2015年02月22日

元気の出る言葉 (189)

 「眠っている人間だけが間違いを犯さない」

 − イングヴァール・ガンプラッド、IKEA創業者 (スウェーデン)

 家具の王様カンプラードは聡明で型にはまらない経営者だ。リチャード・ブランソンのように、既成の権威に挑戦し、不利な状況にあってもそれをひっくり返すことを楽しんでいる。

 子どものころから勤勉だったカンプラードは、スウェーデンの家具業界のカルテルに挑み、巧みにその裏をかいた。結局は、常にカンプラードが予見した通り、顧客は自分たちの要求を満たす製品だけを買った。顧客が要求したのは、安くて高品質な製品である。

 カンプラードは、フラットパックやセルフサービスといった革新的な手法を打ち出して、一般大衆に価格に見合う価値のある製品を供給し続けた。イケアでの買い物は、家族そろって出かける楽しいイベントになった。しかもそれは郊外型のショッピングセンターが出現するはるか以前のことだった。

 1986年にカンプラードがイケアの経営の第一線から公式に身を引いたころには、小売りの形態を変革し、何千人もの起業家に刺激を与えていた。

 イングヴァール・カンプラードは1926年、スウェーデンのスモーランドにある荒涼とした田舎町エルムタードの農場で生まれた。厳しい環境の中で育っている。1920年代のスウェーデンは、人が育つような環境とはとてもいえなかった。しかし、カンプラードは若者らしい情熱にあふれ、すぐにその豊かな才能を発揮し頭角を現した。

 最初に始めたささやかな仕事は、近所の人たちにマッチを売ることだった。当時5歳だった。それが獲った魚の販売や、採取したコケモモをバスで出荷するビジネスへと進化した。初めてまとまったお金を手にしたのは、園芸用の種子の販売だった。新しいレース用自転車とタイプライターを買うには十分な金額だった。

 1943年に自分の会社を興したとき、カンプラードはわずか17歳だった。それをイケア(IKea)と名づけた(後に文字がすべて大文字に変えられる)。IKは自分のイニシャルから取り、EとAは、自分が育った農場のあるエルムタード、そして生まれ故郷の村アグナリッドから取った。

 1945年には、カンプラードはさまざまな商品を扱っていた。商圏は地元を越えて広がり、郵便での通信販売も始めた。新聞に広告を掲載することによって需要を喚起し、流通の問題は地元の牛乳配達のバンと鉄道網のおかげで解決した。

 ペンや鉛筆、写真フレーム、財布、腕時計など、スウェーデン中のさまざまな商品が国内を行き来した。カンプラードは一日中フルに働き、会社を経営した。1946年に兵役義務を果たし、その後再び事業に専念した。

 カンプラードは1948年、初めて家具の宣伝広告を打つ。家具を販売しようという判断は、もともと、競合している会社と対等に渡り合おうとした結果生まれたものだった。

 家具は地元の製造業者から供給された。価格は安く、順調な販売が期待できた。実際にその通りになり、4年後には他の取り扱い商品からは手を引き、適正な価格の家具と地元の品物だけに専念した。

 1953年までは、通信販売だけで事業を営んでいた。当時の問題は、通信販売業界の競争によって、価格と品質の両方の低下を招いていることだった。カンプラードはいくつかの製品の分野で、でたらめな価格競争にはまり込んでいた。

 競争相手が粗悪品の配送を続けているという事実は、業界全体の評判にも悪い影響を及ぼす。この状況を打開するために、顧客に製品を実際に見て触れてもらうことにした。

 カンプラードはアルムートで廃業寸前の家具店を買収し、イケアは家具店になったと宣伝した。1953年3月18日に家具展示場を新設した。もし顧客がカタログにある製品を直接確かめたいと思ったときには、この展示場を訪ねればよいわけだ。

 それは賭けだった。開場初日、カンプラードは不安な気持ちで一杯になりながら、工場兼展示販売場の扉を自らの手で大きく開いた。その瞬間、目の前に広がった光景に息をのむことになる。そこには少なくとも1000人の人たちが今や遅しと開場を待っていたからだ。客の目当ては、おそらく無料でふるまわれるコーヒーとロールパンだった。

 今日のイケアのビジネスを支えている基本原則が確立したのは、こうした初期のころだった。コストに厳しい姿勢は同社の基本原則の1つだ。カンプラードはひもや箱、紙をはじめ節約できるものは何でも節約した。もう1つの特徴は飲食の提供だ。

 店舗での飲食の提供はコーヒーとロールパンから始まって、今では豊富なメニューを誇るレストランにまで発展しているが、来店客に何かおいしいものを提供するという考え方は、今も昔も変わっていない。

 「お腹がすいたままでは、いい買い物はできませんからね」と彼は言う。
1955年、カンプラードは初めての大きな挫折を味わう。

 イケアの業績は順調、顧客は続々と工場に押し寄せ、注文も増加していた。ところが、業績があまりにも突出していた。カンプラードとまともに勝負できない競争相手は、姑息な手段に訴える。

 たとえば、イケアの取引先の企業が突然、同社に製品を供給するなという圧力を受けるようになった。また、イケアはなぜか家具見本市から閉め出された。あるときなど、カンプラードは見本市会場に入るのに、友人のボルボの後部でカーペットの下に身を潜めなければならなかった。

 製品供給を受けるのが困難になって、カンプラードは自社で家具の設計と製造を手がけることにした。業界の展示会から閉め出されたことに対抗して、自前の展示センターを確保した。競争相手がどんな手を打ってきても、カンプラードは常にそれらを打ち負かした。

 イケアは次々とマイルストーンを打ち立てていった。フラットパックの梱包が1956年に導入され、顧客は買った家具を簡単に自分のクルマに積み込むことができるようになった。

1970年代になるころには、イケアはヨーロッパ全土に店舗を展開する国際企業に発展している。1999年、同社は30ヵ国に150の店舗を持ち、従業員数は4万4000人を記録した。

 現在、カンプラードは日々の経営の仕事から公式には引退している。とはいっても、多くの人々は依然として同社の象徴的指導者だと考えている。莫大な資産を手にしたにもかかわらず─税金や法律上の理由でスイスに住んでいる─カンプラードは、その昔マッチ売りから身を起こそうとした人物と、根本のところでは変わるところがないようだ。

「私の仕事は大衆に奉仕することだ」

「問題は、その大衆が何を求めているのかをどのようにして見きわめるのか、それにどう応えるのが最良なのか、ということだ。私の答えは、常に普通の人たちのそばにいろ、ということだ。というのも、もともと私自身がその普通の人だからだ」

 と言っている。

 カンプラードがコストにうるさいことは有名だ。かつて自分のことを「スウェーデンのけちん坊」と表現した。飛行機はエコノミークラス、食事は質素、服装はカジュアル、そして住まいの近くの市場では値切ることで知られている。

 イケアも同じだ。重役は置かず、組織の階層も最少、広告も少しばかり風変わりである。
 後継者について言えば、カンプラードは3人いる息子の誰かに会社を譲るようなそぶりはまったく見せない。

 「どの息子もこの会社を経営できるほどの力があるとは思えない。少なくとも今までのところはそうだ」
 というもの言いを聞いていると、イケアでまだ自分が重要な役割を果たす余地が残されていると信じているような印象を受ける。

『デザインでリードする』(Leading by Design)と題された評伝の中で、こう言っている。「私の中の悪魔が仕事はまだまだあるぞとささやきかけてくる。……私は決して仕事に満足することはない」

posted by ヒデキ at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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