2015年02月24日

伝説の商社マン 岡藤正広 伊藤忠商事社長 (3)

 自分の成功体験を実践させている

 今年の入社式で、岡藤は挨拶をした。
「新人は来る日も来る日も退屈なルーティンワーク。こんなはずじゃなかったとなる。けれども、ルーティンワークの積み重ねが大きな仕事を成し遂げる土台となる」

 個人の裁量、自由度が銀行よりは大きいと商社を選択し、さらに財閥系には向かないと就職先を伊藤忠に決めた岡藤。ただ、岡藤が入社した数年間は、奥歯を噛み締めるような毎日だった。

 岡藤が任された仕事は「受け渡し」と呼ばれる内勤で、営業が契約した洋服生地の船舶・船積みの指定、お客への配達手配、代金の回収などを行う地味な業務だった。「『受け渡し』を1年で終え、営業に出たものもいる」といわれていたように、受け渡しに携わる期間が短いほど優秀な新人社員とされた。

岡藤は、4年間内勤に従事する。勇躍して入社した伊藤忠で、岡藤は会社社会の現実を思い知った。

「やっていけるのかというちょっと自信喪失みたいなもの」と岡藤は、当時を振り返る。受け渡し業務が3年目を迎え、課長からも「次は岡藤を営業に出す」といわれていたのに、社内の事情で異動がかなわなかったこともあった。

 ようやく4年目をすぎて、営業に出ることが決まるが、岡藤は再び苦境に立たされる。
「岡藤君は受け渡しでは優秀やけど、お客さんとようぶつかっているようですし、営業には向いてないですよ」

 課の会議で、先輩が岡藤に対して公然と異動に反対したのだ。おまえは営業には向いていない、と。ショックを通り越して、呆然とする一言だった。

 「やっぱり自分が頑張らんとね。おふくろの夢みたいなもんもあるますやん」
岡藤を支えたのは、幼少から苦労をかけ続けてきた母を何とか安心させてあげたいという思いだった。歯を食いしばり、考える。どうすれば、認められるか。何が会社に貢献できるか、と。

 たしかに、念願かなって営業に回された後も客とぶつかった。何度となく、客から罵声を浴びせられる。「あんた、もう帰り」「先に別の商社に払うわ」。

 当時の繊維業界は因習にがんじがらめになっていた。手形の支払期限は、180日、240日が当たり前。今では信じられない日数がまかり通っていた。なぜか?伊藤忠が卸した服地は、問屋からテーラー(仕立て屋)に回る。

 テーラーが資金を回収するのは注文された服が出来上がってから、逆方向に支払いが請求される。当時は、テーラーが一着、一着と丁寧に仕上げていたため非常に時間がかかり、手形の支払期限180日は常識とされていたが、商社にとっては相当不利な条件である。

 「営業に出て、僕はそれを改革、改善したんです。それが僕にとっての飛躍の一つになったんですわ」
岡藤が頭を絞って考え、たどり着いた答えが、「伊藤忠だけで扱えるどこでも買えない商品」だった。これまで、主導権を握れないために、利益の薄い商売に甘んじなければならなかった。

 主導権を握るための秘策が「ブランドビジネス」だった。ブランドビジネスとは取り扱う商品に無形資産である「商標」を付けて、販売する行為である。優れたブランドと認識されればされるほど、商品に付加価値がつき、より高い価格での販売が可能になる。

 岡藤が持ち込んだブランドビジネスで、伊藤忠の立場は激変。伊藤忠でしか取り扱えない商品を問屋が仕入れることで、問屋はテーラーに対して強気の商売が展開できるようになった。さらに伊藤忠は問屋に対しても主導権を握ることができた。岡藤が営業に移った2年目のことだった。岡藤はいう。

「やっぱり違うことをせなあかんと。天才的な営業マンなら苦労せんでも売っていける。せやけど、僕は違って客から説教されっぱなしやったから」ここまでの道のりは長かった。

 勇躍と営業に出た1年目に待っていたのは、「東大出てはるの?商売と勉強は違うで」に始まり「そりゃ、勉強通りにはいかんわ」まで、客の所にいけばまずは1時間説教された。

 「いい返したいことは客にいわないで、ノートに書いておけ」
と課長にいわれ、律儀に記し続けた日々もあった。砂を噛むような日々を過ごしながら岡藤は考えた。

 「僕みたいなキャラクターでも商売ができる方法は何だろうか」
岡藤は切羽詰まっていた。お客に儲けさせる方法こそが、自分を認めさせることであると。そう信じて、得意先の一つである「高島屋」に足を運ぶ日々が続いた。どんな客がいるのか。

どんなライバルがどんな商品を持ってきているのか。何が売れているのか。岡藤は現場に足を運んでは観察し、考えた。目をつけたのは高島屋が扱っていた「エマニュエル・ウンガロ」「ピエール・カルダン」である。

「このブランドで生地をやったら絶対に売れる」
岡藤の読み通りだった。ブランドビジネスは、岡藤に活路となった。ところが、社内の軋轢はまだ残っていた。

「腹が立つことはあったけど。自分も自信ないし、頑張らなあかんかった」
岡藤は入社後、逆境の下、学び続けてきた。常に問題意識を持ち仕事をすれば必ず何かが引っかかってくる。それが商売になる。そのためには予習だ。

 「人よりも努力することでしょうな」

当時、孤立無援の中で絶対に失敗できないという緊張感は、岡藤のアンテナを研ぎ澄ませていったのだろう。
「自分の成功体験を実践させている。だから現場だ。だから数字だ。だから朝は早く来いって」

 ”客の立場に立って考え抜いた経験”

 1858年の創業以来、伊藤忠の代名詞であり、屋台骨を支え続けてきた繊維事業。現在その繊維カンパニーを率いる岡本均(専務執行役員)には忘れられない体験がある。岡藤というカリスマの伝説話は、岡本にも伝わってきていた。

 まだ岡本が部長になったばかりの頃、大阪本社での決算会議に出席していたときのことだ。季節は夏。岡藤が社長になって以来、予算会議では厳しいハードルが課せられる。毎月、繊維部門ではその数字を達成するための進捗状況が細部にわたって詰められる。それでも、どうしても下方修正せざるをえない局面は出てくる。

 岡本はそうした局面に追い込まれて、決算会議に臨んだ。岡藤から烈火の如く落とされるカミナリを想像すると身の置き所がなかった。岡藤が座る席の後ろの窓から入道雲が湧き上がり、空は一気に暗くなる。俺の所でカミナリ落ちるかな?と思うと心が沈んだ。

 だが、カミナリが落とされたのは、岡本の次に報告した部長だった。岡藤の数字への厳しさは徹底している。寝る前に決算の数字を確認、朝起きて再び確認するほどで、曖昧さは許されない。さらに岡本を驚かせたのは、交渉が困難に陥ったとき、予算達成が困難なときに岡藤が出す指示の的確さである。細部までここまで考えているのかと。

 伊藤忠にブランドビジネスを立ち上げ、伊藤忠の看板に仕立て上げた岡藤。現在繊維カンパニーでは約150のブランドを扱う。中身を入れ替えて、財産として保持し続けるものを峻別することが繊維カンパニーの財産である。

 岡本にはことのほか、忘れられないブランドがある。トミー・ヒルフィガー。同ブランドの経営権を取得し、売り上げを約4倍に高め、ブランドを確立させたのが伊藤忠だった。

 それが08年、トミーのライセンス供給元の強い意向を受けて、伊藤忠が連結対象子会社トミー社の普通株の一部売却、残る普通株については議決権を持たない優先株に転換し、同社に経営権を譲渡することになった。

 繊維カンパニーの中には、トミーのブランドを育て、売り上げを4倍にした自負もあり、虫のいいライセンス供給元へ怒りの声も聞こえてきていた。

 この経営権譲渡の最前線の交渉に当たったのが岡本だ。複雑さを極める交渉でも、岡藤は一貫して岡本に「弱気になるなよ」と声をかけ、極めて細部にわたる指示を与え続けた。
「ええか、契約の文言にこれは入れたらあかんで」岡藤は、交渉の行方も予言した。

 「もうそこまでいったら決裂や。そやけど、相手がここで折れてくる。折れるんは、こういう理由や」
岡藤は交渉相手の心理を読み、交渉の要諦を押さえる。岡藤にそれができるのも場数と行動、なにより客の立場に立って考え抜いた経験があるからだ。

  「岡藤社長就任からの4年間は、10年分を凝縮したようなダイナミズムとスピード感に溢れるようなものだ」と、ある伊藤忠社員は語る。住友商事を抜いて業界3位を目指すというかけ声も、「それはそうだが、現実には」と他人ごとのようにいう者もいたが、3期続けて住商を上回った今、これを話題にする社員はいない。

 (つづく)

 【 日本の7大商社 − 世界に類を見ない最強のビジネスモデル 】






posted by ヒデキ at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 伝説の経営者たち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック