ、わたしがかかわる意味などない。

 わたしは < コモドール・ホテル > を瀟洒な < グランドハイアット > に改装し、それをきっかけに一帯の再開発にとりかかった。再開発はわたしに富をもたらしてくれている。

 何をするときでも、あなたは情熱を注ぎ込む対象として、金を超越した使命や大目標を見つける必要がある。高みに至るには、拝金主義者の強欲さと排他性を捨て去らなければならない。

 視野を広げ、全体像を眺め、自分には何が提供できるかを見定めるのだ。可能な限り多くのニーズを満たしてほしい。可能な限り多くの人々のために、美や、健康や、効率性や、安全性や、生活の糧を創造してほしい。

 “ 人生ででっかいことを成し遂げたいなら、とてつもなく大きな熱意と情熱を持っていなければならない。 ” どんな仕事であろうと、職務の正しい遂行には情熱が必要だ。

 ドアマンもウェイターも受付係も、熱意をもって来訪者の対応に当たらなければならない。あなたが今どんな職業に就いていようと、情熱的に取り組んでいれば奇跡はおきる。

 正しい人物とめぐりあい、その人の目に留まるのだ。わたしは何度もそういう実例を見てきた。崇高な目標を見つけ、衷心からそれを追い求めれば、おのずと道は開けてくる。

 情熱がなければ人生は輝きを失う。情熱が与えてくれる肝っ玉は、 
“ 決してあきらめない ” ことを可能にする。
 
 < グランドハイアット > の成功には、献身、粘り強さ、激務という高い代価が必要だった。さまざまな難題に立ち向かうとき、 
 「 醜いものを素敵なものに変えたい 」 と願う情熱は、わたしに前身を続ける力を授けてくれた。そして、多くの人々と理想を分かち合うことを可能にしてくれた。

 では、情熱を注ぐ対象はどうやって見つけ出せばいいのか? 次の方法を試してほしい。
 @ しばらくのあいだ、論理的評価と判断はわきに置いておく。心の奥深くに問いかけ、自分はどんな仕事がしたいのかについて夢想を繰り広げる。人生で何かひとつ成し遂げるとしたら、いったい何を成し遂げたいか?
 
 時の経つのも忘れるほど、楽しくて没頭してしまうことは何か?
 給料をもらわなくてもいいと思えるぐらい、楽しくてたまらないことは何か?
 何をやり遂げたときに、大きな満足感を感じるか?
 何をしているときに、ぼーっとのぼせ上がり、恍惚状態に入ることができるか?

 A ここで現実に戻る。
 自分が愛することができる仕事とは、自分にとって可能な仕事であり、自分にとって得意な仕事である。だから、あなたは自分の長所を探り出し、自分の得意分野を見つけ出し、自分独自の才能について考えればいい。
 
 B そしてこの検討を行う際には、そう、でっかく考えるのだ!
 びっくりするほどの偉業を思い浮かべ、仕事から得られる喜びと満足感を思い浮かべるのだ。
 
 好きな仕事をしているとき、仕事は仕事の域を超える。活動自体がエネルギー源となるのだ。アップルとピクサーの共同創業者スティーブ・ジョブズは、コンピューターに情熱を注いでいた。

 彼は最高の技術者ではなかったにしろ、情熱の大きさでは誰にも負けない。この情熱こそがジョブズを現代最高の革新者に仕立て上げていたのである。

 “ 夢想家よりも実行者に ”
 情熱は頭脳や才能よりも重要だ。頭脳と才能に恵まれた人々が、情熱の欠如ゆえに失敗した場面を、わたしは何度も目にしてきた。言うなれば、 “アイデア倒れの人々” である。

 きっとあなたの周りにも、そういう人がいるはずだ。いつもすばらしい新アイデアにあふれ、いつか実現しようと考えているが、結局、アイデアが実現されることはないという人々。

 彼らのアイデアは頭の中にとどまり、決して心では感じない。そして、“ 心がないアイデアは、はかなく消える。 ” アイデアとは、それ自体では弱々しく、あいまいなものである。

 アイデアをコンクリートと石とガラスに変換するには、とてつもない大きな情熱が
必要となってくる。

 あなたはアイデアの足を地につけさせなければならない。アイデアが消えてしまう前に、情熱という重しで引き止めなければならない。情熱は魔法の調味料だ。

 あなたの使命がなんであろうと、情熱は競争のための激しい駆動力をあたえてくれる。才能に恵まれていない人々が、ハイオクの情熱で大成功するのを、わたしは何度もまのあたりにしてきた。

 私は情熱を父から学んだ。世間の人々はよく、
 「 建設のノウハウはお父上から学んだのですか? 」 と質問してくる。
 建築にかんするすべてを父から学んだのは確かだが、わたしが父から具体的に学んだのは、ノウハウなどではない別のものだ。父は土曜も日曜もなく、一週間に7日間働いた。

 父は仕事を愛しており、その意味で幸せな男だった。父は仕事に出ると、所有物件をくまなく見て回り、きれいに掃除されているかを確かめた。 “ 作り立て ” という表現を好んで用い、物件が “ 作り立て ” の状態でないと気がすまなかった。

 現場めぐりは週末も祝日も行われた。しかし、父はそういう生活を愛していた。ニューヨークの下町地区では建設業を営むには、1セントの無駄も許されなかったのだ。

 父は、通りの向かいで同規模のアパートが建設されていても、相手より早く、相手より安く、相手より良いものを作った。

 相手方が撤退を余儀なくされると、父はそのアパートを買い取り、改装したのちに自分で売った。仕事が幸せにつながる可能性を、わたしは父から学んだ。

 仕事に対する情熱も、わたしは父から教わった。仕事に対する情熱が大きすぎるために、わたしは1日に3〜4時間しか...
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【 トランプ思考 】
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2017年01月22日

アメリカの不動産王、Donald Trump

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日本で不動産王と言えば、三菱地所や、森ビル、森トラスト率いる森兄弟が挙げられるが、アメリカの不動産王といえば、ドナルド・トランプが一代で巨大不動産コングロマリット(財閥)を作った王として有名だ。

 ペンシルバニア大MBA(経営学修士) ウォートン校を出た後、父親の経営するブルックリンの小さな不動産会社で修行をしたのち、だれの助けも借りずに一人でマンハッタンに打って出て、はったり倒しのダブルのスーツやほら話で取引相手を巧みに信用させ、大きなディールを次々とものにして業界の王者に君臨した。

 マンハッタンにはトランプタワーをはじめ、彼の手掛けた高層ビルや商業施設が多くある。
 一度は90年代の米国不動産不況で壊滅的な打撃を受け、700億ドルの借金(約8兆円の借金)を負ったほとんど瀕死の状態であっても、 「 次はもっと大きなディールを決めなきゃいかん。 」 と言ってのけ、ポジティブ・シンキング(積極的思考)を片時も忘れなかった米不動産業界の大物。

 自己顕示欲が強く、テレビ番組 “ジ・アプレンティス(丁稚小僧)” の出演者としても有名で、
「 一文なしになっても億万長者になれますか? 」 と聞かれたところ、
「 もちろん。僕は次はきっとネットワークビジネスでもやるよ。」と、シャーシャーと答えたという。
 文字通り裸一貫からアメリカの不動産王にのし上がった彼の軌跡と成功哲学を追う。

 “ 情熱、情熱、情熱! ”

 自分の仕事を愛していなければ、どんな分野であろうと成功はおぼつかない。自分の仕事を愛していれば、あなたはもっと一生懸命働き、もっとむずかしい問題に挑み、もっと上手に苦境を切り抜け、もっと楽しく人生を過ごせるはずだ。

 大切なのは、自分のビジネスをよく知ることと、自分の仕事を愛すること。このふたつは、多くの問題を解決してくれる。私の処女作 『 トランプ自伝 』 から、最初の一節を引用しよう。

 「 わたしは金のためには行動しない。金なら使いきれないほど持っている。わたしの目的は行動そのものだ。ビジネス取引はわたしの芸術表現であり、ほかの人がカンバスに美しい絵を描いたり、美しい詩を書いたりするのと同じである。

 わたしは取引を成立させることが好きだ。成立した取引がでっかければなお良い。私はこのやり方で快楽を得ている。 」 

 20年後の現在も、わたしはでっかい取引を続けている。そして、今もなお同じやり方で快楽を得ている。
 この手法は効果的だ。じっさい、好きなことに情熱を傾けているうちに、私のもとには大金が転がり込んできたのである。現在のわたしの財産は、処女作を書いた当時よりもふくらんでいる。

 わたしは自分の仕事をこよなく愛しており、この感覚は何物にも代えがたい。ときどき、わたしは夜眠れなくなる。
 “ 早く起きたい、早く仕事に行きたい、と思うと眠気が吹っ飛んでしまうのだ。 ”

 処女作を出版して以来、わたしは何度かつらい時期を経験し、90年代初頭にはほとんどすべての財産を失った。しかし、どうにか難局を切り抜け、生き残りを果たし、再び繁栄を手にした。今日、わたしの不動産ビジネスは空前の活況を呈している。

 運命はわたしを予期せぬ方向へも導いた。わたしはテレビ界で 『 ジ・アプレンティス  (丁稚奉公) 』 というリアリティ番組を大ヒットさせ、NBCで放映される二大美人コンテスト、 “ミス・ユニバース” と “ミス・アメリカ” の開催権を獲得したのだ。

 わたしがこれらのプロジェクトに参加した動機は金ではない。じっさい、どのプロジェクトにも、私から参加を申し出たことはない。

 しかし、仕事に対するわたしの情熱の深さは広く世界に知れ渡っており、毎日情熱を注ぎつづける姿勢は、新しいプロジェクトにふさわしいと判断された。

 だからこそ、みんながわたしに声をかけてくれたわけだ。ただじっと座ったまま、取引や、チャンスや、幸運を待っていても、何も始まらない。

 あなたは好きな仕事に情熱を傾ける必要がある。いったん弾みがついてしまえば、流れはあなたに有利に働き、あなたの進む道には、吉事が次々と訪れるだろう。

 もしも金が唯一の目的なら、わたしは大切な仕事をいくつか逃していたはずだ。たとえば、金銭的利益のみで意思決定を行っていたら、セントラルパークのウォルマン・スケートリンクの改修には手を出さなかった。

 50年ほど前に作られたこのスケートリンクは、1980年、改修のために閉鎖された。市当局は数年の時間と2000万ドルの費用を注ぎ込んだものの、1986年になっても工事終了のめどはまったくついていなかった。

 わたしはニューヨーク市を愛していた。そして、マンハッタンのど真ん中にあるすばらしいレクリエーション施設を、市民のために復活させたいと思った。わたしは大規模なビルを2年以内に完成させてきた。

 スケートリンクの改修なら数か月で仕上げる自信があった。ニューヨーク市の時間と金を節約するため、わたしはこのプロジェクトを請け負った。このときの動機は儲けることではなく、サービスを提供することだったのである。

 “ 情熱をみつける ”

 どうすれば金が稼げるか、などと考えてはいけない。自分には何が創造できるか、自分にはどんなサービスが提供できるか、という点をあなたは考えるべきだ。

 地元のコミュニティや地元の人々のために、どんな有益なサービスが提供できるか? どんなニーズに応えられるか? もっと良いやり方はないか? もっと効率的なやり方はないか? どのような問題を解決できるか?

 “ 中でもいちばん重要なのは、何をすれば自分は楽しめるかという点だ。 ”
 もちろん、ただで仕事をするわけにはいかないし、価値あるものを提供できたなら、堂々と報酬を受け取ればいい。人生という名のゲームでは、金は得点の役割を果たす。しかし、真の楽しみは...

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【 トランプ思考 】


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2016年03月27日

伝説の経営者たち 

伝説の経営者たち

孫正義 「苦難に対峙、突破を快感に」

 米携帯電話3位のスプリントを買収したソフトバンクの孫社長が自身の信念についてインタビューで語っていました。どうやって苦難を突破するか、経営者に求められる資質について語ります。

 孫さんが投資をする基準は?

「 僕には2つの信念がある。技術が優れていることとローカルで勝てること。技術が優秀なら世界で通用するし、サービスやコンテンツはローカルチャンピオンが強い。

 だからローカルの正しいリーダーを見つけることが大切。最も大事なのはその人物が情熱とアイデアを持っていることだ。」

 スプリントのように買収後にすぐ軌道にのらないこともありますが、どうやって難題を突破するのですか?

 「解決策が見えない時は苦しいものだ。頭の中で七転八倒し、胃もキリキリと痛む。そういうときはもうとことん苦しみ抜き、考え抜くしかない。酔っぱらったりして一時的に忘れても意味が無い。

 解決策が浮かび、実現した時に初めて心が解放される。事業家として一番の快感を感じるときだ。

 解決策を見出す秘訣は、経営者が現場と同じ次元、同じ目線で本気でケンカすることだ。僕もスプリントのエンジニアと電話会議で机をたたきながら 『どうして分からねーんだ、バカヤロー!』 と言い、向こうも真剣に言い返してきた。

 大切なのは現場の一番詳しい人間に聞くこと。本当は管理職に聞くべきだろうが、僕は 『おまえのまた聞きじゃ分からん』 と無視する。

 本音でぶつかり合うのが大事で、きれい事だけでは物事は解決しない。すでにスプリントの解決策は見えた。今や連中とはめちゃめちゃ仲が良いですよ。」

 アローラ氏を後継者として選びましたが後継者としてどのような資質を見出したのですか?

 「第一にハンティング能力。獲物を追いかける能力と気概があり、高い志をなんとしても達成するのだという強い意志がある。第2に先を読む能力だ。過去を論評するのは簡単なんだ。

 僕は彼のグーグル時代に交渉相手としてその才覚を見抜いた。タフな相手だったが、自分は何を得て相手に何を譲るか、そのプロセスの中で頭の良さが分かった。たくさんの人と交渉してきたが、彼が断トツだ。」

 手本とする経営者はいますか?

 「日本では本田宗一郎さんが一番好きだ。本田さんの誕生日にお祝いしたら、自宅のパーティーに招いてくれた。

僕は若くて無名。そこには偉い人たちがたくさんいるのに本田さんは僕に 『パソコンって何だ』 『CPU(中央演算処理装置)って何だ』 『それが進化したらどうなるんだ』 と次々に質問を浴びせてくる。

説明すると目を輝かせて 『そうか! すごいな!』 と本気で感動してくれた。僕はその姿を見たときに 『ホンダが伸びてきた理由はこれだな。』 と思ったよ。あんなに感動されたらエンジニアは、このオヤジさんを喜ばせたい、と思っちゃう。」

 優れた経営者の共通点はありますか?

 「 頭の良い人や商売の才覚を持った人はいっぱいいる。でも成功した人に共通するのは高い志をもっていることだ。それはどの時代も同じ。志がないと命懸けで一緒に旗を上げようと言う同志は集まらない。」

「 今まで会った中で一番たいした奴だなと思ったのは。。。
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2015年11月15日

「体が動かせなければ頭を動かす」 上場をめざす24歳の寝たきり社長

佐藤仙務.jpg

− 身体障がい者に働く場を!

 今日は僕の誕生日です。また新しい一年がやってきました。新しい一年をどう過ごすか考えていますが、そんな自分に勇気の与えてくれる物語(実話です)がありますので皆さんにもご紹介します。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 「こういう本を出しています! 安倍総理にもご一読いただきました」と勢いがいい青年がいる。 『寝たきりだけど社長やってます』(彩図社) というタイトルで、要は自著を読んで欲しいという“セールス”。メッセージの主は愛知県東海市で名刺とウェブサイト制作をしている会社「仙拓」の社長、佐藤仙務(ひさむ)さん(24)だった。

 ”10万人に1人の難病「SMA」”

 「寝たきり社長」とはどういうことかと、その場で佐藤さんのことをネットで調べてみると、生後間もなくSMAと診断され、ずっと寝たきりの生活をしているらしいことが分かった。

SMAというのは、脊髄性筋萎縮症のことで、筋肉を動かす神経に問題があり、体を動かせず、筋肉が萎縮してしまう病気だ。似たような病気にALS(筋萎縮性側索硬化症)がある。「乳児期から小児期に発症するSMAの罹患率は10万人あたり1から2人」(難病情報センター)だといい、佐藤さんはこの一人だったというわけだ。

 佐藤さんの本は、いわゆる“闘病記”ではなかった。障がいを乗り越えて、会社を設立していく1人の青年の成長譚(たん)でもあり、会社を経営していくなかで働くことの意味や障がい者と世の中との関わりを問う内容でもあった。

体も頭も動くのに、自分自身に負けてしまうことがどれだけ多いことか。この本には、随分、励まされた。

 ”寝たきりの社長をITが支える”

 佐藤さんとのインタビューが実現したのは、半年後の11月。アパートを間借りした「仙拓」のオフィスを尋ねた。佐藤さんは、部屋に置かれた特製のベッドに“着席”している。

体は仰向けで、見上げた先にはパソコンのディスプレイがある。ウェブカメラもついていて、こちらはスカイプ(ネットの通話ソフト)などで使う。エアコンやDVD、部屋の照明もここから操作できるらしい。

 佐藤さんは体の自由がほとんど利かない。話すことはできるが、わずかに動くのは右手と左手の親指だけ。佐藤さんの体に合わせて、父親が入力デバイスを作ってくれた。

右の親指でトラックボールを操作し、左の親指で左クリックを押している。文字の入力は、ディスプレイ上のスクリーンキーボードを使い、パソコンを操作する。『寝たきりだけど社長やってます』はこうやって書かれた。

 「この状態で文章を書くのはさぞ大変だったでしょう?」と聞くと、「そうでもないですよ」と言って、テキストエディタを立ち上げ、ソフトウエアキーボードで文字を打っていく。予測変換機能や学習機能は大したもので、「お」と入れれば「お世話になります」が候補にあがってくるなど、自分がよく使う単語はもちろん、辞書登録していない言葉まで候補に出てくる。

「Google日本語入力を使っています。これを使うと、ほかの入力ソフトは使えないですね」と、どんどん文字を入力していく。ブラインドタッチのように速いわけではないが、慣れない高齢者がキーボードを打つスピードより速い。

 佐藤さんの仕事を支えているのは、このパソコンだ。業務用のメールを打つのをはじめ、領収書や請求書の処理までここでやってしまうし、ネット経由の“飛び込み営業”までこなしてしまう。

こうしたITが、重度障がい者の社会進出を支えていることを目の当たりにすると、本当に良い時代になったなと心から感じる。佐藤さんも「パソコンの向こう側にいる人たちには、僕が障がい者だとは分かりませんよ」と笑う。

 ”健常者に近づかないといけないのか? ”

 道具は進化しても、社会の仕組みや人々の意識はまだ進化していないのかもしれない。佐藤さんが自分で会社を作ったのは、単純に「重度障がい者の働く場所がなかった」からだ。

 佐藤さんが、養護学校の卒業を間近にひかえた2009年夏、就職先にと考えていた授産施設の実習にでかけた。作業の終わり際に60歳代の車いすに乗った男性に出会う。

 男性はこう言った。「ここから1人で帰るんだろうな」。全身が動かないのに一人で帰れるはずがなく、送り迎えは母親がしてくれる。なぜ1人で通えないかを説明するが、男性がたたみかけてきた。「親が甘やかしやがって……。1人で通わせろよ」「お前みたいな軟弱障がい者、ろくな人生送れない」。

 親をバカにされたようで、怒りが収まらない。親に迷惑をかけている自分にも腹が立ってきた。佐藤さんが、ここで直面したのは「障がい者が健常者に近づこうとする現実」だった。「健常者に近づこうと自分を追い込まなくてもいいじゃないか」と感じた。

 ”体が動かなくても関係がない。「仙拓流」の営業とは”

 結果、この施設に就職することはやめ、障がい者支援施設に通うかたわら、日本福祉大学(愛知県美浜町)にも通う。働くことを諦めきれない佐藤さんは、2011年5月、その施設で同じ障害を持つ松元拓也さん(26)を誘って共同で「仙拓」を設立することになる。

「普通の会社で働こうとしたら、会社は介助者を雇わなければなりません。そうすると気持ち、人の二倍の仕事をしなければなりません。それは重いでしょう?」。

 松元さんは「仙拓」の副社長で、ウェブや名刺のデザイン担当。佐藤さんは営業部長のような存在だ。はじめのうちは、身内を頼って名刺を発注してもらう程度だったが、今は違う。

ネットを見て、つながりたいなと思った人にはネット経由でコンタクトをとる。体が動かないからその後の商談ができないということはない。来てもらえばいいし、そこまでやらなくてもスカイプでやりとりすればいい。これが「仙拓流」の営業。

 体が動くとか、動かないとか関係がない。まぁ、とにかく、熱心にいろんな人とコンタクトをとる。

安倍晋三首相や昭恵夫人をはじめ、イタリア料理店「LA BETTOLA (ラ・ベットラ)」 の落合務シェフ、そしてテレビや雑誌、ウェブメディアに声を掛けるPR活動も怠らない。いまはTBSのドキュメンタリー番組の密着取材も受けている。

 「障がい者が社長を務めている会社はほかにもありますが、実際は健常者が経営をしていることがあります。『仙拓』は違います。ただ、障がい者が会社をやっているということで有名になって、それだけで仕事が回るほど世の中は甘くはありません」と佐藤さん。

 ”アプリの開発にもチャレンジしてみた ”

 佐藤さんと話をしていると、難病の患者であることをまったく感じさせない。ポジティブでアグレッシブにビジネスに取り組む青年実業家のイメージしかない。

彼の悩みは体が自由に動かないことではなく、会社をどう大きくしていくかということにある。収益の多様化は検討事項の一つで、昨年はスマートフォンのアプリ制作にも取り組んだ。

 「普通なら、障がいを持った人でも操作しやすいアプリとか出すと思うでしょう? それも考えたんですが、僕らは体が不自由だから、人の歯を磨くことができないなと思って作ったのがこれです」と紹介してくれたのが、iPhone用のゲーム「おおきく口をあけて!歯みがき日和」だ。

 「帰りの新幹線で遊んでみるよ」と伝えたら、「止めたほうがいいです。絵と音が恥ずかしいですから」と笑われた。

東京に戻ってきて、アプリをインストールして遊んでみたけれど、そのアドバイスに感謝した。歯を磨いてあげると、いわゆる「萌え系美少女キャラ」が「センパイ!」「ええっ!?あっ、いや!そこまではちょっと」などとアニメ声で反応する……。

 ゲームのプロデューサーを務めたのが松元さん。松元さんが構成や進行を考え、名古屋市の IT特化型障害者就労移行支援事業所「テリオス」にプログラミングを依頼、声優さんを雇って音声を録音してもらった。

アプリは1万ダウンロードを超えたものの、掲載される広告で収益を上げるには厳しかった。「黒字にならなくても、開発費用くらいはペイできればと思っていましたが、それも遠いです」と残念がる。

 「松元がエンターテインメント要素の強いのをやりたいって言うのですが、『仙拓』と目指す方向性違うから……」と2014年12月、松元さんが代表を務めるアプリ制作子会社「ムーンパレット」を設立した。現在もゲームアプリを制作中で、近くリリースする予定だという。

 ”障がいを持った社員が活躍できる場を作りたい ”

 会社設立初年度の売上は約76万円だったが、2014年の年商は約300万円へと成長した。「障がい者雇用を進めていきたい」と言う佐藤さんは、社員が活躍できる場の提供にも熱心に取り組む。

いまでは従業員2人を雇うようになった。いずれも筋ジストロフィー症の重度障がい者だが、ITを駆使しながら在宅で勤務する。

 1人は、大阪に住む大学院卒の37歳の社員。最初、「働かないか?」と声をかけたら、彼に怪しまれたのだという。そもそも難病を抱えていると、働くという選択肢は生活のなかにない。

通院以外に外出しないのが日常なので、就職という「うまい話」が飛び込んでくると「騙されているのではないか?」と感じてしまったのだという。しかも「寝たきりで働けます」と言われたらなおさらだろう。

 「彼はサイトのアクセス解析をしてくれているのですが、本当に給料がもらえるとは思っていなかったようです。でも、口座を見たら実際にお金が入っていた。そのお金で、家族にお寿司の出前をとってあげたらしいですよ。今では『働けるとは思ってなかった、死ぬまで働きたい』と言ってくれて、僕も嬉しくなってしまいました」。

 もう一人の埼玉に住む23歳の社員については、こう話す。「有名大の法学部を首席で卒業したんです。でも、就職活動では『筋ジス』だということだけで『無理』と言われてしまいます。

でも、頭がよくて、成長がすごいんです。ウェブ制作技術のすべてを吸収していく。上司である副社長の松元も『やべぇ』と言って警戒するくらい。こんなに嬉しいことはないですよ」。

 世の中には、部下の成長を嫉妬したり、自分より能力の劣る部下に優越感を感じたりするリーダーや課長がごろごろいる。そういう心理がビジネス実務書のテーマになることだってあるのに、寝たきりのハンデを抱えながら、わずか24歳でその境地に達するものなのか?

 ”「社員全員が障がい者の会社」を上場させる”

 「諦めずに最後までやるタイプ」と自身を評価する。佐藤さんは「体は動かないけれど、頭は人と同じように働く」と言ってはばからない。「会社を作ったときも、1〜2年で潰れると言われたけど、4年続いている。

いまでは上場したいんですよ」と言い始めた。それも社員全員が障がい者の会社。

 「本当に?」と驚いた。「そうやって笑われるけど、何でも言ったことを実現したときの達成感が気持ちいいんです。高校のときは有名人になりたいと先生に宣言しました。今では、こうやってメディアにも取材されるし、有名が実現してきているでしょう?」と言う。

「なると言ったことは、なるんですよ」と話すそのときの表情は、真剣そのものだった。

 最後に、佐藤さんは「僕には運があるんです」と言った。私は「運は努力の結果、勝ち取るものと言いますよね?」と返したが、佐藤さんは「そうではない運もあるとは思いませんか?」と悟ったように言う。

 自分が不自由な体に生まれてきたことをまったく恨んでいなかった。上を向いて、楽観的に構えていると降ってくる運もきっとあるのだろう。佐藤さんは、そんな運のつかみかたを知っているに違いない。

 「下を向いちゃうとチャンスが向こうに行っちゃうから。寝たきりだと下を向けないから。後ろも振り向けないから」。そう笑いながら

 【 『寝たきりだけど社長をやっています』 − 仙拓社長、佐藤仙務 】

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2015年11月01日

伝説の経営者たち 増田宗昭 カルチュア・コンビニエンス・クラブ社長

 【 伝説の経営者たち − 増田宗昭 カルチュア・コンビニエンス・クラブ社長 
大手レンタルチェーンから小売業の革命まで、型破りな社長 】 



  【 はじめて語られる企画の虎の巻 − 増田宗昭 】
  
 『 過去の延長線上に未来は無い』

 『 未来が無い。チャレンジが無い。だったらやろうよ!』 というのが企画会社魂。
 『 時間消費型のビジネスを創る 』 居ぬきで開業する前代未聞の百貨店コンセプト。
 『一人の生活者としての感性を磨くことを怠らない。』 

 凄い日本人がいるものである。

大手レンタルチェーンの TSUTAYA から始まり、蔦屋書店、そしてTポイントを他業界横串的に網羅し、一躍、日本のポイントカードの大手に仕立て上げた実力。

 次に狙うのは小売業の革命として百貨店を買収、改装して時間消費型ビジネスを起こすのだそうだ。TSUTAYA六本木店や代官山TSUTAYAで成功を収めたのだから、次の挑戦も成功するのはまず間違いないだろう。

 増田社長が他業種にわたって成功を収めてきた秘訣には、彼の一貫した哲学がある。
それが企画魂だ。
 『自らの会社をレンタルDVD会社ではなく、企画会社だと名乗る。新しい未来のためにプラットフォームを創るのが企画会社だ。』 というのが彼の真骨頂だ。

 失敗のリスクの高い分野にあえて飛び込んでいく増田社長は、実はオフィスにジーンズとTシャツで現れる、感性多感な人間だ。あえてカジュアルなファッションに身を包む理由は、

 「お客様の気分に沿ったファッションを実践するため。」 だそうだ。

 お客が見るのは売り場だけ。だから、売り場が全て。商売人は売り場にすべてを注ぐべき。その後ろにある “戦略” などなんでもない。 と語る。

 実際、彼が企画を形にするのに使うのは、画用紙と、厚い茶色のスケッチ用鉛筆だけ。
脳に浮かんだイメージを、成功の実現に向けて思うままにデッサンする。まさに感性派の経営者だ。

 彼がたどってきた人生は、まさに波乱万丈の人生だった。

 幼稚園のときに交通事故に遭い、顔がヘコみ、いじめに遭った。
 小学校のときには父が事業に失敗。母親が着物を売って生活費を稼ぐ。

 高校でレスリング部に通い、強い肉体を作ってからはいじめられなくなった。  

 サラリーマンになり、婦人服の会社に就職。
 そして32歳のときにレンタルビデオ店を開業。フランチャイズのビジネスを学ぶ。

 繰り出す策が次々と当たり、600店舗に成長。

 アメリカで始まった多チャンネルの会社に200億円を出資するも失敗。200億円を失い、人生が暗転。髪の毛が抜けやまない。

 後発組のレンタル会社に追いまくられ、崖っぷちに。。。

 ここから先はメルマガ ”熱血日記” をご覧下さい。
 http://www.mag2.com/m/0001646353.html

  
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2015年05月03日

伝説の経営者たち

「世界の山ちゃん」 を作った男、山本重雄 (エスワイフード会長)

 “ 名古屋の繁華街のはずれで焼き鳥 「世界の山ちゃん」 を創業 ”


 小さな丸テーブル二つとカウンターだけ、屋台のような焼き鳥屋が 「世界の山ちゃん」 の始まりでした。海上自衛隊の護衛艦で料理を覚えた後、居酒屋チェーンで働いていた時、お客さんに独立を勧められたのがきっかけです。

 24歳と若かったこともあり、最初の1年間はほとんど休まず働きました。午後6時から翌午前5時まで営業した後、パイプいすの上で寝て、すぐに仕込みという生活でした。

 1981年当時、朝まで開いている店は少なく、ディスコ帰りの若者や、スナックやゲイバーで働く人が来てくれました。

 しかし、暗い路地裏にあったせいか、売り上げが1万円を切る日もザラ。親戚に手伝ってもらい手作りのビラや名刺を街角で配ったり、買い物に行った際にも店を売り込んだりする日々でした。。。

 メルマガ ”熱血日記” 5月3日号で配信しました。購読希望は右側のタブからお申込み下さい。
(月324円)




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2015年04月19日

お金持ちになれる人、なれない人。決定的に違う「10の習慣」

  情報サイトに面白い記事がありましたのでご紹介します! 言われてみると、確かに大金持ちになった人には俗にいうケチ、倹約家が多いと思います。日常を見てもたいして贅沢をしている様子は見られず、「なぜこの人がこんな質素なことを。」と思うことがしばしあります。

 また、他人に親切にしたり、寄付を施すことで廻り回って自分の運気が向上し、成功につながるという話は、今週、別のところで仏教の信仰を学んでいる人からも聞きました。

 経済的に困難な人や奨学金などに寄付を続けていると、なぜかは分からないが自分の成功運が上昇したとか、社会の役に立とうと公共の場を清掃していたら運気が上がったなど、科学的ではありませんが、自然の法則があるのだと思いました。

 自分もそうですが、成功運を向上させるためには、もっと社会や人に尽くして、尽くして、尽くしまくる姿勢が必要だと実感したのでした。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

  世界のお金持ちには、共通の習慣がありました。それは些細なことだけれど、つい私たちが見逃してしまうこと。できそうだけれど、徹底するのは難しいことでした。ここでは、「お金持ちが実践していて、お金のない人ができていない10の習慣」を紹介していきます。

 1. 「 シンプルで質素な生活をする 」

 以前、“契約金2億円の「メジャーリーガー」が、キャンピングカーで月8万円の生活をしている”という話がありましたが、お金持ちになっても質素な生活を続ける人は多いのです。

 例えば、FacebookのCEOであるマーク・ザッカーバーグ氏は、一般的な家に住み、必要最低限のものしか購入しないと公言しています。その代わりに、最近ニュージャージー州の小学校に一億円寄付したのが一番の大きな買い物だったとか。

 彼と一緒にFacebookを立ち上げたダスティン・モスコービッツ氏も億万長者になったものの、マンション暮らしの自転車通勤を続けています。彼は「モノから幸せを得ることはできない」と語り、慈善団体に寄付するために節約までしているそう。
本当のお金持ちは、シンプルで質素な暮らしこそ一番幸せだということに気が付いているのです。

 2. 「 誰もが大きな可能性を持っているモノではなく、自分に投資する 」

 勉強や資格、大切な人との交流にお金を使うことは浪費ではなく、自分への“投資”なのです。成功者は、自分の成長につながることであれば、惜しまずにお金を使います。

 反対に、高級ブランドや流行りの電化製品からは利益が生まれないことを知っているため、モノにお金をかけすぎることはしないのです。

 投資家として有名なウォーレン・バフェット氏は、ほとんどの人は、自分の持つ可能性の一部しか使わずに人生を送っていると指摘しています。さらに、「誰もが大きな可能性を秘めているのです。モノよりも自分に、投資をしてください」と語ります。

  3. 「 結果的に時間とお金の節約になる食事はケチらない 」

 お金持ちは、身体が資本であることを知っているため、少し高くても健康的な食事をとるようにし、きちんと運動をしています。

将来的に病気にかかってしまっては、莫大なお金がかかることになります。健康であるということは、結果的に時間もお金も節約できるのです。

  4. 「 モノよりも、経験にお金を使う 」

 モノを買っても、時間と共にその価値は薄れ、また新しいものが欲しくなるというのが人間の性。一方経験を買うことは、自らの価値観やアイデンティティーを形成する重要な要素になります。

 コーネル大学の心理学教授、トーマス・ギロヴィッチ氏の研究によると、私たちは物質的なもの(家や電子機器、洋服など)を購入するよりも、ライブやコンサート、旅行にいくなどの経験に支払う方が、多くの幸福を得られるといいます。さらに、経験を買った場合は、出費に対する後悔も減るとか。

 旅行やホテル、食事や芸術など少し無理をしてでも一流に触れることで、あなたの想像力や文化度を上げてみてはいかがでしょうか。

  5. 「 なんとなくでお金を使わない 」

 お金持ちは、お金のことをよく知っています。だから浪費はせず、きちんと損得を考え、お金を使います。貧乏人や少しお金を手にした人は、見栄や娯楽のためにお金を使いすぎてしまいます。だから一度大成功をおさめたものの、お金を使いすぎて破産に陥る人も少なくありません。

 先に紹介したウォーレン・バフェット氏は、お金を使った後で、残った分を貯金するのではなく、貯金した後で、残った分を使うことをススメています。

  6. 「 お金を増やすために、使う 」

 お金と縁のない人にとっては、節約だけがお金を貯める唯一の方法です。しかしお金持ちは違います。自己投資をすれば、より優れた知識を持って仕事のレベルを上げられます。家や株などの資産を持てば、利益が生まれます。人を雇って自由な時間をつくれば、より効率的な仕事ができるのです。

 お金は使わなければ減りませんが、増えることもありません。積極的に使うことで、より多くのお金が得られることを彼らは知っているのです。

  7. 「 情けは人のためならず自分から先に、与える 」

 人に親切にすると、相手だけでなく自分の心も満たされます。そして人から好かれるようになり、人望が生まれて恩返しを受けることにもつながります。お金持ちの多くは、与えることで本当の豊かさを手に入れているのです。
成功者になりたいなら、まずは見返りを求めず自分から与えるようにしてみてはいかがでしょうか。

 8. 「 1秒でも決断を早くする 」

ビジネスにおいて大成功をおさめた人は、共通して決断が早いのです。即座にいろいろなことを考える力を持ち、直感に従い、誰よりも早く動くことで、チャンスをものにしています。

なかなか決断ができず挑戦することを諦め、大きなチャンスを逃してしまう人は、いつまでたってもお金持ちにはなれません。
一つ決断力が早いことが成功につながった、有名な話を紹介します。鉄鋼王として君臨していたアンドリュー・カーネギーに、当時25歳の学生だったナポレオン・ヒルがインタビューをした時の話です。

カーネギー:「これから20年間、金銭的援助は一切なしで、世界中の成功者をインタビューしないか?私は、世界的にも有名な成功者を君に紹介する。答えはイエスかノーでよい」 。
 29秒の沈黙・・・

そして、ナポレオン・ヒル「イエス!」
わずか29秒で大きな決断を下し、結果的に彼は成功者の体験をまとめた本を出版し、お金持ちの仲間入りを果たしました。

9. 「 小さな出費を気にする 」

意外かもしれませんが、お金持ちほど小さな出費は気にします。払う価値があると思えば、大金を出しますが、不要なことには一切お金を使いません。

そのため、しばしばお金持ちはケチだと言われることもあるでしょう。1,000円お得だからと衝動で買ってしまうようなことはせず、本当に必要なのかを考えてから購入するのです。

10.  「 アイデアは必ず実現する 」

素晴らしいアイデアを考えることは、難しくありません。本当に必要なことはアイデアを実現する能力なのです。
頭の中だけにあるものに価値はありません。その考えを実際に形にするために、あらゆる努力をする必要があるのです。それこそが価値なのです。

Twitter創業者のジャック・ドーシーも自身のアイデアを最初に思いついたのは15歳の時でした。それをそのままにせず、実行に移したのです。彼は以下のように語ります。

「アイデアは誰だって持っている。本当に大事なのは実行すること。そしてアイデアの実現を助けてくれる仲間を惹きつけられるかどうかだ」

(引用: Tabi Labo)

 【 思考は現実化する − ナポレオン・ヒル 】


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2015年03月14日

伝説の経営者たち マーク・ザッカ-バーグ (6)Facebook創業者

 【 メルマガ ”熱血日記” 3月15日号を配信しました 】

『 “世界を変えるんだ”

 次が同じくカリフォルニア州パロアルトだった。スティーブ・ジョブズも、ゼロックスのパロアルト研究所を1979年に初めて訪れ、眼前に未来のコンピュータを見て夢中になっている。

 PARCはコンピュータサイエンスの最先端であり、当時はまだなかったウィンドウのアイコンをクリックする技術が、すでにあった。端的に言うと、現代のパソコンの祖形がここで作られたのだ。

 PARCの技術を出来る限り盛り込もうとしてできたのが、マッキントッシュだったのである。ザッカ−バーグは大学の夏休みに郊外住宅を借り、矢寸身が終わればハーバードに戻るつもりで仲間とともに移り住んだ。

 すでに2004年4月、フェイスブックはフロリダ州で有限責任会社登録を行っている。共同経営者は、ダスティン・モコヴィッツ、クリス・ヒューズ、そして裕福なブラジル人実業家の息子、エドアルド・サベリンだった。

 有限責任会社登録をしたのはサベリンで、みずからCFO(最高財務責任者) を名乗っていたものの、会社の収入はゼロだった。

 一方で、フェイスブックはハーバード大学の枠を超えてユーザー数を拡大していた。この頃からザッカ−バーグは “世界を変えるんだ” と口癖のように言うようになった。その夢の第一歩として足を踏み入れたのが、カリフォルニア州パロアルトだったのだ。
 
 “聖地に本拠地を置く”

 パロアルトで、ザッカ−バーグはショーン・パーカーと出会い、即座に魅了された。パーカーもSNSが次世代インターネットの中心だと考えており、ザッカ−バーグのやっていることとビジョンの壮大さに強く引かれる。

 9月、ザッカ−バーグは若いながらもさまざまな経験を持つパーカーをフェイスブックの社長に任命した。パーカーの参加によって、フェイスブックはハーバード大学の寮で生まれた魅力的だが小さなプロジェクトから、大企業に向かって一歩を踏み出す。

 取締役はザッカ−バーグ、ショーン・パーカー、そしてフェイスブックに50万ドルを投資したインターネット決済サービス会社ペイパルの創立者ピーター・シールだった。

 最も大きかったのは、フェイスブックをデラウェア州に登記し直したことである。デラウェア州は企業に有利な条件が整えられており、多くの企業が登記している場所だった。

 最もやっかいだったのは、フロリダ州への登記を主導したサベリンとの間にトラブルが発生したことだった。ザッカ−バーグらがパロアルトにいた夏に、サベリンはリーマン・ブラザーズでのインターンシップのためにニューヨークにおり、それも人間関係をこじらせる原因のひとつとなった。

 のちにサベリンはザッカ−バーグを告訴するに至る。いずれにしても、この登記以降が会社としてのフェイスブックの本格的始動だと言っていい。

 夏休みが終わる頃、フェイスブックのユーザーは20万人に達していた。9月にはザッカ−バーグは70の大学を追加する予定だったため、ユーザーが爆発的に増えるのは確実だった。

 ザッカ−バーグとモスコヴィッツの二人は、ハーバード大学には戻らないことを決意した。当初はパロアルトを引き上げ、寮での運営を考えていたが、急増するユーザーと、成長の可能性を前に、そのままパロアルトに残る決心をすることになったのだ。

 はからずも、尊敬するジョブズの聖地に、会社が置かれることになったのだ。

 “会うのが無理なら無理にでも会え”

 ザッカ−バーグの師はジョブズだけではなかった。ジョブズの終生のライバルだったマイクロソフト創業者ビル・ゲイツにも大きな憧れを抱いていた。


 最初の出会いは、ゲイツがハーバード大学の中退組だった関係で大学を訪れ、スピーチをした時だ。ザッカ−バーグはまだハーバード大学に在籍しており、ゲイツの話を聞くことができた。

 ゲイツは周囲の学生たちを眺め、次のビル・ゲイツは君たちの中にいると激励した。この言葉がザッカ−バーグの中退を後押ししたのかどうかは分からない。

 次は2005年だ。この年、ザッカ−バーグは投資会社アクセル・パートナーズのケビン・エフルシーにある依頼をした。フェイスブックのプラットフォーム化を一緒に考えてくれる人を紹介してほしいというものだ。

 それも、ビル・ゲイツがいいと言うのだった。社員数6人の会社がゲイツに会いたいとは無茶な注文に思えたが、エフルシーは何とかするつもりだった。

 しかし、それから一週間後、ザッカ−バーグはエフルシーに、もうゲイツと話したと報告してきた。同じハーバードの中退者としてゲイツと連絡を取ったのだ。

 ザッカ−バーグとビル・ゲイツの関係は、ハーバード大学中退組という縁だ。成功者が自分の母校を訪れ、スピーチなどをして学生たちに刺激を与えるケースは少なくない。現にザッカ−バーグは出身校であるフィリップス・エクスター・アカデミー (エクセター高校) を訪問した際、こう言っている。

 「これがとてつもない成果を生み出す秘訣なんだ。」 』

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【 引用: マーク・ザッカ-バーグ 史上最速の仕事術 】

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2015年02月24日

伝説の商社マン 岡藤正広 伊藤忠商事社長 (3)

 自分の成功体験を実践させている

 今年の入社式で、岡藤は挨拶をした。
「新人は来る日も来る日も退屈なルーティンワーク。こんなはずじゃなかったとなる。けれども、ルーティンワークの積み重ねが大きな仕事を成し遂げる土台となる」

 個人の裁量、自由度が銀行よりは大きいと商社を選択し、さらに財閥系には向かないと就職先を伊藤忠に決めた岡藤。ただ、岡藤が入社した数年間は、奥歯を噛み締めるような毎日だった。

 岡藤が任された仕事は「受け渡し」と呼ばれる内勤で、営業が契約した洋服生地の船舶・船積みの指定、お客への配達手配、代金の回収などを行う地味な業務だった。「『受け渡し』を1年で終え、営業に出たものもいる」といわれていたように、受け渡しに携わる期間が短いほど優秀な新人社員とされた。

岡藤は、4年間内勤に従事する。勇躍して入社した伊藤忠で、岡藤は会社社会の現実を思い知った。

「やっていけるのかというちょっと自信喪失みたいなもの」と岡藤は、当時を振り返る。受け渡し業務が3年目を迎え、課長からも「次は岡藤を営業に出す」といわれていたのに、社内の事情で異動がかなわなかったこともあった。

 ようやく4年目をすぎて、営業に出ることが決まるが、岡藤は再び苦境に立たされる。
「岡藤君は受け渡しでは優秀やけど、お客さんとようぶつかっているようですし、営業には向いてないですよ」

 課の会議で、先輩が岡藤に対して公然と異動に反対したのだ。おまえは営業には向いていない、と。ショックを通り越して、呆然とする一言だった。

 「やっぱり自分が頑張らんとね。おふくろの夢みたいなもんもあるますやん」
岡藤を支えたのは、幼少から苦労をかけ続けてきた母を何とか安心させてあげたいという思いだった。歯を食いしばり、考える。どうすれば、認められるか。何が会社に貢献できるか、と。

 たしかに、念願かなって営業に回された後も客とぶつかった。何度となく、客から罵声を浴びせられる。「あんた、もう帰り」「先に別の商社に払うわ」。

 当時の繊維業界は因習にがんじがらめになっていた。手形の支払期限は、180日、240日が当たり前。今では信じられない日数がまかり通っていた。なぜか?伊藤忠が卸した服地は、問屋からテーラー(仕立て屋)に回る。

 テーラーが資金を回収するのは注文された服が出来上がってから、逆方向に支払いが請求される。当時は、テーラーが一着、一着と丁寧に仕上げていたため非常に時間がかかり、手形の支払期限180日は常識とされていたが、商社にとっては相当不利な条件である。

 「営業に出て、僕はそれを改革、改善したんです。それが僕にとっての飛躍の一つになったんですわ」
岡藤が頭を絞って考え、たどり着いた答えが、「伊藤忠だけで扱えるどこでも買えない商品」だった。これまで、主導権を握れないために、利益の薄い商売に甘んじなければならなかった。

 主導権を握るための秘策が「ブランドビジネス」だった。ブランドビジネスとは取り扱う商品に無形資産である「商標」を付けて、販売する行為である。優れたブランドと認識されればされるほど、商品に付加価値がつき、より高い価格での販売が可能になる。

 岡藤が持ち込んだブランドビジネスで、伊藤忠の立場は激変。伊藤忠でしか取り扱えない商品を問屋が仕入れることで、問屋はテーラーに対して強気の商売が展開できるようになった。さらに伊藤忠は問屋に対しても主導権を握ることができた。岡藤が営業に移った2年目のことだった。岡藤はいう。

「やっぱり違うことをせなあかんと。天才的な営業マンなら苦労せんでも売っていける。せやけど、僕は違って客から説教されっぱなしやったから」ここまでの道のりは長かった。

 勇躍と営業に出た1年目に待っていたのは、「東大出てはるの?商売と勉強は違うで」に始まり「そりゃ、勉強通りにはいかんわ」まで、客の所にいけばまずは1時間説教された。

 「いい返したいことは客にいわないで、ノートに書いておけ」
と課長にいわれ、律儀に記し続けた日々もあった。砂を噛むような日々を過ごしながら岡藤は考えた。

 「僕みたいなキャラクターでも商売ができる方法は何だろうか」
岡藤は切羽詰まっていた。お客に儲けさせる方法こそが、自分を認めさせることであると。そう信じて、得意先の一つである「高島屋」に足を運ぶ日々が続いた。どんな客がいるのか。

どんなライバルがどんな商品を持ってきているのか。何が売れているのか。岡藤は現場に足を運んでは観察し、考えた。目をつけたのは高島屋が扱っていた「エマニュエル・ウンガロ」「ピエール・カルダン」である。

「このブランドで生地をやったら絶対に売れる」
岡藤の読み通りだった。ブランドビジネスは、岡藤に活路となった。ところが、社内の軋轢はまだ残っていた。

「腹が立つことはあったけど。自分も自信ないし、頑張らなあかんかった」
岡藤は入社後、逆境の下、学び続けてきた。常に問題意識を持ち仕事をすれば必ず何かが引っかかってくる。それが商売になる。そのためには予習だ。

 「人よりも努力することでしょうな」

当時、孤立無援の中で絶対に失敗できないという緊張感は、岡藤のアンテナを研ぎ澄ませていったのだろう。
「自分の成功体験を実践させている。だから現場だ。だから数字だ。だから朝は早く来いって」

 ”客の立場に立って考え抜いた経験”

 1858年の創業以来、伊藤忠の代名詞であり、屋台骨を支え続けてきた繊維事業。現在その繊維カンパニーを率いる岡本均(専務執行役員)には忘れられない体験がある。岡藤というカリスマの伝説話は、岡本にも伝わってきていた。

 まだ岡本が部長になったばかりの頃、大阪本社での決算会議に出席していたときのことだ。季節は夏。岡藤が社長になって以来、予算会議では厳しいハードルが課せられる。毎月、繊維部門ではその数字を達成するための進捗状況が細部にわたって詰められる。それでも、どうしても下方修正せざるをえない局面は出てくる。

 岡本はそうした局面に追い込まれて、決算会議に臨んだ。岡藤から烈火の如く落とされるカミナリを想像すると身の置き所がなかった。岡藤が座る席の後ろの窓から入道雲が湧き上がり、空は一気に暗くなる。俺の所でカミナリ落ちるかな?と思うと心が沈んだ。

 だが、カミナリが落とされたのは、岡本の次に報告した部長だった。岡藤の数字への厳しさは徹底している。寝る前に決算の数字を確認、朝起きて再び確認するほどで、曖昧さは許されない。さらに岡本を驚かせたのは、交渉が困難に陥ったとき、予算達成が困難なときに岡藤が出す指示の的確さである。細部までここまで考えているのかと。

 伊藤忠にブランドビジネスを立ち上げ、伊藤忠の看板に仕立て上げた岡藤。現在繊維カンパニーでは約150のブランドを扱う。中身を入れ替えて、財産として保持し続けるものを峻別することが繊維カンパニーの財産である。

 岡本にはことのほか、忘れられないブランドがある。トミー・ヒルフィガー。同ブランドの経営権を取得し、売り上げを約4倍に高め、ブランドを確立させたのが伊藤忠だった。

 それが08年、トミーのライセンス供給元の強い意向を受けて、伊藤忠が連結対象子会社トミー社の普通株の一部売却、残る普通株については議決権を持たない優先株に転換し、同社に経営権を譲渡することになった。

 繊維カンパニーの中には、トミーのブランドを育て、売り上げを4倍にした自負もあり、虫のいいライセンス供給元へ怒りの声も聞こえてきていた。

 この経営権譲渡の最前線の交渉に当たったのが岡本だ。複雑さを極める交渉でも、岡藤は一貫して岡本に「弱気になるなよ」と声をかけ、極めて細部にわたる指示を与え続けた。
「ええか、契約の文言にこれは入れたらあかんで」岡藤は、交渉の行方も予言した。

 「もうそこまでいったら決裂や。そやけど、相手がここで折れてくる。折れるんは、こういう理由や」
岡藤は交渉相手の心理を読み、交渉の要諦を押さえる。岡藤にそれができるのも場数と行動、なにより客の立場に立って考え抜いた経験があるからだ。

  「岡藤社長就任からの4年間は、10年分を凝縮したようなダイナミズムとスピード感に溢れるようなものだ」と、ある伊藤忠社員は語る。住友商事を抜いて業界3位を目指すというかけ声も、「それはそうだが、現実には」と他人ごとのようにいう者もいたが、3期続けて住商を上回った今、これを話題にする社員はいない。

 (つづく)

 【 日本の7大商社 − 世界に類を見ない最強のビジネスモデル 】






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2015年02月22日

伝説の経営者たち マーク・ザッカ−バーグ (5) Facebook創業者

 【 連載記事は下記のカテゴリー欄より通してご覧になれます 】

『  “若い間に高く上がれ”

  パソコンとインターネットの登場で世界は劇的に変わった。
 それは、フェイスブックの登場でさらに進化している。フェイスブックは世界中の人々がさまざまな問題や提案、抗議などを自由に持ち込める広場となっている。ほんの何年か前、そんなことは絶対に不可能だった。

 1955年生まれのスティーブ・ジョブズの子供時代、巨大メディアはテレビと新聞しかなかった。ジョブズはテレビを最も有害なテクノロジーだと断じ、 「テレビを見ていると、僕たちをアホウにしようとする愚民化のための手段だと感じた。」 と話している。

 それに対してコンピューターは、人類がつくり出した最高の発明品だと受け止め、創造力や思考力を育む力を予感している。それが、スティーブ・ジョブズがパソコンづくりにのめり込んだ理由になっている。

 ザッカ−バーグも、自分が若い学生だったことがフェイスブックの成功につながったと考えているようだ。

 「 僕はこんなふうに考えたんだ。みんな僕と同じ大学生だ。だから、自分に面白いものはみんなにも面白くて便利なものになるんじゃないなって。 」

 経験が多すぎるとイノベーション (新機軸) は起きにくくなると言われる。確かに、巨大な歴史的転換は、若者がになうことがしばしばだ。

 ザッカ−バーグが競合他社から大金を積まれてもフェイスブックを売らなかったのは、そんなことをすればビジネス(商売の道具)になって面白さがなくなってしまうと危惧したからだ。大切なのは、 “面白い” “クールだ” “みんなが便利がっている” “何かを変えている” という感覚だったのだ。

 やがて、面白さ、クールさの追求から少しずつ世界を変えることを意識するようになり、有用さや運営方法を考えるようになっていくのだが、それでも根底にある若さの感覚は維持されているように見える。

 ザッカ−バーグが尊敬するスティーブ・ジョブズも若い成功者であり、そのイメージを持続させているカリスマだ。

 大学も出ていない(中退)、お金も経験もない21歳の若者がわずか1,000ドルの資金で会社をつくり、巨大企業IBMの支配するコンピュータの世界で、人々の生活を一変させる “パソコン市場” をつくり、会社を上場させ、240億円を超える資産を手に入れる。

 アップルに若さ、カッコよさ、開拓者、挑戦者的なイメージが生まれるのは当然のことであり、それが “アップルはクールだ” というブランドイメージにつながっていったのだ。

 ちなみに、かつてのライバルであるマイスペースの創業者の一人、トム・アンダーソンは、弱冠14歳だった1985年に、ある銀行へのハッキングで名を馳せた人物だったという。だが、2003年にマイスペースを創業した時には、すで30代になっていた。

 にもかかわらず、アンダーソンのプロフィールには 「20代で創業した」 と謳っていた。テクノロジーの世界では、若くして創業した方がクールなのだ。
 
 “徹底的にまねれば徹底した人間になれる”

 成功した人間にはたいていロールモデルがいる。IT業界の成功者には 「孤高」 「独裁的」 といったイメージがあるが、そうとも言えない。旧世代カリスマを手本に新世代が育ち、新世代天才に学んで次世代開拓者があらわれるというサイクルがあるのだ。

 その見えないサイクルに入ることが大切だ。フェイスブックが揺るぎない地位を確立しつつあった23歳の頃、ザッカ−バーグは、シリコンバレーの若きCEOとしてどのように経営にあたっているのかと聞かれ、スティーブ・ジョブズを引きあいにこう答えた。

 「あるインタビューでジョブズが言っていた。“こんなことを続けていくには、心の底からやるんだと思い込め。そうでなければやりとげる甲斐が無い。” と。」 

 フェイスブックの発展は、道なき道の連続だった。実名主義を貫き、次々と機能を加えていく。何千万人、何億人ものユーザーを抱えていても、成長を続けなければライバルに取って代わられてしまう。

 そのストレスは20代のザッカ−バーグにとってはかなりの重圧だっただろうが、それを重荷と感じるようではやっていけない。すさまじいまでの情熱だけが頼りだ。そして情熱の手本が、ジョブズだったのだ。

 猛烈な働き方が伝説と化しているマッキントッシュ開発プロジェクトでは、
「 週90時間、喜んで働こう 」 が合言葉だった。アップルの仲間はこう回顧している。

 「僕も含めて、開発チームの連中はみんな、あの当時が自分のキャリアの絶頂期だったと言うだろうね。僕らは毎週7日間、毎日14時間から18時間ぶっ続けで働いた。2年も3年も。仕事が生活だった。でも、みんなそれを楽しんでいた。」

 チームメンバーはジョブズに働かされているのではない。自分から働く気になっている。ジョブズのやけどしそうな熱いビジョンに伝染し、テンションが猛烈に高まっている。それが何年も続くところがすさまじい。

 もちろん、単純に熱狂していたのではない。
「 月に一度しかないコンパスを頼りにジャングルを歩くようなものだった。行く先は川なのか山なのか、蛇の巣なのか。いつか金の壺が見つかると思っていたが、それが偽物じゃない保証はどこにもなかった。」

 過酷な労働と先の見えない不安の中で、それでも前進ができたのは、情熱があったからだった。

 「 情熱がたっぷりなければ生き残れない。それがないと人はあきらめてしまう。情熱を傾けられるアイデアや問題を持とう。正したいと思う誤りでもよい。でないと、こだわり続ける忍耐力が持てない。我慢さえできれば、うまくいったも同然なのだ。 」

 ザッカ−バーグはこういう人物を尊敬し、自分のロールモデルとしていたのだ。

 “リーダーの3つの資質”

 ザッカ−バーグの師はジョブズだが、反面教師にはナップスターの共同創業者、ショーン・パーカーがいた。ザッカ−バーグとパーカーは2004年にパロアルト研究所 (PARC) で出会い、互いに強く引かれ合った。

 ザッカ−バーグは経験豊富なパーカーをフェイスブックの社長に任命し、これが企業としてのフェイスブック発展の契機になるのだ。

 だが、パーカーはすぐれたものを作りだす天才ではあったが、経営者としてはナップスター、そしてオンラインアドレスブックサービス会社のプラクソと、2度までも自分で創業した会社を追い出されている。

 パーカーは何週間も会社に泊まり込み、ぶっ続けで働いて大プロジェクトを実現する。また、素晴らしい才能を発揮して会社を立ち上げる。そこまでは天才的なのだが、いったんつくり上げてしまうと急に情熱がさめてしまうのだ。

 何日も会社に顔を出さなくなる。製品の改善や修正にも興味を示さない。当然、投資家とトラブルになる。こうしてナップスターやプラクソを追放されたのだ。

 フェイスブックでも、パーカーの気まぐれさが顔を出すようになっていた。情熱を維持できなければ、成長企業の社長を務められない。

 2005年、パーカーは社名を 「ザ・フェイスブック」 から 「フェイスブック」 に改めたのを機に、会社を去ることになった。

 とはいえ、パーカーはザッカ−バーグにさまざまなことを教え、導いた人物であり、リーダーたる資質も持ち合わせていた。

 資質の一つは、頭の中に常にロジックツリーのような複数の選択肢が存在していて、計画が狂っても 「ならばこちらを」 とすぐに対処ができたのだ。

 二つ目は、凝り深さである。フェイスブックの急成長を楽しむ一方で、一時的なブームが去ってしまわないかと冷静に見つめていたことが成功につながったという。

 “あこがれの街に明日が待つ”

 ザッカ−バーグはハーバードの学生としてボストンにいた頃、尊敬するジョブズの軌跡をたどるために 「聖地巡礼」 までしている。しかも、巡礼先がフェイスブックの本部所在地になったのだから恐れ入る。

 まず、カリフォルニア州シリコンバレーだ。2004年1月、フェイスブックを立ち上げる1か月前に初めて訪ねた。先端テクノロジー企業の多くが本拠を置く地だ。アップル、シスコ、グーグル、ヤフー、インテル、アドビシステムズ、ヒューレット・パッカード、ナショナル・セミコンダクター。国道101号線を走っていると、著名の企業が次々と目に入る。

 「 僕たちの会社をつくってやる。今回は多分無理だろう。けれど、いつの日か必ず自分の会社を立ち上げてみせる。」 テクノロジーの天才たちの聖地だったシリコンバレーに足を踏み入れた
19歳のザッカ−バーグは心に誓った。 』

【 引用: マーク・ザッカ-バーグ 史上最速の仕事術 】





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2015年01月15日

伝説の商社マン 岡藤正広 伊藤忠商事社長 (2)

” 東大卒業文集に 「伊藤忠入社 三菱商事、三井物産殲滅」 と書いた男 ”

  繊維事業を源流に持つ非財閥系商社の雄は、今や業績が絶好調。「非資源ナンバー1」を掲げながら、リスクとポテンシャルを冷静に見分け、数字の達成にこだわる岡藤経営はどこから来ているのか。伝説の商社マンを追う。

 「か、け、ふ」(稼ぐ、削る、防ぐ)、「110」(一次会まで、午後10時にお開き)、「朝型勤務」など、伊藤忠商事社長、岡藤正広のこれらの興味深い語録は、何度もマスコミに取り上げられてきた。

  2010年社長に就任して以来、岡藤は 「住友商事を抜いて業界3位になる」 「非資源分野でナンバー1商社を目指す」 目標を掲げ、実行してきた。14年3月期の純利益は3102億円と過去最高を記録。

  業績を牽引したのは、「非資源分野ナンバー1」の通り、住宅、資材・不動産などの住生活・情報部門で46%の伸びで、米食品大手「ドール・フード・カンパニー」(以下、ドール)からアジアでの青果事業、グローバルな加工食品事業を買収した食品部門は、26%増加するなど、非資源で稼げる体質が強化されたことを証明した。

  社長就任以来、 “伊藤忠・岡藤” の軌跡を、岡藤の発言や資料などでたどると、あることに気づかされる。「組織は生き物で、組織を率いる者の人格、性格、意思が如実に反映される」と。岡藤の際立ったキャラクターなくして、業界3位の伊藤忠は存在しないだろう。

 好調な伊藤忠の業績を反映し、商社の新御三家は、「三菱商事、三井物産、伊藤忠商事」と呼ぶ声もある。では岡藤は、どのように伊藤忠を変えたのか。

 "伊藤忠入社 三菱商事、三井物産殲滅"

  45L12QB。この暗号めいた数字、アルファベットの羅列には意味がある。45は昭和45年(1970年)。L12は文科系の文科1類と文科2類。Qはクラス名。最後のBは第2外国語でドイツ語の履修。つまり、昭和45年に東京大学に入学した文科1類(法学部)、文科2類(経済学部)の合同クラスを意味している。

  大阪府立高津高校から東大文科2類に入学した岡藤は、このクラスに在籍。ここからは後に財務省事務次官の杉本和行(現公正取引委員会委員長)、現在検事総長の椅子に座る大野恒太郎など、エスタブリッシュメントが輩出されている。

  昭和45年といえば、東大闘争の煽りから東大が入試中止を決定した翌年で、混沌とした空気が学内を覆い、東大闘争の象徴である安田講堂は廃墟のように放置されたまま。こんな時代に岡藤は東大での4年間を過ごした。

  当時、東大生の主流だったのは、私立御三家と呼ばれる開成、麻布、武蔵や教育大付属駒場(現筑波大付属駒場)といった都内の東大入試定番校の出身者で、親元から通学し、金銭的な余裕もある知り合い同士だった。

  対照的なのが地方の高校出身者で、ある地方出身者のための学生寮費は、月額100円。朝食40円。夕食120円。100円の寮費を払えず、100円足らずの食費も惜しむ学生は少なくなかった。

  岡藤は、孤高の学生だった。当時流行だった片方の目が隠れんばかりの長髪でガリガリに痩せていた岡藤を、「教室で寝息を立てる姿が今でも思い浮かぶくらい不思議と存在感があった」と、岡藤とはゼミの同期だった

  小川孔輔は回想する。
「別に友達必要ないわ」
岡藤はこう公言していたようだ。

  孤高の学生が励んだのは、アルバイトだった。当時、東京・亀戸にあった岡藤の下宿先を訪れたことのある数少ない友人、宮本正樹にとって、岡藤は立派なビジネスマンに見えた。宮本によれば、岡藤にはただならぬ商才があったという。

  岡藤は、どこからか都内の女子大学内に自動販売機を設置し、中身の入れ替えなども行う仕事を見つけてきた。ただ、現場に行かずに、アルバイトとして雇っていた女子学生を使いお金を回収していて、当時の学生からは考えられない額のお金を稼いでいた。

  夏休みごとに大阪の実家に帰省し、家庭教師のアルバイトに精を出した岡藤。毎日効率よく数軒回り、稼いだお金を学費と生活費に充てる。高校3年のとき、父を亡くし、母と弟となった岡藤にとって、自活は当然だった。

  岡藤の人生の分岐点に立ち会ったのも宮本である。就職活動がチラチラ頭をかすめ始める大学3年の頃、クラスメートの父親の縁で、岡藤と宮本は当時、東京・日本橋に本社を構えていた商社「日商岩井」(現双日)の人事部を訪ねることになる。財閥系商社に対抗しようと意気込む日商岩井にとって、東大生は喉から手が出るほど欲しい。

  昼食が終わりかけた頃、人事担当者がおもむろに声をかけた。「ところで、どうや宮本君」。もちろん就職の誘いである。宮本は間髪いれず、「はい。お願いします」と頭を下げた。人事担当者の視線は岡藤に向かった。.....

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 【 人は仕事で磨かれる 丹羽宇一郎、伊藤忠商事元会長 】

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2014年11月16日

伝説の経営者たち マーク・ザッカ−バーグ(4) Facebook創業者

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 “みんなの知恵はひとりの知恵より賢い”

 フェイスブックが登場した2004年、インターネットの世界にはグーグルが君臨していた。それがわずか6年後の2010年には、アクセス数でフェイスブックがグーグルを抜き、世界第一位になっている。

 その後も両者はデッドヒートを繰り返すことになるのだが、フェイスブックがグーグル帝国下で新帝国を築けたのはなぜだろうか。それは 「プル (引く)」 と 「プッシュ(押す)」 の違いにある。

 グーグルが求めるのはプル・モデル。ある言葉を検索すれば、何百、何千という結果が表示され、ユーザーはそこから答えを探す。世界中のウェブページをすべて集めた上で、ユーザーが求める答えを提供すること、できることならたった一つの完璧な答えを提供することだが、やはりどうしても、ぼう大な結果から 「引く」 作業がつきまとう。

 それは現実的ではないとして生まれたのが「プッシュモデル」 である。友人同士が兵法を教え合って、互いに求める方向へと背中を 「押す」 方式だ。これなら簡単に求める答えが得られる。フェイスブックは、

 「個人が持っているそれぞれの知識を引き出し、その知識を共有することによって、さらにすぐれた知識としてまとめ上げることができる」 とザッカ−バーグは言う。

 ザッカ−バーグはフェイスブック以前から、親しい者同士を集めて衆知にまとめるのが巧みだった。ハーバード大学で美術史の授業にほとんど出席せず、試験でピンチになった時がそうだった。

 授業で使われた絵画をすべてダウンロードして書き込みができるようにし、サイトに張り付けた。そして大学の友人向けにサイトのリンクをはると、1〜2時間で多くのコメントが集まった。そのコメントをじっくり読み、答案にまとめたのだ。

 成績はAで、しかもこれまでに提出された答案の中で最高だと評価されたという。こうしたやり方を是とするかはともかく、まさに友人の知識を引き出し、共有することでさらに優れた知識としてまとめ上げる見本である。

 “情報は双方向にしてこそ役立つ”

 フェイスブックは同級生同士が交流をより深く楽しむためのものだった。それだけに
「フェイスブックは単なる暇つぶしに過ぎない。」 という批判がかなり後まであったという。

 だが、ザッカ−バーグは 「情報は双方向にしてこそ役立つ。」 と言い、友人や他人を理解するこおとは暇つぶしではないと反論した。

 「フェイスブックが目的とするのは、一つには自分たちの世界がどうなっているのか、それを知る力を高めることであり、そのために必要な情報をみんなに伝えようということだ。」

 「 新聞のある独裁国家と、新聞のない民主主義国家なら、新聞のある方を選ぶ。」 という言葉があるように、知らないことは悲劇なのだ。

 同じ大学に在籍するのであれば、一人一人が情報を提供して共有することは、大学をよく知ることであり、正しい判断と行動で大学生活を送ることになる。これは、社会に出ても同じことだ。

 つまり、フェイスブックは学生の暇つぶしではなく、自分の置かれた世界を、誰もがより深く、より広く知るライフツールになるわけだ。

 こうしてザッカ−バーグ自身、最初はそう重要視していなかったフェイスブックを通じて、ビジョンを崇高なものにしていく。

 ”ネットワーク効果が出始める”

 フェイスブックには、崇高なビジョンが加わるのと同時に、ユーザー数が増えることでネットワーク効果が増すという変化も現れた。ネットワーク効果とは、同じ製品やサービスを利用するユーザーが増えると、その製品やサービス自体の価値が高まることを指す。

 携帯電話は、登場したばかりでユーザー数が少なかったころは、利用価値が低かった。使える機能もすくなく、インフラ整備も遅かった。だが、利用者が増えるにしたがい、利用価値は加速度的に上がった。

 フェイスブックも同様だ。ユーザー数が何百万人から何千万人、何億人と増えるにつれ、集まる情報もぼう大になり、共有できる情報が増えて世界をよりよく理解するツールとしての機能も強まる。

 それは、世界を動かす力にもなりえる。

 数あるSNSサイトには、ビジネス向け、メディアのポータルサイト用、地域独自のもの、大手企業が社内コミュニケーション用にスタートさせたものなどさまざまな目的がある。その中で、ザッカ−バーグほど情報共有を広げ、世界に透明性を加えることを追求している人間はいないだろう。

 ザッカ−バーグはこう話している。

「僕がやろうとしているのは、一人一人に自分の声を与えることなんだ。僕たちより数世代前の人たちのことを思い返してほしい。情報を共有することもできず、自分の意見を満足に伝えることができなかった。

 だが、今は違う。SNSやインターネットツールがあるおかげで、自分の考えを発表して、一人一人の声をみんなに聞いてもらうことができるようになったんだ。」

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【 引用: マーク・ザッカ-バーグ 史上最速の仕事術 】

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2014年11月08日

伝説の経営者たち マーク・ザッカ−バーグ (3)Facebook創業者 

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 “不自由な安定より自由な不安定にチャンスがある”

 とにかく平凡人は「大企業のほうが」 とか 「安定した市場だから」 と、わざわざ壁だらけの方向をめざしがちだ。そして壁との苦闘でほとんどの精力を使い果たして仕事人生を終えてしまう。

 成功者たちの考え方は逆だ。大企業に縛り上げられるよりも自分で起業したほうが楽だし、強力な競争相手がひしめく安定市場よりも未知の市場にいち早く参入したほうが早く大きく勝てると知っている。

 何より、そのほうが自由な人生を送れるではないか。ザッカ−バーグは、その代表だ。

 「僕のゴールは、職を得ることじゃない。クールなものを創ることだ。それから、誰かに何かしろと時間の枠をかけられないこと。それこそが僕の求めているぜいたくなのさ。」

 「そのうち、徐々にお金儲けもできるようになると思うんだ。」

 まさに理想だ。自分の “約束の地” を見つけ、開拓に成功した者だけが言える言葉である。約束の地とは聖書の言葉ではなく、それぞれに与えられた運や才能といった意味だ。新たな市場やニッチ市場に出会う時代性も意味する。

 もちろん、ザッカ−バーグは、人一倍恵まれてもいる。その一つが、ハーバード大生だったことだ。フェイスブックは当初、ハーバード大学のメールアドレス@harvard.edu を持っていなければ登録できなかった。超エリート校の学生のみに開かれた会員制SNSだったのだ。

 ザッカ−バーグはこの最強のSNSを、まずハーバード大学が属するアイビーリーグに広げ、それから他の名門大学へと拡大していく。フェイスブックが全米の大学生があこがれるブランドになるのは当然だった。

 しかもフェイスブックは、運用する大学を安易に追加しなかった。正式運用を開始していない大学の学生で登録を試みる者は、まず待機リストに登録された。その割合が全学生の20%を超えると、やっとその大学を運用対象に加えた。

 拡大を急がず、飢餓感を煽ったのである。

 “大事なのは、適時であることだ”

 どれほどすぐれた才能の持ち主も、成功するには運が必要だ。早すぎた天才や、遅れてきた天才は悲劇にすぎない。その点、ザッカ−バーグがSNSに参入したのは、まさに絶好のタイミングだったと言える。

 SNSそのものは、すでに新市場ではなかった。だから、フェイスブックのユーザーが500万人に届こうかという頃でさえ、ザッカ−バーグはファイル共有ソフトのワイヤーホグのほうに多くの時間を割いていた。

 テクノロジーの天才である彼にとって、SNSのように一般化しつつある技術より、新しい試みであるワイヤーホグのほうがずっと面白かった。

 では、なぜ最終的にザッカ−バーグはフェイスブックに専念したのだろうか。時代の要請が大きかったからだ。今日のようなSNSは、1997年にアンドリュー・ワインライクの手により “シックスディグリーズ” として誕生した。

 ところがその当時は、ヤフーやMSNなどのポータルサイトの全盛時代で、人々の意識はまだSNSに向いていなかった。テクノロジーの世界ではスピードが至上命題だが、それでも、早すぎては時代が追いついてくれないのだ。

 “「ない」ものを探す前に、「ある」 ものを見逃すな ”

 フェイスブックは、過去の遺産に十分に学ぶことができた。フレンドスターが、2,000万人にまでユーザーを増やしながらサーバーが追いつかずに衰退したことを踏まえた。運用する大学を安易に増やさなかったのは、ブランド戦略とともにサーバーの容量問題もあったのだ。

 また、フレンドスターや、急速にユーザーを伸ばしていたマイスペースが匿名主義だったのに対し、「実名主義」 を掲げた。匿名はナンデモアリが当たり前だったインターネットに、実名で顔写真つき、かつ事実のみを記入するという文化を持ち込む。

 シックスディグリーズからマイスペースに至る流れのなかで、実名主義が受け入れられる土壌が生まれ始めていたのである。人々はインターネットに信頼を求めはじめていた。

 変化はフェイスブックが誕生したときから起きたと同時に、社会が受け入れたから起きたのだと言える。
「僕たちがつくりだしたのではない。社会がやがて受け入れていったのだ。」

時代の流れがすべてである。 流れに逆らうと、早すぎても、遅すぎても拒否されてしまう。

  革命は一人の天才の手で始まるとしても、それだけではなしとげられない。受け入れる土壌がかもされていてこそ実現できるのだ。そして革命後も、どんな指導者といえども時代の流れに従って生きていくほかはない。

 流れに従うためには、絶えざる変化が必要である。安住はない。そう覚悟する者だけが世界を変えていく。安住して幸福を得る道は、決して悪くない。そちらを最善とする価値観がむしろ主流である。ただ、安住しながら世界を変えようとするのは間違いだ。

 運不運とは、道を歩いていてお金を拾うといったことではない。それは偶然にすぎない。大切なのは落ちているお金を見逃さないことなのだ。

 “考えすぎずに着手するから考え深くなれるのだ”

 ザッカ−バーグは、インターネットを活用した小さなサービスをつくることを早くから趣味にしていた。ハーバード大時代、こんな話をしている。

 「僕は何かつくっても、半分は誰にも見せないんだ。夜中に5時間プログラミングをして何かクールなものをつくることができたら、一部の友人には話すけど、あとの連中は何も知らないってわけさ。」

このように厳選されて表に出たサービスの多くは、人々を魅了した。それは、誰もが欲していながら、
「バカバカしい」 「誰もやっていない」 「問題がある」 などの理由で実現していなかったことをかなえるものだったからである。

 2003年に開発したコースマッチがそうだった。ある講義を受講する受講生の一覧がわかり、逆に、ある学生をクリックすると、取っている講義の一覧があらわれるソフトだった。たちまち指示された。

 たとえば、ある講義にノックアウトされそうな美人学生がいたとする。コースマッチを使えば、彼女がほかにどんな講義を取っているかがすぐわかり、学生にとっては彼女と仲良くなるチャンスがいとも簡単に手に入ったのだ。

 コースマッチの成功でザッカ−バーグは、人々の欲望を正当な手段で実現すれば支持されるという確信を深めただろう。しかし同じ年に、好きな女子学生に振られて激しく落ち込んでつくったフェイスマッシュはやり過ぎだった。

 それは、ハッキング (他人のコンピュータへの不正な侵入) で入手した学生の写真をアップし、二人の顔を並べて、どちらがホットかを投票するソフトだった。ホットと判定された学生は、さらにホットな学生と対決していく。こうして誰が一番ホットかを決める。

 爆発的に広まった。だが、ハーバード大学の品位をおとしめるとして、フェミニスト団体は抗議をし、ザッカ−バーグと、手助けした学生たちは、査問委員会から呼び出しを受け、謹慎処分を言い渡される。フェミニスト団体にも謝罪するはめになった。

 そういう混乱はあったものの、コースマッチもフェイスマッシュも、学生の社交生活を楽しくするものとして、学生から指示された。

 こうしてザッカ−バーグは、インターネットによって人と人をつないだり、お互いをよりよく知ることの重要さを強く意識していく。

 「こんなサイトを立ち上げたのは確かにバカげていたかもしれない。けれど、いずれにしろ誰かがやらなくてはいけないことだった。」

 (つづく)

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【 引用: マーク・ザッカ-バーグ 史上最速の仕事術 】


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2014年11月01日

伝説の経営者たち マーク・ザッカ−バーグ (2) Facebook創業者

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 「省略」すると「消化」が早い

  ザッカ−バーグのスピード感覚は、フェイスブックの立ち上げに発揮されただけではない。フェイスブック自体が、素早く使えるようにつくられていた。ユーザー登録が簡単だった。写真を一枚アップロードして、ちょっとしたプロフィールを載せるだけなのだ。

 ザッカ−バーグがハーバード大学の学生寮でフェイスブックをつくり始めた時に関心があったのは、うまく動くことだった。みんなが面白いと感じることだった。

 「課題は何といってもうまく動くサイトであること。見栄えとか恰好がいいとかデザイン的なものにはあまり興味がなかった。」

 誰でもたやすくアクセスできること、ストレスなく使えることを最重要視するのは、ザッカ−バーグの時間感覚のあらわれだと言える。多くの機能がごちゃごちゃ詰め込まれていては、アクセスだけでも時間を食う。そんなものは無用だった。

 「ごちゃごちゃした」 ものの一つに、ハーバード大学の上級生だったアーロン・グリーンスパンが開発した 「ハウスシステム」 がある。大学寮の学生向け情報交換サービスで、自分の写真を載せられる 「ユニバーサルフェイスブック」 という機能まである巨大システムだった。

 グリーンスパンは下級生であるザッカ−バーグと接触した時に 「僕のハウスシステムに、君のプロジェクトの何かを入れてあげるよ」 と提案した。だが、答えはノーだった。

 大切なのは機能をそぎ落とすことである。機能を追加することではない。どんなにすぐれた製品でも、使い方が煩雑で難しければ役立たない。ザッカ−バーグはそう考え、グリーンスパンとたもとを分かち、シンプルかつ最高の製品をめざしたのだ。

 フェイスブックはアイビーリーグ(米東海岸の有名7大学、東京六大学に相当) にサービスを拡げた時にもまたたく間にユーザーを得たが、その理由の一つは、説明など受けなくてもだれでも簡単に使えるシンプルさだった。

 “本当の価値は 「もう削れない」 ときにあわられる”

 製品が成功するキーワードとして「シンプルさ」 をあげる人は多い。ザッカ−バーグが大きな影響を受けたアップル創業者でCEOだったスティーブ・ジョブズがそうである。

 ジョブズがパソコンの名機マッキントッシュをつくっていた時に考えていたのは、
「本当の美しさはつけ加えるものがなくなった時ではなく、そぎ落とすものがなくなった時にあらわれる」 ということだった。

 ジョブズは自分が創業したアップルを10年あまり追放されたあと復帰するという浮沈を経験しているが、復帰後も 「集中と簡潔」 というモットーは変わらなかった。自分の不在中に製品が複雑化し、ラインナップも増え、組織も肥大化して赤字に陥っていたアップルを再建するためにやったことは、ノーを連発することだった。

 削ることで、製品をシンプルにし、ラインナップはすぐれた売れ筋製品に絞り込み、組織はフラット化する。

 こうして身軽になったアップルはスピーディに動けるようになり、短期間で復活する。そしてiPod, iPhone, iPadという世界的ヒットを生み出すのだ。

 こういうシンプルさのDNAを、ザッカ−バーグも受け継いでいるのだろう。

 “小さく始めて大きくまとめる”


 ザッカ−バーグにとって、フェイスブックは最初、たくさん手がけているプロジェクトの一つにすぎなかった。世界を透明でオープンにするという壮大なビジョンを持っていたわけではない。

 あくまでもハーバード大学学内用だった。友人たちが不満に陥ることなく交流を楽しみ、やや内気な自分も人間関係に大胆になれる。それくらいに考えていた。

 実際、ザッカ−バーグはフェイスブックの運営を行いながらも授業に出ているし、並行して音楽やビデオなどのファイル共有ソフト 「ワイヤーホグ」 も開発していた。フェイスブックが面白い展開になっているとは感じていたが、絶対に成功する確信は持てなかったからである。

  「次にやるべき大きなことが何かなんてわからない。僕のやり方は、大きなものをつくるんじゃなくて、小さなプロジェクトを積み重ねていって、最後に一緒にすることなんだ。」


 “勝負は走り始めてから。”

 確かに、大きなことをなしとげた人は、みんながみんな最初から壮大なビジョンを目指していたわけではない。やっていることが未来にどんな結果をもたらすかなど、そう簡単にわかるものではないのだ。

 ただ、彼らがすごいのは、小さなところからあと先かまわずスタートしても、ある時期に 「これはいける」 「すごいものになる」 と感じた瞬間から一直線に突き進むところだ。

 感じる瞬間が人よりはるかに早く、感じたら猛烈にギアチェンジすることが、成功者の共通点である。

 それまでは単に周囲をハラハラさせるだけの人間だと言えるかもしれない。たとえば、アップル共同創業者の一人、スティーブ・ウォズニアックがそうだ。

 歴史的なパソコンであるアップルTをつくっていた時も、ジョブズと同様に、コンピュータオタクに何百台か売れればいいくらいに考えていて周囲をやきもきさせた。

 パソコン市場を創造したと言えるアップルUの開発中も、ウォズニアックがあまりにマーケティングに無知なのにあきれたベンチャーキャピタリストが、CEO候補を必死で探して紹介したりしている。

 ザッカ−バーグも、当初はワイヤーホグが完成すればフェイスブックにつなぐつもりだった。しかし、やがてワイヤーホグなどの小さなプロジェクトをやめ、フェイスブックに本気で取り組むようになっている。

 心境の変化は、そう劇的でもなかったようだ。

 共同創業者のダスティン・モコヴィッツが 「あたらしい大学を開拓したよ」 と報告すると 「よし、次を開拓しよう。」 と考え、別の大学で別のSNSサービスの提供が始まると聞けば、 「阻止しよう」 と乗り出すなど現場で動いていく中で、自分のやっていることのすごさに徐々に気づいたのが実情だ。

 ただし、いったん目覚めると、「ならば世界を変えよう」 とビジョンを高め、猛烈に集中し、急成長させた。

 たぶん、それがスピードの本質だ。最初からエンジン全開の成功話など神話にすぎない。

 “普通なら休む時も、普通に歩こう”

 何かをなしとげた人間には二つの生き方が用意されている。一つは成功に満足し、ゆっくり休む生き方だ。次の展開は、腰を落ち着けて模索すればいい。この道を選ぶ人は、人生を楽しめるだろう。しかし、世の中は甘くない。休養中に忘れ去られ、復活はおぼつかない例が多い。

 もう一つは、成功に甘んじることなく、次を目ざしてさらに加速して生きる生き方だ。この道はけわしい。しかし、選ぶ人は、世界を変えられる可能性がある。

 ザッカ−バーグはもちろん後者である。高校時代につくった 「シナプス」 に100万ドルの値がついたのを皮切りに、フェイスブックを立ち上げてからも、ザッカ−バーグのもとにはさまざまな買収話が持ちかけられた。乗れば莫大なお金が得られ、若くして生涯を保証された自由気ままな生活を手にすることも可能だった。

 しかし、ザッカ−バーグはどんな提案にも乗ることはなかった。2004年のフェイスブック誕生から4か月後には、早くもある投資家が1,000万ドルという金額を提示している。だが、何の関心も示さなかった。

 2005年には、MTVやパラマウント映画を擁する米国のメディアグループ、バイアコムが7,500万ドル(約75億円)での買収を提案した。当時のフェイスブックの売上は、わずか100万ドル(約1億円)。破格中の破格と言えたが、これも蹴っている。

 2006年にはヤフーが何と10億ドル(約1,000億円)での買収をオファーするが、これにも応じなかった。もちろん、買収ではなく投資なら当然受け入れる。

 2005年にベンチャー・キャピタルのアクセル・パートナーズが、フェイスブックの評価額を9,800万ドル(約98億円)と算出し、1,270万ドルの投資を提案した時は乗っている。2007年にマイクロソフトが2億4,000万ドルを出資した時もそうだ。

 要するにザッカ−バーグは会社を売る気などないのだ。こう言明している。

 「会社を手放すほど仕事に退屈していない。僕が退屈するのは、まだまだ先のことだよ。」
 そして、フェイスブックを始めた動機について、こう語っている。

 「僕はまだほんの子供にすぎない。だからすぐに退屈してしまう。でも、コンピュータには熱くなれる。」

 フェイスブックは心底熱くなれる生涯最高のアイデアなのだ。手放して富を手に入れ、自由気ままという名の退屈な人生を送るなどばかばかしい。退屈する暇もないほど仕事に没頭したいのがザッカ−バーグという人間なのである。

“つくる人にこそツキは来る”

 ザッカ−バーグが早熟の天才だったことは疑いない。父親エドワードが歯科医、母親カレンが元精神科医という家庭に育った彼は、幼少期からコンピュータの才能を発揮した。

 息子の才能のすさまじさに驚いた両親は、あるソフトウェア開発者を家庭教師として雇い、週一回のレッスンを受けさせた。その家庭教師は、当時11歳だったザッカ−バーグを 「まさに神童だった。」 と回顧している。

 父親はまた、近所にある大学院生向けコンピュータ講座にザッカ−バーグを連れていったりもした。講師は最初、「お子さん連れですか? うるさくされると困るんですが。」と難色を示したが、講義を受けるのが父親ではなく、まだ幼い子供だと知って卒倒しそうになった。

 やがてザッカ−バーグはプログラミングの技術を身につける。同時にさまざまなものをつくり始めた。中学生の頃には父親の歯科医院のために、患者の来院を告げるソフトを開発した。自宅と病院をつなぐ 「ザックネット」 というもので、当時を振り返ってこう話している。

 「ものをつくることが大好きだった。で、プログラムに強くなれば、もっとソフトを書けることに気がついたんだ。」 

 天才にもタイプがある。早熟の天才と、徐々に天才を発揮していくタイプだ。物理学者のアインシュタインなどは後者である。幼い頃はむしろ愚鈍で、ギナジウム(ドイツの教育機関) は中退、意に沿わぬ特許局勤務を余儀なくされる。

 しかし “奇跡の年” と呼ばれる1905年、26歳のときに特殊相対性理論を含む3つの論文を立て続けに発表、それまでの物理学の体系を一瞬で変えてしまうのである。

 アインシュタインのように理論を構築する分野では、天与の才の発揮までにある程度の時間を要するのだ。
 それに対してザッカ−バーグの才能はプログラミングにある。いわば、ものをつくる分野である。多くの天才芸術家が幼い頃から神童ぶりを示すように、早熟なのは当然だったかもしれない。

 “ものをつくればお金はついて来る”

 ザッカ−バーグは、友人たちに 「こんなものがほしい」 と言われると、要望に応じて、実際に使える複雑なゲームをつくり上げたりもしている。たとえば、「ローマ帝国時代の対戦ゲーム」 といったものだ。

 自分でそのゲームをして、自分でつくったキャラクター、ユリウス・カエサルに連敗したりしているのが面白い。

 こうしたものづくりの延長として、高校時代には友人アダム・ダンジェロと音楽再生ソフト 「シナプス」 を立ち上げている。マイクロソフトなどが100万ドルの値をつけたといわれるほど完成度の高い製品だった。

 だが、お金にさほど興味のないザッカ−バーグは、そういうビジネスには反応しなかった。お金よりも
「次におもしろいことは?」 という方向に進むのが天才の天才たるゆえんでもある。

 人が喜ぶ面白いことを追い求めるのは、ザッカ−バーグの資質の一つだ。ハーバード大学に入ってすぐにつくった講義情報ソフト 「コースマッチ」 や、物議をかもした「フェイスマッシュ」、ほかの10種類にも及ぶプロジェクトも、ビジネスではなく趣味だった。

 そして趣味とは、人を喜ばせることだった。小さなサービスを提供して、人と人とをつなげて楽しむわけだ。そんなことが手軽にできるのは、自分でつくれるからである。構想し、人を説得し、資金を集め、設計図を書いてもらい、試作品をつくってもらい・・・といった手順を踏んでいくのではスピード化は困難だ。

 望ましいのは、ザッカ−バーグのように自分でつくってしまうことである。パソコンは、それが自由にできる最高の舞台だった。

 (つづく)

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 【 引用: マーク・ザッカ-バーグ 史上最速の仕事術 】




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2014年10月19日

伝説の経営者たち マーク・ザッカ−バーグ (1)

 【 連載記事は、下記のカテゴリー欄より通してご覧になれます 】

 人生の節目が来た瞬間は、誰もが気づかない。成功者と凡人の差が生まれるのはそのあとだ。成功者は、新しいステージにいち早く気づき、確信を持って疾走し始める。凡人は、なかなか気づかないし、気づいても走れない。そして、あとになって 「あの時だ。あの時に走ればよかったのだ。」 と嘆く。

 フェイスブックを創ったプログラマーで同社のCEOであるマーク・ザッカーバーグは、5億5千万人以上のユーザーをかかえ、世界をもっとオープンにするという壮大なビジョンを掲げて現代を疾走している成功者だ。

 しかし、ハーバード大学の学生寮で、学内限定のソーシャル・ネットワーキングサービス 「ザ・フェイスブック」 をスタートさせた時には、そんなビジョンはなかった。ザ・フェイスブックはいくつも手掛けているプロジェクトの一つに過ぎなかった。

 急速にユーザーを拡大し始めてもなお、ザッカ-バーグは別のプロジェクトのほうに期待をかけていたのだ。だが、ある時点から、ザ・フェイスブックは人生を賭けるに値する 「フェイスブック」 に変貌する。

 ビジョンは世界へと広がり、ザッカーバーグの人生は、ランチャーで加速された飛行体のように飛び出していくのだ。それは、アップル創業者でCEOだったスティーブ・ジョブズの人生とよく似ている。

 ジョブズも、新製品アップルTを開発した創業期には、周囲にいるマニア数百人に売ることができれば成功だと考えていた。

 それがある時点から突然変わる。アップルUでパソコンという新市場をつくり出したばかりか、「宇宙に衝撃を与えるほどのものをつくろう」 というビジョンにシリコンバレーを巻き込んでいくのだ。

 ザッカ-バーグもジョブズも、節目となる製品ができた瞬間には、平凡な若者だった。だが早い時期に、自分がやっていることの可能性に気づく。そして、気づくや否や全身全霊を打ちこんで、世界を変えるために急加速をはじめている。

 このスピード感が彼の持ち味であり、魅力なのだ。

 “根拠のある悲観よりは、根拠のない楽観で動け”


 何かをなしとげた人間に共通する特徴の一つは、要する時間の単位がとても短いということだ。マーク・ザッカ-バーグがそうである。交友関係を広げるため、多くの学生がオンライン名簿をつくるように大学に要求しても、大学はいっこうに実行しようとしない。

  ザッカ-バーグは、自分も含めた学生たちがそのことに大きな不満を持っていると知って、こう考えた。 「大学にやらせると2〜3年はかかってしまう。僕ならもっといいものがつくれるし、一週間で立ち上げてみせる。」

 かつてザッカーバーグは、全部の寮から合法、違法を問わず写真のデジタル情報を入手して、誰が一番ホットな人間かを決める 「スマッシュフェイス」 を立ち上げたことがある。そんな彼にとって写真名鑑のオンライン化など、大学の協力なしでも簡単にできる技術だった。

 だが、フェイススマッシュの件で、ザッカーバーグは倫理規定違反、プライバシー侵害などで大学の査問委員会にかけられている。問題は法的なトラブルだった。

 ザッカ-バーグは、ユーザー自身に自分の情報をアップロードさせればこの点も解決できると考えた。「自分について公開したい情報を公開する。」 「その情報には誰もがアクセスできる。」 という二点を満たせばいいのだ。

 プライバシーなどの法的問題に抵触することなく、多くの学生が情報を共有できる。

 アイデアに行きつくと、動きは早かった。2004年1月にドメインを取得し、次に月85ドルでサーバーを借りた。そして2月4日には「ザ・フェイスブック」 をスタートさせている。

 カネも情報も組織も握っている大学当局が時間をかけてもできなかったことを、技術とアイデア以外は何も持たない一学生が、一か月もかけずに実現したのだ。プログラムを書いたのはおそらく一晩だったろう。“一週間” は誇張ではない。

 “自信が自分をスピード化する”

 ハーバード大学当局がオンライン名簿を実現できなかった理由は、容易に想像できる。「時間が足りない。」「予算不足だ。」「解決すべき課題が多い。」 などと言っては先送りしていたのだろう。

 ザッカ-バーグは逆である。 「時間が足りないなら短時間でやる。」 「予算不足なら安上がりにやればいい。」 「課題があるならアイデアを出そう。」 と考えるタイプだ。

 楽観的すぎるかもしれない。だが、こうした楽観主義が時間単位を短くしていくのは事実である。それはグーグルの共同経営者であるラリー・ペイジも同じだ。

 ラリーは、スタンフォード大学の大学院時代に、地球全体のウェブをすべてダウンロードしてリンクの記録を取るというアイデアを思いつく。グーグル検索の原点だが、その時、指導教授に 「どのくらいでできるのか」 と聞かれ、 “2〜3週間”と言っている。

 そんな短期間でできるわけなど絶対にない。楽観を通り越して無謀な見通しだった。だが指導教授は、 「時間が足りない」 とは言わなかった。 「やってごらん」と背中を押し、そこにグーグルのもう一人の共同創業者で数学の天才だったセルゲイ・ブリンが加わることで道が開けたのだ。

 2002年に全世界の大学の蔵書をすべて電子化するプロジェクトに着手した時もそうだった。手始めに、学生時代を過ごしたミシガン大学に声をかけると、「蔵書すべての電子化? 1000年かかる」と反論された。それに対して 「グーグルなら6年でできる」 と反論している。

 確固たる根拠があったわけではないだろうが、現実はほぼラリーの言葉どおりに進んだのだ。

 技術は急速に進歩している。事態はどう転ぶかわからない。協力者が出てくる可能性もある。にもかかわらず、1年単位のことを10年単位で考えたり、週単位のことを月、年の単位で見たりするのはサボタージュであり、実現を放棄するのと同じだ。

 根拠など、そうなくていい。楽観することだ。すると自信が生まれる。ここが大切だ。自信をもってまずやることが、速さの最大要因である。

 (つづく)

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2014年10月11日

ハングリー (4) 日本の富豪にのぼりつめた人たち

  都道府県別でそれぞれ最も高額な年収を稼いだ人たちのプロフィールを、過去からさかのぼって紹介します。文字通り裸一貫からのし上がって来た事業家のドラマ。富豪に上りつめた人たちに共通するのは、派手な経歴でも学歴でもない、 ”ハングリーさ” でした。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 親が誰なのか知らない」孤児院育ち、CoCo壱番屋創業者の壮絶半生


 「戸籍上は石川県生まれですが、両親が誰なのかわかりません。兵庫の孤児院で育ち、3歳の時に雑貨商を営む夫婦に引き取られました。ところが養父がギャンブル(競輪)にはまって財産をなくし、夜逃げするように岡山に移ったんです」

  こう語るのは、名古屋から生まれた「カレーハウスCoCo壱番屋」の創業者・宗次徳二(63歳)である。「壱番屋」は国内に1229店舗を展開し売り上げは721億円になる。彼の半生は壮絶である。電気も水道もない生活が何年も続いた。

 泣いている暇もなく、学校から帰ると養父の帰りを待ちながら、ローソクの灯りで掃除や炊事をするのが仕事だった。だが、そんな養父だが、嫌いにはならなかったという。

 「大好きでした。年に一度だけ、職安でもらう年末一時金で私の大好きなリンゴを二つ、お土産に買ってきてくれる。あのリンゴの味は格別でした」

宗次はほぼ毎日、名古屋・栄の街を早朝掃除する。「お金を自分のために使うのは恥ずかしくてできない」という。時計は9800円、シャツは980円で、自宅は接待用に少し大きなものを建てたのだが、「それも恥ずかしいこと」だと話す。

 宗次のたどった半生は、生半可なものではなかった。

 1948年、石川県生まれとされるが両親は不明。生後まもなく兵庫県尼崎市の孤児院に預けられ、3歳のときに雑貨商の養子にとなる。養父が競輪やパチンコなどのギャンブル好きで生活が不安定だったことから、15歳まで生活保護を受けて生活し、岡山県玉野市など各地の廃屋を転々とした。養父に愛想を尽かした養母は失踪。

 養父と2人で、電気や水道を引くこともできず、ろうそくで明かりを得、雑草を抜いて食べるほど困窮した生活を送る。8歳のときに居場所が判明した養母を頼り、養母が住む名古屋市の四畳半のアパートに家族3人で住むが、すぐに養母は家を出た。

 暴力を振るう厳しい父と2人で暮らし、パチンコ店でこぼれ玉やシケモク(煙草の吸殻)を集めるなどして生計を助けていた。吸殻を拾わなかったり、掃除を怠ると、養父から全裸にされほうきで殴られるなどの虐待を受けた。15歳のときに養父が胃癌のため死去し、養母と同居するようになる。

 朝5時半の始発電車に乗り、登校前に同級生の父が経営する豆腐屋でアルバイトしながら学費、生活費などを稼ぎ、1967年3月に愛知県立小牧高等学校商業科を卒業。翌4月に新聞広告を出していた八洲開発株式会社に応募し、入社する。

 1970年2月に大和ハウス工業株式会社名古屋支店に転職後、同僚の直美(のちに株式会社壱番屋社長・会長・相談役、世界優秀女性起業家賞受賞)と結婚。結婚2年後に独立し、1973年に自宅1階に不動産仲介会社の岩倉沿線土地を開業した。

 不動産業の収入が不安定だったことから、妻と相談し、1974年にCoCo壱番屋の前身となる喫茶店「バッカス」を名古屋市西区内に開業した。

 オープン初日に手伝いに入った際、喫茶店が天職であると感銘を受け、不動産業の廃業を決意。のち岩倉沿線土地を廃業(当初は現金収入を増やすために兼業でやるつもりであった飲食店業に専念したくなったため)。2号店となる珈琲専門店「浮野亭」を開業。

 1978年にカレーハウスCoCo壱番屋を創業、愛知県西枇杷島町に1号店を出店する。10ヶ月後に2店の喫茶店を処分。自転車操業が続いたが、新店舗開業などのため尾西信用金庫から借り入れた100万円のうち、20万円は社会福祉協議会や町役場に匿名で寄付した。

 1982年には既に売上が3億円を超えており、株式会社壱番屋を設立し代表取締役社長に就任、1998年には500店出店を機に妻・直美と社長を交代し、自身は代表取締役会長となった。

 2002年には代表権のない創業者特別顧問に退き、19歳のときにアルバイトとして入社した浜島俊哉副社長を社長に就かせた。役員からも退任し、経営から引退した。社交的な妻とは対照的に、引退するまで友人を一人も作らず、3、4時間の睡眠時間で、仕事に専念したという。

 経営の一線を退いてからは、2003年に音楽やスポーツの振興、福祉施設やホームレスへの支援などのためNPO法人イエロー・エンジェルを設立し理事長に就任。クラシック音楽好きであり、 2007年にはクラシック音楽の普及を目的として、私財を擲って宗次ホールを建設、2012年に1月名古屋市芸術奨励賞を受賞した。

 宗次直美は言う。

 「 独立希望者に教え込むのは、私たちが飲食業を始めたときに何をしたか、どのような気配りをしたかということです。私は、宇宙人でなく人間です。だから、私にできたことはあなたにもできる。それを継続できるかできないかが問題なのです。」

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2014年09月20日

カンボジアで日系総合商社を経営する横井朋幸氏、35歳の辣腕起業家

 今週、『世界は僕らの挑戦を待っている』を出版された挑戦者集団、トライアジアグループのCEO,横井氏をFacebookで応援しています。

 新事業を次々に手掛けて成長させていく手腕がめざましく、この若さで挑戦と成功を勝ちとっていく横井氏のドラマを見ていると、ワクワクします。

  http://triasiagroup.com/

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 昭和54年5月生。幼少期は愛知県で育つ。県立高校卒業後、ロックミュージシャンを志し単身イギリスに渡り、起業家ロン・ザール氏(大学教授から飲食店を創業)との出会いに影響され自身も起業家になることを決意。  

ヨーロッパ7カ国を放浪後、帰国。大原簿記学校で日商簿記1級を取得し、北海道大学経済学部に3年次編入試験で首席合格。在学中札幌にて広告出版事業、人材事業などを起こし2008年に東京進出。2009年9月より日本初の社会保険料最適化(SIO)事業を考案し事業化に成功。

 2011年12月に株式譲渡し、その資金を元手にアジア最速成長国カンボジアへ渡る。2012年7月にトライアジアグループを設立し、2年で8事業・従業員約300名まで拡大。2014年7月にはカンボジアで初の、日系TV局開局を果たす。更なる事業拡大に向け、邁進中。

【 世界は僕らの挑戦を待っている 】





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2014年09月14日

伝説の経営者たち − ドナルド・トランプ (13)、アメリカの不動産王

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 『敬意を勝ちとる』

誰かと取引をする際は、自分がその道のプロであるという点を、相手に理解させておかなければならない。これを怠った場合、相手方はあなたの無知を徹底的に利用してくる。このような目にあいたくなければ、あなたはみずからの知識を示し、相手から敬意を勝ちとる必要がある。

わたしの得意分野は不動産。わたしは不動産を理解し、不動産を愛している。不動産にかんするかぎり、誰もわたしを出し抜くことはできない。相手に敬意を払わせたいとき、最も大切なのは、得意分野をきめておくことだ。

よちよち歩きをはじめたころから、わたしは父に連れられて、建設現場に出入りしていた。そして父の働く姿を観察することにより、部下の扱い方を学んだ。軍隊式寄宿学校に通っていた十代のころは、休みに実家へもどると父のあとをついて回った。

不動産業のノウハウを間近で学んだのはこのころだった。

不動産開発業で利益をあげるには、コストダウンを続けていかなければならない。わたしは父から交渉術も学んだ。父の交渉の激しさは、ビルを建てるときも、モップやほうきを買うときも同じだった。父は自分の庭を知り尽くしていた。屋根ふき作業のコストが80万ドルなら、60万ドルまで無理に値切ることはしなかったし、業者に120万ドル以上支払うこともしなかった。

あなたは自分がその道のプロであることを、会う人すべてに理解させなければならない。もしもあなたが実業家なら、実業家らしく見せる必要がある。役割どおりのいでたちをし、役割どおりのふるまいをするのだ。素人なのではないかという疑問を、一瞬たりとも脳裏によぎらせてはならない。

父のもとを離れてマンハッタンに進出したとき、わたしは金もなければ部下もいなかった。しかし、オフィスでのわたしは、大組織を背負っているかのように行動した。 <トランプ・オーガナイゼーション> がわたしひとりきりの企業であることも、オフィスがわたしのワンルームマンションであることも、ほとんどの人は知らなかった。

わたしは飛ぶ鳥を落とす勢いの起業家風の服装をした。将来の成功者に特有の決意と熱意を漂わせつつ、黒のピンストライプのスーツ、白のワイシャツ、頭文字を刺繍したネクタイ、という一分の隙もないいでたちで、取引相手のオフィスへと乗り込んでいった。

「君にできるのか?」 と疑念を持たれた経験は一度もない。 「自分に不可能なことなどない」 とふるまうわたしに、疑問を投げかけるだけの度胸の持ち主はひとりもいなかった。どんな取引でも、わたしは最初から主導権を握ることができた。関係者全員がわたしに敬意を払っていたからだ。

“腐ったリンゴを取り除け”


かつてのわたしは、 「最高の人材を探し出せ。そして、彼らを信頼せよ」 と言っていた。しかし、長年にわたって数多くのペテンを目撃してきた結果、今では 「最高の人材を雇え。ただし、決して彼らを信用するな」 と言うようになった。

自分の仕事をきわめていない人間が、うっかり彼らを信用してしまうと、獅子身中(しししんちゅう)の虫に身代を食いつぶされる。
 
如才ない実業家たちが会計士や弁護士に全幅の信頼を置く場面を、わたしはいくつも見てきた。彼らは破滅への道をたどり、最終的には事業を手放さざるをえなくなった。だからわたしは言うのである。
「最高の人材を雇え。ただし、決して彼らを信用するな。」 と。

何をさしおいても、あなたは最高の人材を探し出さなければならない。 『ジ・アプレンティス』 の影響で、わたしには “すぐに社員をクビにする” イメージがついてしまったが、ここで強調しておきたいのは、わたしが優秀な人材を会社に雇い入れ、社内で大事に育てているという事実だ。

長いあいだに積み重ねらてきた経験は、わたしの人を見る目を磨きあげてくれた。

採用面接のとき、わたしは相手の品定めを瞬時に行い、質問にだらだらと時間をかけたりしない。すべての採用はギャンブルである。筆記試験、面接、飲食接待はほとんど意味を持たない。わたしの経験から言うと、良い人材を選ぶ最善の指針は第一印象だ。

いくら会合や面接を重ねても、たいていは時間のムダに終わる。面接には、いかにも有望そうな志願者がやってくる。雰囲気もばっちり、しゃべりもばっちり、いでたちも完璧。しかし、雇ってみたらただのアホだった、ということが珍しくない。

 面接には、いかにもダメそうな志願者もやってくる。見た目はむさ苦しく、服装はだらしなく、頭の回転も悪そう。しかし、雇ってみたら天才だった、ということもたまにある。

絶対に雇ってはいけないのは、ネガティブな姿勢を持つ人間だ。昔の格言にあるとおり、 「ひとつの腐ったリンゴは、樽の中にあるすべてのリンゴをダメにする。」 ネガティブな姿勢を持つ人間は、危険なウィルスのように、ネガティブな感情を会社じゅうに伝染させる。

彼らは職場全体の士気を下げ、健全なチームを機能不全におちいらせる。研究によれば、ネガティブな行動によるマイナス効果は、ポジティブな行動によるプラス効果を上回るらしい。これは興味深い結果であり、わたしの経験から言うと真実である。

ネガティブな社員が数人いるだけでも、オフィス全体の環境が破壊される。ネガティブの力はこれほど協力なのだ。

 ポジティブな人間がいくら頑張っても、マイナス効果を打ち消すことはできない。職場の中にひとりでもあら探しをする人物がいると、文句の連射を聞かされる人間の側にも汚染が広がり、すぐさまオフィス全体がネガティブな空気に包まれる。

労働環境は悪化し、職場の全員が不快感をおぼえる。腐ったリンゴのマイナス効果はがんのように伝播する。すべての社員が愚痴をこぼすようになるのは、時間の問題。社員のネガティブさは、取引相手にも見破られる。これはビジネス全体に悪影響をおよぼす。

新しく社員を採用するときは、腐ったリンゴの予備軍をみきわめる必要がある。前の仕事、前の雇用主、前の同僚に文句を言うようなら、次はあなたが文句の対象になる可能性が高い。一般的に言うなら、論争好きで無愛想な人間は雇わないほうがいい。将来に禍根をのこすことになるからだ。

わたしは正直かつ誠実な人物を雇うようにしている。わたしは誠実さに重きを置く。わたしは腹蔵のない人物を、正直で素朴な人物を好み、自分の能力や値打ちを過大評価する人間を避ける。自身を持つことは良いことだが、うぬぼれはその限りではない。

わたしは慢心していないし、慢心した人間とは無縁でいたい。慢心した人間に迎合するヒマなどない。あなたが心して探すのは、勤勉で、誠実で、学習意欲が高く、挑戦を歓迎する人物だ。これらの資質を初対面で見きわめるのは難しい。だから、わたしは自分の直感の導きを頼りにしている。

ときには、外見もみすぼらしく、経験もほとんどない志願者がやってくる。しかし、こういう人物が不動産に対する偽りなき愛情と、身を粉にして働く覚悟を持っている場合がある。人間の態度からは、さまざまなことが分かる。正しい態度を示せれば、わたしの第一関門はクリアだ。

続いて確かめるのは、頭の回転の良し悪し。筆記テストの得点や学校の成績は、わたしの場合、ほとんど判断材料にはならない。成績の最優秀者が一番の切れ者とは限らないのである。本当に大切な点は、直感に従って行動できるかどうかだ。

わたしは切れ者たちを相手に、数多くの取引をこなしてきた。相手が切れ者かどうかは肌で感じ取れる。面接で志願者と向かい合ったときに、いつもの取引相手と同じような感覚を受ければ、わたしはこの志願者を採用する。

100%当たるとはいえないが、わたしにとっては最も正確な識別方法なのだ。


 ( つづく ) 

 ( 引用: 『 でっかく考えて、でっかく儲けろ 』 Think Big and Kick Ass in Business and Life )


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2014年08月24日

"日本を爆発させる大ぼらのススメ (2) ソフトバンク社長 孫正義”

【 連載記事 「伝説の経営者たち」 に掲載します。世界各国で伝説となった経営者たちの素描を描いています。 】

“ロボット覇権をかけた戦い − グーグル vs ソフトバンク”

 オロジックというロボットを開発・製造するベンチャーがあるが、その社長は言う。
「私の友人が働くロボット企業が、グーグル(年商3兆円)に次々と買収されました。」

 現在グーグルは8社を買収し、東大初のロボットベンチャーまで買収した。
グーグルは50名程のロボット研究家が集まっており、グーグルはロボットを制御する基本ソフトを開発することで世界の次なる基準を独占しようとしている。

 ソフトバンクの孫社長は、そこにも注目している。ロボット開発でグーグルに先んじようという唯一の日本企業。汐留の本社には、ビルの清掃人すら入れないプロジェクトチーム・メンバーのみが入れる部屋がある。

 ベンチャー企業のオフィスのような開放的なオフィスでは、プロジェクトメンバー自らが清掃しているという超機密の部屋である。

 グーグルに先んじて、200億円の開発費をかけて19万8千円で家庭用ロボットを開発した。
「CPUの性能もよくなった。メモリーも飛躍的に向上した。今後は自らの意思を持って自ら成長していくロボットを開発する。」 と意気込む。

 このロボット “ペッパー10号” は、いずれ日本人家庭の家族の一員となるだろう。ロボットと言えば、2000年にASIMOを開発したホンダも、一時的に話題をさらったものの、その後が続かず、ソニーも2006年にロボット事業から撤退している。

 一方、学界の方ではロボット研究は着実に進んでいる。大阪大学大学院基礎工学研究科システム創成専攻の石黒浩教授は、ロボット製造企業であり、感動創造企業のヴィストン(株)でロボットを販売している。

 これが既存のロボットの技能を飛躍的に高めた “はるか”
 会話はもちろん、人間の基本動作ができるロボットだ。ロボカップで5年連続して優勝した技術が、大阪市のヴィストンから生まれている。石黒教授のコピーロボットも生まれている。人間そっくりの動きをするのである。

 明らかに、これまでのロボットでは体現できなかった動きができるようになった。
人は何を基準にロボットを作るのだろうか。

 老人ホームで孤独を感じる老人、認知症の老人は、ロボットとの会話で驚くほど症状が改善しているという。

 ロボット3,000万人を導入することで、少子化に悩む日本に労働力を提供し、労働人口を増やすことで日本の経済拡大に貢献する。

 “破壊的創造者” であり、自称 “大ぼら吹き” の孫正義は、いつもそんな気宇壮大な夢を楽しそうに語り、やがて実現していく。

(引用: カンブリア宮殿 400回記念番組より)

 【 孫正義 名語録 情熱編 志を実現させるための心得50 】


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2014年08月03日

“日本を爆発させる大ボラのすすめ” ソフトバンク 孫正義社長

【 連載記事 「伝説の経営者たち」 に掲載します。世界各国で伝説となった経営者たちの素描を描いています。 】

 「 挑戦しないで逃げるのは卑怯だ 」 

 と言ったのはセブン・アンド・アイ・グループの伊藤雅俊会長だが、挑戦しまくって不可能を可能にしてしまった現代日本経済の盟主がいる。ソフトバンクの創業者、孫正義だ。

 ドコモ超え、電波、太陽光発電事業と、次々と不可能に思える事業に参入し、ことごとく実現したのが孫正義だ。

 @ 佐賀県の小学生時代に、 「今日はもうひとつ、大ボラを吹いてみたい。僕は大人になって事業家になったら、球団くらい持たなあかん。」 と、わずか10歳たらずでホラを吹いたのが事のなれそめ。

 ところがそれをソフトバンク・ホークス(福岡市) で実現している。

 また、22歳のときにUCB (カリフォルニア大学バークレイ校) から帰国し、福岡市で4畳半のアパートを借りて起業したときに雇った大学生2人の前で、ミカン箱の上に立ち、

 A 「俺たちの会社は将来、売上を豆腐のように1兆円、2兆円と考えるようになりたい。」

 とホラを吹き、 「この人は頭がおかしい。」 と思ったバイト生が翌日、会社を辞めていった。

 その後、2005年にソフトバンクの売上高は1兆円を突破する。

 B 「 利益で1兆円、2兆円と数えるようになりたい。」 と吹いた大ボラ。
2004年の株主総会で語ったこのホラは、誰も信じる人間がいなかった。それもそのはず、当時の純利益で1兆円を超えていた企業はトヨタとNTTの2社しかなかったからだ。

しかも、この大ぼらは、ソフトバンクが赤字続きのときに語っていたのである。
ところが、そんな夢物語も達成してしまう。NTTが118年かかって達成した純利益1兆円、トヨタ自動車が65年かかって達成した1兆円を、ソフトバンクはわずか33年で達成したのだ。

 この頃、孫正義は
 「 国内で2位か3位かという議論はどうでも良い。いずれトヨタさんを抜いて日本一になる。」

「 300年間、生き残るのではなく、成長し続ける。」

 と、またまた夢のような話をしている。

 崖っぷちを自転車で走っていると危険だ。コロッと落ちて死んでしまうかもしれない。ところが、孫正義は、それをずっと続けていれば、上手くなるというのである。

 「その頃は、ドコモは我々の10倍以上の規模だった。」 だがあえて挑戦したのだと言う。目標設定と遂行にはコツがあり、それが大ボラなのだと言う。

「言葉にする方が大きい。言わない方が楽。だから、無謀な夢は言ってしまった方が実現する。」 のだそうだ。

ソフトバンクのマスタープランはとどまるところがない。

「 少なくとも10数カ所のメガソーラーを作り、国内で200メガワット分の太陽光発電を実現する。2万4千世帯分の電力を発電する。 」 と、新たな野望にも着手している。

その一つがアジア・スーパーグリッド構想である。日本とモンゴルを結べば、アジアの電力問題は解決するのだと言う。そのために孫はマスタープラン (基本計画) づくりに余念がない。

「 ソフトバンクをあと100倍大きくする。 」 遠くに願望や目標があり、
「 それだけ情報産業は大きい。ものすごく大きい。」  と、自信をのぞかせる。

 実は、ソフトバンクの次なる戦略は、グーグルと二つにかち合う新技術にある。

 ( つづく) 
 
 【 志高く − 孫正義正伝 】



【 今週のお勧めアルバム “So Far ” Rasmus Faber
モダンジャズとポップスの融合した軽快なのり。倦怠感を吹き飛ばし、絶好調に向かうリズム 】

 
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2014年06月29日

起業家精神が何かを教えてくれる13の言葉

ビジネスをしていれば誰もが一度は憧れる起業家。起業家になるにはどうしたらいいのだろうか? それは誰かに教えてもらうことができるのだろうか?

 それとも、その大部分は資質であって、起業家として生まれたものだけが、起業家になるのだろうか。
 起業家のGary Vaynerchuk氏、インターネットを使い、ワイン・ライブラリーを創業して富を築いた氏(経歴; http://garyvaynerchuk.com/about/)が、刺激的な記事をMediumにあげておられたので紹介したます。

彼は、起業家であるとはどういうことか、自分の考え方を13の項目をあげて説明しています。
(13 Thoughts on Being an Entrepreneur)

 起業家精神に関して書かれたテキストや本は数え切れないほどあるが、彼のこのまとめは現役起業家の生々しい考え方が端的に表現されており、非常に示唆に富んでいると思います。

 さて、もし、あなたが起業家に憧れそれを目指しているとしたら、あなたは彼のような考え方についていけるのだろうか?

1.利益について心配したことはない。いつも収入が最高になることにフォーカスしている
2.防御側にまわったことはない。いつも攻める側にいる
3.つねに、利益よりもスピードのほうに価値をおいている

4.両親や教師の考えにかまったことなどない
5.私のビジネスは私の人生そのもの。それはわたしの血であり、酸素のようなもの。自分のワークライフバランスについて、24才のとき思い悩んだりしなかった*1
6.友人たちの考えなど気にもとめない

7.誰かをうらやんだことなどない
8.いつもみんなを打ち負かしてやると思っている(大事な友だちが相手だとしても)
9.起業家精神は戦争のようなものだと思っている。私と競うすべての起業家たちに成功してもらいたいと思っている・・・私が彼らよりちょっとだけでも先に進んでいるかぎりは

10.いつか自分の名が教科書にのるような「遺産」を残したいと思っている
11.忍耐強い
12.ゼロからのスタートが好きだ。自分が誰で、何ができるか、どんなことが期待できるのか、そういうことを知られない中での、本当のゼロからのスタートにワクワクする

13.モノが嫌いだ。飛行機も、車も時計も、何もかも。そんなもののために、働くことはない

 【 裸でも生きる − 25歳女性起業家の号泣戦記 男子柔道部のいじめ生活から一念発起して、偏差値40代から、慶応大学を出てバングラディシュで起業して裁縫工場を始めた女性起業家の半生 】


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2014年04月27日

伝説の経営者たち − ドナルド・トランプ (12)、アメリカの不動産王

 【 連載記事はカテゴリー欄より通してご覧になれます 】

 『機会と準備がそろったとき、幸運が生まれる』

 ここ数年間のわたしの人生は、控えめに言って “超アクティブ” だった。人生のペースも幾何級数的に速まってきた。こういう人生をわたしは気に入っている。越えなければならないハードルはきわめて高いが、超えたときの充実感と興奮は何物にも代えがたい。

 わたしは物心がついたころから、一生懸命働くということを実践してきた。その結果、何にとりくむ場合でも、成功を当然視する癖が身についてきたのである。私は “幸運な人間” とみなすものもいるが、わたし自身の見解は違っている。ゲイリー・プレイヤーが言うように、成功の陰には努力が存在するのだ。

 多くの人は成功者を見るとき、最終結果ばかりに目を奪われやすい。成功に至るまでのあらゆる努力は見逃され、成功の要因はすべて幸運と結びつけられる。しかし、わたしなら次のように言うだろう。

 「もちろん、彼らは幸運だ。努力の必要性を認識するに足る頭脳を持っていたことは、幸運以外の何物でもない。」 

 わたしはこれまで多くの本を出版してきた。最近は執筆が本業かと勘違いするくらいだ。最終稿ができあがるまでには、多くの時間と、我慢強さと、粘り強さが必要となり、印刷所から初版が上がってきたときには、仕事をやり遂げたという満足感に包まれる。

 ところが、一冊の本のために費やされる汗と筋力が、読者の目にとまることはない。しかし、このような努力の積み重ねがなければ、本は読者の元まで届かないのである。

 わたしはある本の執筆中に、現代のアメリカを席巻する “くれくれ症候群” に興味を持った。この現象の根っこは80年代末にさかのぼる。具体的に言うなら、てっとり早い満足を求める “自己中” 世代の価値観だ。

 当時、大学を卒業した若者は、すぐに成功できると思い込んでいた。この精神構造は90年代に受け継がれ、株式ブームとITブームが火に油を注いだ。

 大企業を辞めた20代の若者たちが、新興のIT企業に転職したとたん、文字通り一晩でミリオネアーやビリオネアーになる。こういう事例が数多く発生する中で、成功のためにこつこつと一生懸命働くという昔ながらの観念は、 “いますぐ全部欲しい” という “くれくれ症候群” に変わってしまった。

 今日の一般大衆は、ごく少数の成功者と自分を同一視している。濡れ手にアワの成功談をマスコミがたれ流すため、自分もたやすく成功できると信じ込んでしまうのだ。しかし、現実はそう甘くはない。あれよあれよという間の成功は、ごく一部の人にしか起こらないし、ましてや一夜で成功することはなきに等しい。

 だれもがグーグルのセルゲイ・ブリンやフェイスブックのマーク・ザッカ−バーグになれるわけではないのだ。マスコミによる現実の歪曲は、一般大衆に悪影響をおよぼしている。本来、成功というものは長期にわたる奮闘や努力の末に勝ち取るものだ。

 しかし、何もしなくても成功が転がり込んでくると洗脳されているため、良い結果がでないと自分だけがのけ者にされたような被害者意識を持ち、失敗の責任を世間になすりつけるのだ。もちろん、こんな甘ったれた考え方は通用しない。

 現実世界には、金持ちになる保証も、成功する保証もないのだ。失敗の責任をとるべきは、他の誰でもなく自分自身。

 成功を収めたいなら、まずはしっかりと地に足をつけなければならない。そして、努力と勤勉によって舗装された道だけが、成功へとつながっていることを、理解しなければならない。ほかに道は存在しないのである。

 もちろん、幸運も何らかの役割を担っている。しかし、あなたは幸運をコントロールできない。あなたにできるのは、自分を有利にしてくれるものを見きわめ、それを最大限に利用することだけなのだ!

 自分の欠陥は無視していい。ネガティブ思考に取りつかれたら、あなたの人生はそこで終わったも同然。幸運の女神は二度と微笑んでくれないだろう。多くの人が弱点を抱えながら成功を収めている。この事実を忘れないで欲しい。

 ( つづく ) 
 ( 引用: 『 でっかく考えて、でっかく儲けろ 』 Think Big and Kick Ass in Business and Life )


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2014年03月09日

伝説の経営者たち − ドナルド・トランプ (11)、アメリカの不動産王

 【 連載記事はカテゴリー欄より通してご覧になれます 】

『幸運をつくり出す』

努力すればするほど運が上向くと言う実例を、私の体験の中から紹介しよう。注意して聞いてほしい。これは情熱と直感と、そう、幸運が織りなす物語なのだ。

1991年の不動産市場は不振の真っただ中にあった。業者の撤退が相次ぎ、わたしも深い深い泥沼にはまり込んでいた。借金の総額は数千億円。プレッシャー対策には一家言ある私でも、楽しいと言える状況ではなかった。

数千億円の負債を抱えているドナルド・トランプは、代わってみたいと思うようなクールな存在ではない。ある日、執務中の私に秘書が言った。

 「あのう。トランプさん。今夜は銀行家集会の予定が入っています。」 
 ウォルドルフ・アストリア・ホテルで開かれるこの晩餐会は、銀行関係者2,000人が顔をそろえる恒例行事であり、わたしはいつも欠かさず参加していた。人間は苦境に陥ってしまうと、順調なときのように活力が湧いてこない。

あの日のわたしも、銀行員に囲まれて一夜を過ごすより、自宅でフットボールの試合を観ていたい気分だった。地獄のような一日を終え、疲れは頂点に達していた。わたしは昼のあいだ、あらゆる銀行の返済要求にさらされていたのだ。

わたしの取引銀行の中に、とりわけ厄介な一行があった。この銀行の融資回収担当者は、悪意と敵意に満ちていた。彼は融資先を次々と廃業させた。彼の貸しはがしにより、ニューヨーク市では37人の不動産業者が破産に追い込まれた。

わたしがこの銀行から借りていた額は150億円。ほかの銀行と比べれば少額の部類に入るが、くだんの債権回収担当者の次のターゲットはわたしだった。たいていの場合、銀行は融資先となんらかの妥協点を探る。

しかし、彼は即時の100%返済という線を譲らなかった。彼はけだものだった。彼は私を破滅させようとしていた。

銀行家集会には行きたくなかった。なぜなら、彼は返済の滞った借主に憎悪を向けてくるからだ。ホテルの会場には、取引銀行の関係者が全員顔をそろえているだろう。自分をぶんなぐりたいと思っている連中に囲まれていては、ディナーを楽しむどころの騒ぎではない。

外には冷たい雨が降っていた。わたしは精も根も疲れ果てていた。数千億円の負債を抱える身では、高級リムジンで会場に乗りつけるようなまねはできない。ホテルへ向かう時間ですと秘書に言われたとき 「今日はやめておこう」 と答えた。

しかし自宅に戻ると、気力が回復してきた。 「やっぱり、行くことにしよう。」と思い直したわたしは、タキシードに着替え、会場へ向かった。イエローキャブがつかまらなかったため、トランプ・タワーからの10ブロックは、冷たい雨の中を歩いた。体はびしょ濡れ。

どん底の気分を支えてくれたのは、 “これは仕事なのだ” という思いだった。会場へ入って着席すると、左隣の銀行員が 「やあ、ドナルド」 と優しく声をかけてきた。続いて右隣の男にも、声をかけてみた。

男は何かをつぶやき、刺すような視線を返してきた。
「誰だか知らないけど、あんまり好かれてないみたいだね。」 さっきの左隣の男が耳元でささやく。名前さえわからない。わたしにとって右隣の男は、ただの名無しの怒りん坊だった。

しばらく左隣と談笑したあと、わたしは再び右隣の男に話しかけてみた。無駄な努力だった。たとえるなら、石の壁との会話。おまえの相手をするつもりはない、と男の態度は明確に語っていた。

緊張感があたりを満たし、わたしはみじめな気分になった。ニューヨーク中の銀行に借金をしているから、私はこんな目に遭わなければならないのだ。おそらく右隣の男は銀行員で、わたしを憎んでいるに違いない。ここまでひどい態度を取られるということは、わたしは男の銀行に莫大な借金があるに違いない。

それでも語りつづけた。少し打ち解けたところで、「君はどこの銀行に勤めている?」
と聞いてみる。男の答えに、わたしは度肝を抜かれた。2,000人を超える参加者の中で隣り合わせになったのは、よりにもよって、わたしが150億円を借りている銀行の行員だった。

しかも、この陰険な男こそが、ニューヨーク市内の不動産業者37人を破産に追い込み、次のターゲットを私に絞っていたのだ。なんという運命! この偶然のいたずらには私も唖然とするほか無かった。

「君はみんなを破滅させて、今は私を破滅させようとしている。」
「その通りだ。」 と彼はにべもなく答えた。しかし、会話は途切れることなく続き、ふたりは次第に打ち解けていった。彼は無類の女好きで、女性の話をしたがったため、わたしは女性の話題で盛り上げた。

ありていに言うと、150億円を借りている人間は、相手の話に合わせるしかないのである。

話の中で明らかになったのは、彼自身も苦境に陥っているということだった。彼は37人の業者を破産させたが、もともと完済能力が無いのだから、融資金の回収額が増えるわけではない。

それどころか、債権返済にかかる弁護士費用がどんどんかさみ、弁護士に食い物にされた彼は、結果として銀行に金銭的損害を与えた。ふたりはさらに打ち解け、最後には意気投合していた。

「ドナルド、あんたは悪い奴じゃないな!」 と彼は言った。
「当然だ」 と私は言った。
「うちの事務所に来てくれないか。返済の方法を話し合おう。」 と彼は言った。
絶頂期の頃は、銀行員が私の会社に来たが、絶不調期には、こっちから相手の事務所を訪ねることになる。

月曜日の朝、わたしは彼の事務所を訪ねた。そして、到着から5分後には、素晴らしい返済計画がまとまっていた。

この経験があるからこそ、わたしはゲイリー・プレイヤーの 「努力すればするほど、わたしの運は上向く。」 を信じられるのだ。

あの夜のわたしは、外出を望んでいなかった。あのまま自宅にとどまり、フットボールの観戦にとどまっていたら、おそらく、今のわたしは無い。破産して不動産業界を去った人々のように、今も不振にあえいでいるはずだ。

他人より幸運な人々が存在するのは事実である。わたしは100%そう信じている。しかし、自分で自分の運をつくり出すことはできるし、努力と知恵を傾ければ、不可能を可能にすることもできる。

つまり、あなたの幸運は向上させられるわけだ。実際、不運な状況に陥った多くの人々が、努力によって運を好転させている。

幸運はそう何度もめぐってくるわけではない。だから、巡ってきたときには、どれほどきつくても努力を惜しまず、幸運を100%利用する必要がある。運が味方してくれているあいだは、遠慮や躊躇などいらない。

あなたは人生最大の成功をめざして行動を起こすのだ。“Think Big (でっかく考えろ)” とは、まさにこのときのための言葉である。

 ( つづく ) 
 ( 引用: 『 でっかく考えて、でっかく儲けろ 』 Think Big and Kick Ass in Business and Life )



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2014年03月02日

フェイスブックに2兆円で買われた男 波乱の半生

 【 ジャズ・ギターの名曲 ”Playing for time - Acoustic Alchemy”
You Tube で聞けます。http://www.youtube.com/watch?v=rCeKpzyS-sk 】

 2014年2月19日、米ワッツアップ創業者のヤン・クーム(37歳)は、同社を米フェイスブックに190億ドル(約1兆9400億円)で売却する契約に署名するのに、思い入れのある場所を選んだ。

 共同創業者のブライアン・アクトン、ベンチャー・キャピタリストのジム・ゲッツとともに赴いたのは、マウンテンビュー市にあるワッツアップの質素な本社から数ブロック先の、線路を超えたところにあるひとけのない白い建物だ。かつてノースカウンティ社会福祉事務所が入居し、生活保護受給者向けの食料配給券を受け取るためにクームが並んだ場所である。

 3人はここでスマートフォン向け人気メッセージアプリを運用する同社(とはいえ昨年の売上高はわずか2000万ドル)を、世界最大の交流サイト(SNS)に売却する合意書に署名した。

 フォーブスによると、クームはワッツアップ株の45%を保有しているとされ、今回の売却で突如として68億ドル(約6800億円、税引き後)を手に入れたことになる。

 クームはウクライナの首都キエフ郊外の小さな村で、専業主婦の母親と病院や学校の建設管理者をしていた父親の一人息子として生まれ育った。家ではお湯が使えず、両親は国による盗聴を恐れてめったに電話を使わなかった。ひどい環境のようだが、クームは今でも当時の田舎暮らしを懐かしみ、それは騒々しい広告をかたくなに拒否する大きな理由の一つとなっている。

 必死で生活費を稼いだ母と子

 16歳のとき、ウクライナでの政治的混乱と反ユダヤ主義の高まりを受けて、クームは母親とともにカリフォルニア州マウンテンビューに移住してきた。そして政府の支援を受け、寝室2間の小さなアパートに落ち着いた。父親とはとうとう合流できなかった。母親は米国で学用品を買わずに済むように、スーツケースにペンと旧ソ連製のノート20冊を詰め込んできていた。

 母親は子守、クームは食料品店の床掃除の仕事に就き、生活費を稼いだ。母親ががんと診断されると、障害者手当で生活した。クームは英語力には問題はなかったものの、米国の高校の軽薄な人間関係が嫌だった。ウクライナでは10年間、少人数の同じ顔ぶれで学校に通った。「ロシアではお互いのことを本当に深く知るんだ」

 学校では問題児だったが、18歳になるころには古書店で参考書を買い、コンピューター・ネットワーキングを独学で学んだ(使い終わった参考書はまた古書店で売った)。

 インターネット・リレーチャットEfnetで「w00w00」というハッカーグループに参加したり、シリコン・グラフィクスのサーバーに忍び込んだり、ナップスター共同創業者のショーン・ファニングとチャットをしたりしていた。

 サンノゼ州立大学に入学し、夜はアーンスト・アンド・ヤングでセキュリティー検査のアルバイトをした。1997年、広告システムの検査のためにヤフーを訪れたとき、向かい側に座っていたのがヤフー社員番号44番のアクトンだった。

 「クームがちょっと変わったヤツだというのはすぐにわかった。実務的で 『ここの規則はどんなものですか』 『ここでは何の仕事をしているんです?』 と単刀直入に聞いてきた」。

 アーンスト・アンド・ヤングの他の従業員は、ワインを差し入れするなど良好な雰囲気づくりに心を砕いていたが、「そんなことはいいから、さっさと本題に入ればいいんだ」とアクトンは語る。クームもアクトンの実務的なところが気に入った。「どちらもくだらない話をするタイプじゃないんだ」とクームは語る。

 ヤフーで出会った失意の友人

 半年後、クームはヤフーの面接を受け、インフラストラクチャー技術者として採用された。まだ大学も続けていたが、採用されて2週間後にヤフーのサーバーが1台故障した。共同創業者のデビッド・ファイロがクームの携帯に電話をかけてきて、手を貸してくれと言う。

 「今、授業中なんですが」ときまじめに答えると、「授業がどうした。そんなことより、今すぐオフィスに来い!」と怒鳴られた。ヤフーのサーバー技術者は少なく、ネコの手も借りたい状況だったのだ。「どちらにしても学校は嫌いだったから」、クームは大学を中退した。

 2000年に母親ががんで亡くなり、クームは若くして天涯孤独になった。父親はすでに1997年に他界していた。そのときアクトンが手を差し伸べてくれた、とクームは語る。「ぼくを家に招待してくれたんだ」。一緒にスキーやサッカー、アルティメット・フリスビーも楽しんだ。

 それからの9年間、2人はヤフーが幾度も山や谷を経験するのを目の当たりにしてきた。アクトンは2000年のITバブルで何百万ドルもの損失を出した。アクトンも広告を毛嫌いしていたが、2006年にはヤフーの主要広告プラットフォームで開発が遅れに遅れていた「プロジェクト・パナマ」に引っ張り込まれていた。

 「広告に関わる仕事は、気分が沈む。広告システムを改良しても、誰も幸せにはならないからね」とアクトンは語る。精神的にもすっかり疲弊していた。「廊下を歩く彼の姿を見るだけでそれがわかった」というクーム自身も、仕事が楽しくなかった。

 SNSのリンクトインのプロフィルでは、ヤフーでの最後の3年間について「あれこれやった」と投げやりな書き方をしている。

 フェイスブック転職に失敗

 2007年9月、クームとアクトンはついにヤフーを退社し、息抜きのために1年休暇をとり、南米を旅行したり、アルティメット・フリスビーをしたりして過ごした。2人ともフェイスブックに応募したが、不採用となった。「ぼくらはフェイスブック不合格組さ」とアクトンは語る。

 クームはヤフー時代に蓄えた40万ドル(約4000万円)の貯金を食いつぶし、目標もなくぶらぶらしていた。そんななか2009年1月にiPhone(アイフォーン)を購入し、まだ登場して7カ月のアップストアから新たなアプリ産業が生まれると直感した。

 ロシア人コミュニティーで発案

 クームはロシア人の友人アレックス・フィッシュマンの自宅を訪ねた。フィッシュマンはウエスト・サンノゼの自宅に毎週地元のロシア人を招いてピザと映画の夕べを開いており、ときには40人も集まるほどだった。2人はキッチンのカウンターで紅茶を飲みながら、何時間もクームのアプリのアイデアを語り合った。


 「ヤンはぼくに自分のアドレスブックを見せながら、それぞれの名前の横にステータスが表示されたらすごく楽しいじゃないか、と話していた」とフィッシュマンは振り返る。

 ステータスには電話中、バッテリー残量が少ない、あるいはジムでトレーニング中といったことが表示される。クームはプログラムのバックエンドは自分で作れるが、iPhoneのわかるデベロッパーが必要だと言うので、フィッシュマンは、フリーランスの仕事情報を提供する「RentACoder.com」で見つけたデベロッパーのイゴール・ソロメニコフを紹介した。

 クームはすぐに「ワッツアップ」という名前を決めた。英語の「What’s up(今何してる?)」と音が似ていたからだ。約1週間後、自分の誕生日だった2009年2月24日にはカリフォルニア州でワッツアップ(WhatsApp, Inc.)を設立した。

 「クームはとても用意周到なタイプだ」とフィッシュマンはいう。とはいえアプリはまだ影も形もなかった。クームは国際電話用の各国の国番号が書かれたウィキペディアのページを参考にしながら、数日かけてアプリが世界中のどんな電話番号でも同期できるようにバックエンド・コードを書いた。

 それからさらに何カ月もかけて、何百という地域別の特殊番号に対応するという腹立たしいくらい根気の要る作業に取り組んだ。

 アップルのプッシュ通知が追い風に

 初期のワッツアップは頻繁にクラッシュあるいはフリーズした。フィッシュマンが自分のiPhoneにインストールしたときには、アドレスブックの数百人いる友人(ほとんどが地元のロシア人)のうち、わずか数人しかダウンロードしていなかった。

 人気レストラン「トニー・ローマ」でリブステーキを食べながら、フィッシュマンは気づいた問題を次々と挙げていき、クームは旧ソ連製のノートにメモを取った。移住するときに持ってきた例の残りで、ここぞというプロジェクトのため大切にとっておいたものだ。

 その翌月、アクトンとアルティメット・フリスビーをしたとき、クームはもう事業をたたんで、職探しをすべきかもしれないと打ち明けた。アクトンは怒鳴った。「今辞めるなんて大バカだ。あと何カ月かがんばってみろよ」。

 追い風となったのが、アップルが2009年6月に導入したプッシュ通知だ。この結果、デベロッパーはユーザーがアプリを使っていないときでも情報を通知できるようになった。

 クームはワッツアップをアップデートし、誰かが「ジムにいるから、今は話せないよ」などとステータスを変更するたびに、ネットワークの全員に通知されるようにした。フィッシュマンのロシア人仲間にも利用が広がり、「寝坊しちゃった」「今そっちに向かってる」などふざけたステータスを通知しあうようになった。

 「ある段階でワッツアップはインスタント・メッセージのようなサービスになった。『やあ、どうしてる?』みたいな質問を投げると、相手が返信する、といった具合に」とフィッシュマンは語る。

 サンタクララの自宅でMacMiniを開いてユーザーのステータス変化を見守っていたクームは、自分が意図せずにメッセージング・サービスを開発したことに気づいた。「地球の裏側にいる相手に瞬時に、それも常に持ち歩いているデバイスでメッセージを送れるというのは、とても魅力的だった」とクームは語る。

 当時存在していた無料のテキストメッセージング・サービスはカナダのブラックベリーのBBMだけで、それもブラックベリーユーザーの間でしか使えなかった。グーグルの「Gトーク」やスカイプは存在していたが、ワッツアップがユニークだったのは自分の電話番号でログインできたことだ。

 クームがメッセージング機能を搭載したワッツアップ2.0を公開したところ、アクティブユーザーは一気に25万人に膨らんだ。そこでクームは、まだ失業中でどうにもならない起業アイデアを抱え込んでいたアクトンに会いに行った。

 2人はキッチン・テーブルに腰をおろし、互いにワッツアップでメッセージを送り合った。相手の電話がメッセージを受け取ったことを示す、有名な2つのチェックマークもすでに搭載されていた。

 アクトンはワッツアップが従来のものよりはるかに充実したショートメッセージ・サービス(SMS)であり、写真を送るいわゆる「マルチメディア・メッセージング・サービス(MMS)」よりも効率的で、期待ほどの働きをしない他のメディアと比べても優れていることに気づいた。「インターネットの無限に広がる世界が、すべて攻略対象だった」とアクトンは語る。

 出資受けアプリ改善に没頭

 2人はマウンテンビューのカリフォルニア通りとブライアント通りの角にある、ベンチャー企業創業者の集まる「レッドロック・カフェ」を仕事場にした。この店の2階では今も、大勢の起業家がグラグラするテーブルでノートパソコンを開き、黙々とコードを書いている。2人もしょっちゅう2階に陣取り、アクトンがノートに書きつけたものをクームがタイピングしていった。

 10月にはアクトンがヤフー時代の5人の同僚から総額25万ドルの出資を集め、共同創業者の地位と持ち株を与えられた。正式な入社は11月1日だ(共同創業者2人でまだ60%以上の株式を保有している。これはハイテクベンチャーではかなり高い数字だ。

 アクトンが入社する9カ月前にアイデアを形にしたクームのほうが持ち株比率は高いとされる。初期に入社した社員も1%近い株を保有しているとされるが、クームはこの点についてコメントしない)。

 2人の元には、iPhoneユーザーから山のようなメールが届いた。海外へ無料でテキストメッセージが送れる可能性に胸を躍らせる一方、ノキアやブラックベリーの端末を使っている友人にもワッツアップでメッセージを送りたいと訴えていた。

 当時グーグルのアンドロイドOS(基本ソフト)はまだ取るに足らない存在だったため、クームはロサンゼルスに住んでいた旧友のクリス・ファイファーを採用し、ブラックベリー版ワッツアップを作らせることにした。

 「最初は懐疑的だったよ。すでにショートメッセージはあるじゃないか、と」とファイファーは語る。テキストメッセージは国境の壁で分断されている、とクームは説明した。「ショートメッセージはひどいものさ。70年代の遺物であるファクスのような過去の技術で、通信会社の利益のためだけに存在しているんだ」。ワッツアップの驚異的なユーザーの増加ぶりを見たファイファーは入社を決めた。

 エバーノートと同じビルに入居

 クームらはヤフー時代の人脈を通じて、エブリンアベニューの倉庫を改造し、事務所スペースをサブリース(転貸)していたベンチャー企業を見つけた。倉庫の残り半分を占拠していたのは、クラウド型情報整理サービスを開発していたエバーノートで、その後成長にともなって建物全体を使う必要が生じたため、ワッツアップの面々は追い出されるはめになった。

 ワッツアップのスタッフは身体に毛布を巻いて寒さをこらえ、イケアで購入した安い作業テーブルで仕事をした。当時も事務所にはワッツアップの看板はなかった。

 「最初に面接に呼ばれたときには 『エバーノートの建物を見つけて裏にまわり、看板の出ていないドアをノックしてくれ』 と言われた」。初期にブラックベリー担当エンジニアとして入社したマイケル・ドノヒューは振り返る。

 最初の数年を無報酬で働いていたクームとアクトンにとって、初期の最も大きなコストはユーザーに確認メッセージを送る費用だった。ワッツアップはクリックアテルなど最先端のSMS会社を使っており、米国内には1通2セントで送れたが、中東地域には1通65セントかかった。

 今日では確認メールの費用は月50万ドル(約5000万円)にのぼる。当時はこれほどの金額ではなかったが、それでもクームの蓄えは急速に目減りしていった。幸い徐々に収入が入ってくるようになり、2010年初頭には会社の収入は月5000ドルあまり。コストをまかなうことができた。

 アップストアでトップランキング入り

 2人の創業者はときどきアプリを無料から有料に切り替え、ユーザーが急激に増えすぎるのを防いだ。2009年12月にiPhone用のワッツアップをアップデートし、写真を送れるようにしたときには、1ドルという価格を徴収していたにもかかわらずユーザーの伸びが加速し、衝撃を受けたという。「ずっと有料でいけるかもしれない」とアクトンはクームに言った。

 2011年初頭には、ワッツアップは米国のアップストアで、全アプリの中で堂々とトップ20の仲間入りを果たした。スタッフとの飲茶ランチの席で、なぜメディアにこの事実を売り込まないのかと誰かがたずねた。 「マーケティングや広報活動をするとホコリが舞い上がる。それが目に入ると、製品に集中できなくなるんだ」 とクームは答えた。

 ベンチャー・キャピタリストのラブコール

 ただメディアが取り上げなくても、ベンチャー・キャピタリストにはワッツアップが急速に普及していることはわかっていた。クームとアクトンは面会の依頼をすべて断っていた。アクトンがベンチャー・キャピタルの資金は、困った起業を救済するためにあると考えていたからだ。

 だがセコイア・キャピタルのパートナー、ジム・ゲッツは粘り強く、8カ月にわたって様々な人脈を駆使して創業者のどちらかと接触しようとした。メッセージング業界では、ピンガー、タンゴ、バルーガなど10社以上を見てきたが、ワッツアップが主導権を握っているのは明らかだった。

 ゲッツが驚いたのは、ワッツアップがすでに法人所得税を支払っていたことだ。「長年ベンチャー・キャピタル業界にいるが、そんな例は初めてだった」。

 最終的にゲッツはレッドロック・カフェで2人の創業者と面会し、矢のような質問を受け、広告モデルを強要しないこと、そして戦略アドバイザーという立場にとどまることを約束した。その結果、両者は、共同創業者が当初集めた出資金25万ドルに加えて、セコイアが800万ドル(約8億円)を出資することで合意した。

 2年後の2013年2月、ワッツアップのユーザーベースが拡大してアクティブユーザーが約2億人に達したうえ、スタッフが50人になったことから、アクトンとクームは追加で資金調達をすべきだと判断した。

 「保険として資金が欲しかった。人件費が払えなくなるような事態は絶対に避けたい」とアクトンは語る。運送会社を営んでいた母親が、人件費の工面に苦しんで眠れない夜を過ごしていたのを覚えているからだ。

 2回目の資金調達もひそかに行うことにした。セコイアはワッツアップの時価を15億ドル(約1500億円)と評価し、さらに5000万ドル(約50億円)を出資することにした。このときアクトンは、ワッツアップの銀行口座残高のスクリーンショットをゲッツに送っている。そこには825万7000ドルとある。何年も前に集めた資本金を上回る金額が、まだ口座に残っていたわけだ。

 出資を受けて口座残高がさらに膨らんだことから、アクトンは近所で真新しい3階建ての建物を貸し出そうとしていたオーナーに会いに行った。オーナーはワッツアップのことは知らなかったが、資金力がモノを言った。新たな建物は現在建設中で、ワッツアップは社員が100人に倍増する今夏に移転を予定している。

 「 一つのことをきちんとやりたい 」

 2014年2月初頭、クームは愛車のポルシェでこの新本社ビルを通り過ぎ、ボクシングのレッスンに向かった。レッスンには行けないことも多く、この日も遅刻していた。新本社ではついにワッツアップの看板を掲げるのだろうか。「なぜ看板が必要か、わからない。そんなものはエゴを満たすためにあるんだ。ぼくらはみな、職場がどこかわかっているからね」。

 それからサンノゼの目立たない建物の前に車を止めると、カバンを手に薄暗いジムに入っていった。プライベートレッスンの相手はチューインガムをかんでいる小柄なコーチで、その隣の大型のラジカセからは大音量でラップが流れている。

 「ヤンはカニエ・ウエストが好きなんだ」とコーチは微笑みながら言う。コーチが2つのミットを構えると、クームが速くはないが重いパンチを打ちこんでいく。数分おきに休憩をとって座り込み、グローブをはずすと、ワッツアップのサーバーの状態を知らせるアクトンからのメッセージを確認する。

 クームのボクシングスタイルは目的がとてもはっきりしているとコーチは話す。大方の生徒のようにキックボクシングをやりたいとは言わず、ただ正しいパンチが打てるようになることを目標にしている。できるだけわかりやすいメッセージング・サービスを目指すのも、同じことかもしれない。そう聞くと、クームは靴下と靴を履きながら上気した顔で答えた。「そのとおり。ぼくは一つのことを、きちんとやりたいんだ」

( 引用: 日本経済新聞 )

 【 シリコンバレー精神 − グーグルを生むビジネス風土 】


 【 The Very Best of Smooth Jazz Guitar - Acoustic Alchemy "Playing For Time" 収録 】

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2014年02月11日

伝説の経営者たち − ドナルド・トランプ (10)、アメリカの不動産王

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『幸運をつくり出す』

 ここでは非常に複雑な概念の話をしよう。
この概念は、 『幸運』 と呼ばれる。世の中には、他人よりも幸運な人が存在する。たとえば、一部の女性には生まれつき美貌が備わっている。彼女たちは自分では何もしていない。ただ幸運なだけだ。

 一部の人々はあれよあれよという間にビジネスで成功を収める。彼らもただ幸運なだけだ。対照的に、いくら懸命に努力しても、悪い結果しか出せない人々もいる。現実世界には “幸運” のような不条理が、いくつもまかり通っているのだ。

 あるとい、世界有数の実業家である友人がこう言った。
「ドナルド、幸運なんてものは存在しない。人間は自分で自分の運をつくり出してるんだ。」

 わたしは訊き返した。
「 本当に?金は世界一すばらしい国で、偉大な両親の間に生まれた。これを幸運と思わないのか? 君は生まれつき知能が高く、頭の回転も速い。これを幸運と思わないのか。 」

 「 それは違う。運河良いだけの人間もいるのだ。」
結局、頑固な彼を説き伏せることはできなかったが、“他人よりも幸運な人々が存在するというのは、厳然たる事実なのである。”

 たとえば、わたしの親友のビリーはとても運が悪く、事故にとりつかれている。あるとき、私は彼に電話をかけた。 「調子はどうだ?」

 「良くない」 と彼は答えた。
「いったい何があった?」
「肩の骨を折っちゃってね。」

 「肩の骨? どうやったらそんなのが折れるんだ?」
「いや、事故だよ。階段から落ちたら肩がボキッといってね。うっ、今も痛みがひどいんだ。」

 ビリーは入院中だった。見舞いに行くと、彼はベッドでうめいており、彼の妻はその横ですすり泣いていた。目も当てられない状態だった。わたしは彼に言った。

 「ビリー、君はすぐに良くなる。すぐに退院できる。」
じっさい、彼は3週間後に退院した。だが、病院から自宅に戻る途中で、こんどは自動車事故に巻き込まれたのだ。

 高速道路で大型トラックが支柱に激突し、支柱から落下した標識が彼の車を直撃したのだ。こんな話があっていいのだろうか?そう、人間のあいだには、幸運の多寡が存在するのだ。

 10年ほど前、わたいはもう少しで救貧院の世話になりかけた。新聞社の買収に熱をあげるあまり、周りが見えなくなってしまったのだ。わたしはこの取引がすばらしいと思い込んでいた。

 買収によって大儲けができると思っていた。わたしは人に会うたび、この取引の素晴らしさを力説した。最終契約の日程も決定された。しかし、わたしは大事な日を前に、インフルエンザにかかってしまった。

 あまりにも病状がひどかったため、体調が回復するまで契約を延期してほしいと願い出るしかなかった。

 わたしが伏せっているあいだに、新聞社は別の買い手に売却されてしまった。買収は失敗に終わった。しかし、私は運が良かった。なぜなら、現在の新聞社の価値は、わたしの買収予定額を大きく下回るからだ。

 あのまま契約を交わしていたら、莫大な損害を被るところだった。“この例のように、才能より幸運の方が役立つ場合もあるのだ。”

 ちなみに、わたしは20年以上のあいだビジネス界の取引を見守ってきたが、成功するのは常に同じ顔ぶれだ。投資家ではウォーレン・バフェットや、投資会社のブラック・ストーンの創業者、スティーブ・シュワルツマン、「物言う株主」 のカール・アイカーン、企業買収の先駆け者、KKR (コールバーグ・クラビス・ロバーツ) のヘンリー・クラビス、そして百貨店メイシーズのCEO テリー・ラングレン。

 彼らはほかの人々に比べて決して頭が切れるわけではないのだが。。。
しかし、成功するのはいつも彼らなのである。
 

 “自分で自分の運をつくり出す”

 運を向上させたいなら、あなたにもできることがある。プロゴルファーのゲイリー・プレイヤーを見てみるといい。わたしは1978年のマスターズで、彼の優勝シーンをまのあたりにした。彼は小柄ながらも現役中にメジャー大会を9回制覇している。

 彼にはひとつの強みがあった。練習の虫という点だ。ゲイリー・プレイヤーは自分を鍛えつづけた。体格が2倍あるライバルたちが自宅でテレビを観ているあいだもトレーニングに励み、スイングの練習を行い、パットの技術を磨いた。

 彼ほど練習に打ち込んだゴルファーは他にいない。だからこそ、ゲイリー・プレイヤーは3度のマスターズと、数多くのトーナメントに優勝することができたのだ。
「なぜあなたはこんなに幸運なのです?」 と聞かれた彼は、こう答えた。

 「努力すればするほど、わたしの運は上向くんだ。」すばらしい金言だ。

 偉大なるゲイリー・プレイヤーには、いつも“小柄な” という形容詞が添えられた。誰よりも体格で劣る彼は、誰よりも熱心に練習することで、9つのメジャータイトルを手にした。

 ゲイリーが全米オープンに勝った日、彼は5番アイアンでミラクルショットを打ち、ボールをピンそばにぴたりとつけ、簡単に最終パットを沈めて優勝をものにした。インタビュアーは、 「ゲイリー、信じられない。あなたはなんて幸運なんだ。」と言い、彼は

 「努力すればするほど、運は上向くんだ。」と言った。私はこの金言が大好きだ。ゲイリーは偉大な人物である。


 ( つづく ) 
 ( 引用: 『 でっかく考えて、でっかく儲けろ 』 Think Big and Kick Ass in Business and Life )


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2014年02月08日

伝説の経営者たち − ドナルド・トランプ、アメリカの不動産王 (9)

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 “直感に従って進め!”

 あなたは自分の行動を理解していなければならない。自分に自信を持つだけでなく、自分の行動が正しいということを知っておかなければならない。流れに逆らって行動したとき、あなたは最大の成功を手にできる。コンサルタントを雇って法外な料金を支払う人がいるが、あれは時間と金のムダでしかない。

  コンサルタントが報告書を持って戻ってくる頃には、取引はもう死んでしまっているか、誰か他人のものになってしまっている。だから、コンサルタントを必要とするような分野では、そもそもビジネスを行うべきではないのである。

  自分のビジネスを隅から隅まで知り尽くし、あらゆる事実をもれなく把握し、周りの人々の意見を参考にしたうえで、自分の直感に従って突き進むのだ。

 直感は誰にでもある。重要なのは、直感の使い方を知っているかどうかだ。一流大学の卒業証書を持っていても、直感の使い方を知らなければ、トップにのぼりつめるときも、トップの座を守るときも、相当な苦労を強いられるだろう。

 今日では、驚くほど多くの人々が自分の直感を信じなくなっている。生まれ持った自然の直感を遮断してしまっているのだ。

 直感が作用するしくみと理由は、いまだ解明されていない。しかし、あれをすべきだ、これをすべきでない、と直感に教えられる場面はよく見られる。成功を手にした実業家のほとんどは、作用のしくみは理解していなくても、自分に良い直感があることを認識し、大切な決定を行う際に重用している。

 科学者によれば、人間の脳は何らかの方法で、日常生活の中にひそむパターンを感知しているらしい。まったく新しい状況に直面したときも、過去に感知した同種のパターンと照合するため、事前に結果を予測することが可能となるわけだ。

 取引の場数をいやというほど踏んできたわたしは、交渉のあらゆる段階において、微妙なニュアンスの違いを感じ取れる。相手が時間稼ぎをしていたり、相手が本気でなかったり、相手がウソをついたりしていれば、すぐにわかる。

 話がうますぎる場合は、さまざまな兆候から、裏に何かあるなと気づく。相手が弱くなる時期を見はからうことも、相手にとどめを刺す時期を見はからうことも可能だ。

 腹の内部の神経細胞は、直感をつかさどる脳の部位とつながっている、と主張する科学者もいる。実際、わたしは何かが正しい、何かが正しくないという直感を、腹の奥底で感じている。

 無人島や荒野でサバイバル生活を送る番組などのヒット作品を手がけたテレビプロデューサー、マーク・バネットと初めて会ったときも、とてもポジティブな直感が腹の底に走った。この人物となら気持ちよく仕事ができそうだと。

 理由は説明できないが、バーネットがひとりの人間としても、ひとりの職業人としても、100%本物であることが一瞬でわかったのだ。この直感と、しっかりした握手の感触だけを頼りに、わたしは初対面の日にバーネットと取引を成立させた。

 対照的に、確たる理由はなくても、好きになれない人々が存在する。こういう場合は経験から言って、自分の直感を信じ、相手に気を許さないようにするのが得策だ。

 ( つづく ) 
 ( 引用: 『 でっかく考えて、でっかく儲けろ 』 Think Big and Kick Ass in Business and Life )


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2014年01月26日

伝説の経営者たち − ドナルド・トランプ、アメリカの不動産王 (8)

 
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直感に従って進め!

 あなたに優れた能力と頭脳が備わっているなら、直感のままに突き進めばいい。ただし、あなたは流れに乗るのではなく、流れに逆らって進む必要がある。わたしがまとめた会心の取引のいくつかは、常識の逆を行くことで成功に結びついた。

 そう、わたしの行動は多分に反常識的なのだ。不動産業に参入してから最初の5年間、わたしは父とともに、ニューヨークの下町地区で住宅の売買と修繕に打ち込んだ。

その地域でかなりの成功を収めていた父は、決してマンハッタンの物件には手を出さなかったが、わたしは第一線のマンハッタンで不動産開発に取り組みたいと望んでいた。

 周りはみんな反対した。マンハッタンには手を出すな。絶対にうまくいかないぞ、と。資金の余裕はなかったものの、当時、事業は軌道に乗りはじめていた。マンハッタン進出のネックは、現地にコネが全くないことだった。

 1973年の夏、ペン・セントラル鉄道が破産を申請した。セントラル鉄道が整理する資産の中には、西60丁目から西30丁目にかけての廃操車場も含まれていた。わたしは以前からマンハッタンのウォーターフロント地区に着目しており、この広さ40万平米の未開発地区にはとてつもない潜在力を感じていた。

 当時そのあたりは治安が悪かった。木賃宿がひしめき、麻薬ディーラーがうろうろしていたため、住むには危険な場所であるとみなされていたのだ。しかし、わたしの目から見ると、状況の改善はそれほどむずかしくはなかった。

じっさい、数ブロックしか離れていない西48丁目には、壮麗な褐色砂岩の高級住宅が立ち並んでおり、廃操車場の資産価値が高騰するのは時間の問題だった。

 あの土地の再開発がうまくいくわけがないと、さまざまな人がわたしに忠告してきた。まともな頭を持った連中は、廃操車場には見向きもしなかった。当時、市当局は財政難にあえいでおり、開発業者にとっても多難な時代だった。何よりもきつかったのは、新規の建設許可がなかなか下りなかったことだ。

 しかし、わたしは自分の信じる道を突き進んだ。 “わたしの直感は、でっかいことが起こるぞと告げていた。”

どっちにしろ、試してみて損はない。わたしはセントラル鉄道の資産売却の責任者に会い、あの手この手で開発計画を売り込んだ。都市計画法上の認可をとりつけ、地元の住民代表と戦い、市の都市計画委員会と財政監査委員会にも出頭した。

 あとは歴史に残るとおりだ。並行して進めていたコモドール・ホテルの改築プロジェクトも、のどから手が出るほど欲しかった実績をわたしにもたらしてくれた。1974年7月29日、わたしはウォーターフロントの二区画をセントラル鉄道から買い取る権利を獲得した。

 買い取り価格は6,200万ドル (現在の約120億円) 、手付金はゼロという条件だ。この取引が成功した原因は、直感に従って行動したことと、決してあきらめない姿勢を貫いたことだった。 

 次は、“40ウォールストリート” に関する話だ。この72階建ての高層ビルは、1931年にクライスラービルとエンパイアステートビルが完成するまで、世界一の高層ビルの座を守り続けてきた。また、1972年に世界貿易センタービルが完成するまでは、ニューヨークのダウンタウン一の高層ビルの座を守り続けてきた。

 世界貿易センタービルの崩壊によってふたたびダウンタウン一の高層ビルに返り咲いたことは、遺憾というしかない。

 1993年は不況の真っただ中で、“40ウォールストリート” の売値はわずか100万ドル。最近、このビルを5億3500万ドルで買いたいというオファーを断ったばかりだから、とてつもなく安い買い物だったわけだ。とはいえ、この買い物はわたしにかなりのリスクを強いた。

 当時の財政状況では、100万ドルかき集めることも困難だった。さらに、ビルの運営費も修繕費もバカにならない金額だった。

 100万ドルを調達できない、というのは悲しい状況だ。当時のわたしはすっからかんだった。だから、ニューヨークでも指折りの切れ者同業者4,5人に共同出資を呼びかけた。しかし、彼らは “40ウォールストリート” を失敗作とみなし、取引には乗ってこなかった。

 わたしは大手の不動産会社をいくつか回り、提案した。
「 投資額は半々でいい。こっちも50万ドル負担する。 」 彼らにとって50万ドルははした金だったが、それでも提案を受け入れる者はいなかった。

「 あのビルは金食い虫だ。 」 と言う同業者もいた。
「 こんなひどい取引を持ちかけられたのは初めてだ。」 と言う同業者もいた。

 しかし、“40ウォールストリート” は金食い虫どころか、私にとっては金の成る木となってくれた。もしも、彼らに流れに逆らう価値があり、あのときに50万ドルを投資していれば、2億7000万ドル以上の富を手にできたのだ!

 わたしの提案に快く応じたのは、テュッシュマン−スパイヤー不動産のジェリー・スパイヤーただ一人だった。

 だれに何と言われようと、わたしは儲ける自信があった。“40ウォールストリート” は72階建てで総床面積が13万平米。ウォール街に面した店舗スペースを埋めるだけでも元が取れるのだから、勝負に負けようがないのだ。

 しかし、当時その地区の物件はイメージが悪く、 “40ウォールストリート” の真の価値を見抜ける者はいなかった。わたしは自分の直感に従って、なんとか100万ドルを工面した。そして、リスクの対価を手にした。

 私は流れに逆らうのが好きだ。自分に才能があると思っているなら、あなたも直感に従い、流れに逆らってみるがいい。
 
( つづく ) 
 ( 引用: 『 でっかく考えて、でっかく儲けろ 』
 Think Big and Kick Ass in Business and Life )
 

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2013年05月19日

シリコンバレーのIT企業家 (14)

 オラクルの創業者、ラリー・エリソンの伝記をお届けします。
連載は 『伝説の経営者たち』 のカテゴリーからご覧下さい。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 SDLの設立1周年を祝ったちょうどその頃、エリソンはあるものを失った。1978年7月、2人目の妻が結婚からわずか8か月でエリソンのもとを去り、サンマテオ郡裁判所に離婚届を出した。

 このとき、エリソンが頼りにしたのが最初の妻、アダ・クインだった。
「 彼は、嘘じゃなく、毎日のように電話をよこして、なぜうまくいかなかったのか、自分のどこに落ち度があって破局に至ったのか、延々としゃべり続けました。 」

 元妻の弁護士が用意した書類に目を通し、サインをしたエリソンは、ウッドサイドの家とオリンダに建築中の家をとった。離婚から1年間は毎月の慰謝料500ドル、2年目は400ドルといったように、月額が100ドルになるまで慰謝料の支払いを続けることに同意した。二人に子供はいなかった。

 二人に共通する資産にはSDLの株もあったが、当時のSDLにはまだ資産らしい資産もなく、妻のナンシーが株の半分は自分のものだと主張すればそれもできたのだが、裕福な出のナンシーはしなかった。

 仮にしたとすると、後にナンシーが手にした資産は数十億ドルにものぼる。

  プレシジョン・インスツルメンツとの仕事に決着をつけたラリー・エリソンのささやかな会社は、つぎの事業に打って出る潮時を迎えていた。1978年12月、SDLはサンタクララにある緒メックスの社屋を出て、シリコンバレーの心臓部、メンロパークの複合ビルに移転する。

 株式ブローカー、保険業者、ベンチャーキャピタリストが多くを占めるビルへの引っ越しは、首をかしげてみたくなる。ベンチャーキャピタリストから又借りした新興のテナントもあるにはあったが、それを除けば、この建物には設立まもない会社は皆無だった。家賃が高いからである。

 しかし、アダ・クインが言うように 「ビールを飲むお金しかないのに、シャンパンを飲みたがる」 エリソンは、おかまいなしに金を使った。

 SDLにはオメックスから支払われた金がふんだんにあった。しかも、エリソンは羽振りのいい連中がお気に入りだし、ここにいればステータスにもなる。建物はシリコンバレーの緑の丘陵地帯を縫って走る、景色のいいインターステイト208のすぐそばにあり、サンフランシスコから通勤するボブ・マイナーにとってはうってつけだった。

 エリソンは3000平方フィートのスペースを借りたが、そこは、社員が5人で売るべき製品を持たない会社にしては広すぎた。毎度のことだが、エリソンの計画は遠大だった。

 引っ越してから社名もRSI (リレーショナル・ソフトウェア・インク) と変えた。

 「パッケージソフトウェアをつくって、ドーナツみたいに売る。一つの製品を何度も繰りかえし売る。」 という考えに基づき、最初の顧客にCIA (Central Intelligence of Agancy: 中央情報局)だった。

 70年代の半ばにCIAはリレーショナルデータベースを実体験させようと、職員をIBMに派遣した。リレーショナルデータベースを使えば、諜報活動に使う情報分析はもっと早くなるはずだった。

 CIAをはじめとするアメリカのさまざまな情報機関は、テッド・コッドの論文が公にされてから、リレーショナル技術のその後の進展を見守っていたのだ。

 IBMのデモンストレーションを見て目を見張ったCIAは、コンピューターの専門家でもないのに、データベースから情報を引き出せるなんてすごい、とリレーショナルデータベースの購入を決めた。しかし、IBMはまだ出荷の体制が整っていなかった。

 CIAのデイブ・ロバーツはRSIというちっぽけな会社がお目当ての製品を開発中と聞きつけ、さっそく電話を入れると、前職の上司だったボブ・マイナーが出てきたので腰を抜かさんばかりに驚いた。やがてCIAは、リレーショナルデータベース管理システムをRSIに発注し、製品 ≪オラクル≫ 最初の顧客となる。

 CIAと契約を交わしてまもなく、エリソンは IBMバージョンを書くためのメインフレームコンピュータを買いに出かけた。書きかえはIBMマシンに詳しいスチュワート・フェイガンが担当することになっていた。しかし、すぐさまエリソンの前に障害がたちはだかった。IBMマシンを購入するには数か月待たなくてはならなかったのだ。

 救いの手を差し伸べたのはCIAだった。CIAの口添えで、国防に関わる業務の請負業者となったRSIは優遇された。注文の4331はすぐさま到着した。 「どうしてやりくりしたのか見当もつかない」 とフェイガンは語る。

 コンピュータルームに運ばれた新しいマシンは、その後長いあいだ、ほこりをかぶったままとなった。
「まるで肉を保管する冷凍庫みたいでした。ただそこにあるだけでした。」 とある社員は語る。

 IBM4331は 「シリコンバレーにあるもっとも高価なコーヒーテーブルになった。」とべつの社員は打ち明ける。4331が使われなかったのは、≪オラクル≫ の書き換え作業にてんてこまいしていたからだった。実際、書き換えはフォードのキャブレターをシボレーのエンジンに押し込むようなものだった。

 エリソンもマイナーも、こんな応急措置を続けていては ≪オラクル≫ も先が長くないのは知っていた。
≪オラクル≫ が成功するためには、多くのコンピュータが理解できる言語に書き直す必要があったのだ。そして彼らはいくつかの理由から、C言語を選ぶ。

 まず、C言語には各種のコンピュータに対応するコンパイラ (C のような人間が使う言語に近い表現の高級言語をコンピュータが理解可能な機械語に翻訳する働きをするプログラム) が存在する。そして、Cコンパイラは安上がりだった。RSIはここまでは順調に来たが、金のことには慎重を要した。

 ボブ・マイナーとスコットは、バージョン3をC言語だけで書き上げた。そして思わぬ成果を得たのである。いくつものコンピュータ上で走るソフトウェアが誕生したのである。

 「私たちはどんな注文にも応じるつもりだった」 と言うエリソンは、ポータブル (移植可能) なソフトウェアの実用化にはじめて成功したのである。

 ポータブル (移植可能) なソフトウェアづくりを思い立ったのは、そもそもラリー・エリソンではなかったのかもしれない。だが、とことんそれにこだわった彼の手腕は天才的だった。エリソンは ≪オラクル≫ を万能ソフトウェアとして売り込んだ。

 どんなコンピュータをお使いでも ≪オラクル≫ なら大丈夫ですよ、とエリソンは胸を張った。

  ( つづく ) 

 ( 引用: 『 カリスマ、ラリー・エリソン 』 )

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2013年05月03日

 “私利私欲のために働いていたらこうはならない” 米マイクロソフトの最高経営責任者

マイクロソフトがなぜグーグルやアップルやIBMといった名だたる世界の名だたる強豪のひしめく業界で力を落とさずに成長しているかというと、経営陣の危機感の強さにあると樋口泰行氏(日本マイクロソフト社長)が述べています。

 世界長者番付のトップクラスに出てくる経営者の素描を紹介します。

  ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 これほどまでに成長を遂げてきたにもかかわらず、マイクロソフトでは今なお経営陣が危機感を持ち、変革に挑もうとしていることに驚いた。経営に加わって、その危機感がどのような形で経営に反映されているかを次々と目にして、私はさらに驚くことになる。

 創業者のビル・ゲイツは2009年まで、13年連続で世界の長者番付で1位を獲得していた。2010年にトップの座をメキシコのカルロス・スリム氏に譲るまで、世界一の富豪だったのである。

 ビル・ゲイツは、2008年6月にマイクロソフトの経営からは身を引いたが、それまでは第一線で仕事をしていた。私は日本HPの社長時代から面識があったが、世界一の財を得ながらも、エネルギッシュに仕事に没頭する姿には、やはり凄みを感じざるを得なかった。

 もし、私利私欲のために働いていたのならば、絶対にこうはできないだろう、ということである。何しろ、すでに世界一の大富豪なのだ。にもかかわらず、懸命に仕事をするのである。

 服装や食事にも無頓着だ。高価なものを身にまとっているわけでもないし、高級な料理を好むわけでもない。来日したときにも、仕事最優先でファーストフードのハンバーガーで食事を済ませていた。むしろ、それを好んでいる感じすらある。

 ビル・ゲイツにとって重要なのは、創業時の1975年に自ら作った、 “ すべての家庭とすべての机にパソコンを ” というビジョンの実現であり、ビジネスであり、ソフトウェアであり、テクノロジーであり、製品であった。

 彼の関心事は、今は世界レベルでのさまざまな問題の解決や社会貢献活動に移っている。お金を手にいれようが、社会的な地位を手に入れようが、軸はまったくブレていないのだ。

 そして現CEOのスティーブ・バルマーも、一時は世界の長者番付で4位にランクされたこともある富豪だが、まったくそんな素振りは見せない。ソフトウェアの可能性を信じ、製品を愛し、マイクロソフトが好きで、とにかく猛烈に働くのである。

 もし、地位や名誉や富を求めることが目的ならば、あれほどの奮闘ができるはずがない。そしてトップがそうだと、会社全体がそうなるのである。私利私欲のためでなく、世の中をよくするために働くという気持ちになるのだ。

 私はマイクロソフトに来て、本当にそう感じた。

 スティーブ・バルマーに関しては、彼が来日したときに、その仕事ぶりを間近で見た。朝からビッシリとスケジュールが入っていた。さすがに休憩を入れた方がいいのでは、と私も思えるほどの予定だったが、不満を漏らす気配すらない。

 どこに行っても、何をしていても、誰といても、不機嫌な様子を見せたり、イライラしたりすることは決してない。むしろ、すべて全力投球なのである。

 しかも、さまざまな業界について熟知している。たとえば、日本の証券会社のグローバル金融部門の方と一歩もひけを取らないディスカッションをして、その場にいる誰もが驚いたというエピソードもある。

 にもかかわらず、どこに行っても、誰に対しても、常に気配りをする。そして、ほんのわずかな時間を利用して、世界中から来るメールをチェックしている。経営者としての意識の高さ、見識の深さには、感服せざるを得ない。

 さらに、他の役員と同様、出張期間中に土日が挟まっていれば、少しは観光でもするところだが、マイクロソフトではそれはまずない。せっかくだから、美味しいディナーでも、ということもない。時間がもったいないと、会議室で弁当を食べながら、ミーティング等々をするのだ。

 高い社会的地位にいながら、「俺が誰かわかっているんだろうな。」 という雰囲気などまるでない。社員には、自ら積極的に話しかける。しかもバルマーに関しては、驚くべきは、過去に一緒に仕事をしたことがある社員は、顔と名前を覚えていることである。

 「 やあ、○○さん、元気? 」 と社員の名前を呼んで、声をかける。これはビル・ゲイツもそうだったようである。米国本社のトップから直接、名前を呼んでもらって、社員が感激しないはずがない。

 おそらく世界中で最もたくさんのマイクロソフト従業員の名前を知っているのは、かつてはビル・ゲイツであり、今はバルマーかもしれない。どんな従業員がいて、その名前も、仕事も、活躍も、トップは理解をしておかなければならないということなのである。

 ( 引用: 『マイクロソフトで学んだこと、マイクロソフトだからできること』 、樋口泰行 ) 

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